星座から万華鏡へ ベンヤミンのアレゴリー論

学部三年の夏に期末レポートとして書いたものです。いまみるとかなり拙く、もっと書き込むべきと思いますが、拾っているポイント自体はいまも興味のあることなので、いろいろ読んでからいつか書き直せたらいいなあと思っています。

 

1.はじめに

 

本稿では、ヴァルター・ベンヤミンのアレゴリー論について、『ドイツ悲劇の根源』といくつかのボードレール論を中心に読解する。バロックのアレゴリーを記述する際に用いた「星座」という比喩と、近代のアレゴリーを記述する際に用いた「万華鏡」という比喩に注目しながら、アレゴリーのもつ作用について考察していきたい。

 

2.バロックのアレゴリー

 

 『ドイツ悲劇の根源』の認識批判的序章において、ベンヤミンは理念と事物(=諸現象)の関係を星座と星の関係に喩えている。「この比喩が何よりもまず語っているのは、理念とは事物の概念でもなければ事物の法則でもない」*1ということだ。星座という普遍のものが一つ一つの星によって構成されているように、モナド的理念は個々の諸現象によって構成 されており、ベンヤミンの目的は「諸現象の救出と諸理念の叙述とを、同時に果たす」*2ことである。ここでのモナドという表現はもちろん、ライプニッツに由来する。ライプニッツはバロック時代の哲学者だが、ここで重要なのは、諸々の理念=モナドがそれぞれひとつの世界の像をあらかじめ含むという考え方である。すなわち、この予定調和的な総体性がバ ロックのひとつの特徴である。

 バロックのアレゴリーはまず、象徴との対比において考えられる。ゲーテは、アレゴリーは普遍なもののために特殊なものを求めること、象徴は特殊なもののなかに普遍なものを見ることとした。ゲーテは「文学の本性」を象徴の方に見ており、アレゴリーには否定的な見方をした。ベンヤミンはこのようなロマン主義的な考えに反駁する。クロイツァーは、象徴には「瞬間的総体性」が存在する一方、アレゴリーには「一連の諸契機のうちに時間的進行が見られる」とし、「神話を包括するのはアレゴリーなのであって、象徴ではない」*3とする。ベンヤミンはこの時間性の違いに注目して、「象徴においては、没落の変容とともに、 自然の変容して神々しくなった顔貌が、救済の光のなかに一瞬みずからを啓示するのに対して、アレゴリーにおいては、歴史の死相が、硬直した原風景として、見る者の目の前に横たわっているのである」*4という。バロックのアレゴリーは、キリスト教的世界観の影響を受けながらも、その歴史が「屍体」となってあらわになるような、断片的な廃墟のイメージを見せる。「不自由さ、未完成さ、そして断片性を認めることは、古典主義にはその本質か らして当然拒まれていた。だが、まさにそうした点こそを、バロックのアレゴリーは、そのとてつもない華美にくるんで隠しながら、以前には予感さえされなかったほどに強調しつつ呈示するのである」*5。ここで、最初に提示したライプニッツの神学的な予定調和の総体性からはややずれてきていることがわかるだろう。アレゴリーは予定調和の最善世界よりはむしろ、調和が崩壊した後の断片を示す。それは後述するように、万華鏡のごとき様相を呈することになるだろう。

 

3.モデルニテのアレゴリー

 廃墟をみせる十七世紀バロックのアレゴリーからさらに進んで、近代におけるアレゴリーをベンヤミンは後年記述した。ボードレールの『悪の華』の構造についても、ベンヤミン はモナドという表現を用い*6、いくつかの共通点は見られるものの、「ボードレールのアレゴ リーはバロックのそれと異なり、この世界に侵入しその調和的な形成物を粉砕するために必要であった憤懣の痕跡を帯びている」*7。ここで明確にわかるように、世界の調和を粉砕するような作用をもつものが、近代におけるアレゴリーである。そこで登場したのが万 華鏡の喩えだ。「万華鏡を回転させるごとに、秩序だっていたものが全部崩れて新しい秩序が作られる。このイメージにはそれなりの根本的な正当性がある。支配者たちがもっていたいろいろな概念はいつでも、〈秩序〉のイメージを映し出して見せる鏡であった」*8。万華鏡も星座のように、一つ一つのビーズなどによって構成された模様を見せる。だが、万華鏡は星座と違って、回転することで簡単に模様を変えるものであり、大量生産品である。同一なものの回帰(永劫回帰)ではなく、そのような回帰を同時に中断し、変化させるようなイメ ージを万華鏡に見てとっている*9

 ボードレールにおけるアレゴリーで、最も重要な形象のひとつが、女性の身体である。「両性具有者、レスビアン、不妊症の女のモティーフを、アレゴリー的志向の破壊的暴力と関連 させて扱うこと。まず最初は〈自然なもの〉の拒絶をこの詩人の主題としての大都市と関連させて扱うこと」*10、とあるように、ベンヤミンはボードレールがまなざす女性を アレゴリー的形象としてみている。資本主義の興隆にともなって、女性の身体は自然的「母」 のイメージも保ちつつ、一方で商品化された。街路にいる娼婦たちは、「大量生産品」のご とく皆同じような無個性のものとしてあった。ボードレールはしかし、かのじょたちを擁護 するのでも侮蔑するのでもなく、ある種そこに同化するようなまなざしを向ける。娼婦たちの身体は、有機的で自然的な女性を示さず、フェティッシュに断片化されている。それは、 女性の身体の脱神話化であり、自然なものの廃墟である*11。また、「両性具有者」という言葉 にあるように、女性=子を生むものという既存の意味づけを、アレゴリーは暴力的に露呈させるのだ。そのような女性と廃墟のイメージは、パリの都市のなかで浸透しあっている。都市のブルジョワは、商品の使用価値からは離れて、流行や新しさという偽りの輝きを「鏡と鏡が映しあうように」求める。「万華鏡は打ち壊されねばならない」*12という言葉は、ここで 有効な近代資本主義批判となるだろう。「十七世紀においてアレゴリーが弁証法的イメージ の基準になるとすれば、十九世紀においては新しさがその基準となる」*13。バロックのアレゴリーはすでに、近代へと接続しうる断片的なイメージを見せていたが、モデルニテのアレゴリーは資本主義という新しさを求める価値観によってさらに、自己破壊的作用をももつことになるのである。

 

4.おわりに

 アレゴリーは、全体を構成する「個」の位置付けを探りながら、時間意識のなかでその時代への批判作用を持つものになる。そもそも、近代のみならず、バロックの時代からアレゴ リーの形象を探索するというベンヤミンの試みじたいが、時間の経過のなかで「個」と「全体」を連結させる理論なのだ*14。近代における「原史」の廃墟を見せるアレゴリーは、各々 の時代を批判的に捉えながら、その姿をありありと現前させるのである。

*1:ヴァルター・ベンヤミン『ドイツ悲劇の根源』上巻、浅井健二郎訳、ちくま学芸文庫、 1999 年、33 頁

*2:同書、上巻、34 頁

*3:同書、下巻、27 頁

*4:同書、下巻、29 頁

*5:同書、下巻、48 頁

*6:ヴァルター・ベンヤミン「セントラルバーク」『ベンヤミン・コレクションI』、浅井健二郎、久保哲司訳、ちくま学芸文庫、1995 年、360 頁

*7:同書、382 頁

*8:同書、364 頁

*9:Cf.道籏泰三「万華鏡の粉砕のあとに:ベンヤミンにおける永劫回帰弁証法的イメージ」『ドイツ文學研究』、京都大学総合人間学部ドイツ語部会(39)、1994 年、131-187 頁

*10:ベンヤミン「セントラルパーク」、前掲書、366 頁

*11:ベンヤミン−ボードレールの女性的なもののアレゴリーについて、以下の書を参照。 クリスティーヌ・ビュシ=グリュックスマン『バロック的理性と女性原理』杉本紀子訳、 筑摩書房、1987 年

*12:ベンヤミン「セントラルパーク」、前掲書、364 頁

*13:ベンヤミン「パリ̶̶十九世紀の首都」『ベンヤミン・コレクション』前掲書、 349 頁

*14:この点について以下を参照。檜垣立哉「バロックの哲学」『思想』2013 年 6 月(No.1070)、岩波書店、7-24 頁。

2022-01-15(どうぶつ/空気頭/メレオロジー)

 

 

晦日にSwitchとあつまれどうぶつの森を買いそれをせっせとやりながら、それを買ったことでなくなったお金を稼ぐためにせっせと働いていたら、もう年明けて二週間以上経ってしまった。

このブログはかなり自分の思考のセーブポイントになっているから、もっとまめに書くべきなのだけれど、どうしても億劫で更新がとまるということが多くてそのことがさらにストレスとなるので、メモのようなものでももっと更新できるようにしたい。

 

 


○可能世界論について

野上志学『デイヴィッド・ルイスの哲学』を読んだメモ。へえと思ったのは、ひとつの可能世界はメレオロジー的和で満たされていて、可能世界同士は重ならないということ。では離接的総合というのはどのように考えられるのか疑問に思った。

 

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藤枝静男について

1945年以降に発表された長編をひとつ選んでそれを文学史に位置付けながら論じるという課題のレポートで、最初は中上健次と宇佐見りんとかにしようと思ったけれどそれは授業内で扱われたので、志賀−藤枝−笙野という確実にある私小説の系譜について考えようと思った。いままで文学のレポートは女性作家を扱うことが多かったので男性作家縛りにしようと思ったのもある。

それを考える上で使えそうな本の写真をツイッターにあげたら思いのほかいいねが集まったけれども(そんなに藤枝が好まれているのか?それとも本が積み重なっている写真が好まれるだけか?)、なかでもやっぱり良い批評だと思ったのが、蓮實重彦の『「私小説」を読む』。

これもメモの写真をあげておくが、土地の隆起・陥没、川の分岐というような小説に書かれている地理的な要素と、「私」=「章」とその親族、またその妻の家系的な血の繋がりが、いかに関連して私小説として書かれているかということが美しく書かれてある。

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『機械=身体のポリティーク』に収められている佐藤淳二の「〈差異〉の身体=機械学」はタイトルからして語彙がポモに染まりすぎているのだが、天皇制も絡めて考えたいと思っていたのでその点参考になった。

天皇制といえばということで、渡部直己の『不敬文学論序説』もぱらぱらと読むが、どうも単純に文意が通っていないと思える箇所があり、詳しく検討したいがその時間がない。

それにしても「空気頭」はたいへん不思議で魅力的な小説である。他の作品もよく読みたい。

 


 

あとはプルーストについて書くべきことがあるがそれは次回。

 

 

2021-12-31(年末/まとめ)

もう年をまたいでしまったけれども、去年の良かったものまとめを一応記しておきます。

283冊読みました。

人間の生のありえなさ/脇坂真弥…本当のことしか書かれていません。

房思琪の初恋の楽園/林奕含…三人称多元で書かれた小説としての構成が巧みなぶん、現実にあった暴力の酷さが際立つ作品でした。教師と生徒・学生のあいだでおこる力関係については日本の大学でも度々問題になりますが(わたしの大学生活はそれで少し変わってしまいました)、「文学」としてそれはどのように扱うことができるかということの強力な一つの答えだと思います。

ねむらない樹(特集:葛原妙子)…葛原妙子の短歌になかなかアクセスできてなかったので、この特集や『幻想の重量』(今読んでいるところ)、歌集の刊行は喜ばしいことでした。

問題=物質となる身体/ジュディス・バトラー…この本の訳がでなかったら卒論かけてなかったかもしれないです。

他者の影/ジェシカ・ベンジャミン…おなじく卒論関連で良かった本です。

わたしたちが光の速さで進めないなら/キム・チョヨプ…2021年はわりと意識的にSFを読むようになったのですが、これが良かったのがきっかけということもあります(『三体』は第一巻しか読めてないけれどいつか最後まで読みたいです)。

虚無への供物/中井英夫…有名どころのミステリも読むようにしていました。『すべてがFになる』も良かったですが、やっぱりこれが傑作でした。

海をあげる/上間陽子…いろいろな賞もとった本ですが、読んでいれば否応なくこちらが動かされてしまうような文章の強さがあります。

紙の民/サルバドール・プラセンシア…凝ったギミックが使われながら、単純におもしろい!という感じの小説でした。

本を書く/アニー・ディラード…奥歯の紹介で知った本でした。書くことについて書かれている本はいろいろありますが、そのなかでも特に真摯なものだと思います。

映画

61本しかみれてないです。

シンエヴァロメールの『モード家の一夜』、タルコフスキーの『鏡』がよかったです。

 

買ったもの

Air pods pro…生活必需品になりました。これなしで街を歩けないです。

nintendo switch…12月31日に思い切って購入。よかったかどうかはまだわかりません(飽き性なため)

・マジョマジョの香水…小学生くらいの時からたびたびドラッグストアのテスターをつけてはいい匂い〜とやっていたのですが、買いました。液体タイプの香水は少ないのでいいです。

・サラサナノ…最近好きなペンです。

 

 

その場しのぎで精一杯、という感じの年だった気がします。特に後半は毎日はやく終わってほしいということしか考えられませんでした。2022年3月まではのんびり自由にすごして、4月からはとにかく死なないようにするという感じで頑張りたいです。

2021-12-29(叔母たち/透明)

 

 


乗代雄介の最新の本である『掠れうる星たちの実験』に収められている、阿佐美サーガの書き下ろしの一片「フィリフヨンカのべっぴんさん」には、景子が叔母のゆき江に生前貸した最後の本が『違国日記』の第一巻であることが書かれている。

2020年1月23日の私の日記によると、たまたま書店で買い求めた『最高の任務』と『違国日記』が両方とも叔母と姪の関係を描いた物語であることの偶然に驚いている。

 

槙生ちゃんとゆき江ちゃんって、ちょっと似てない?でも身長がぜんぜん違うね。そんで、ちゃんと友達がいるね。あと、槙生ちゃんは小説家だけど、ゆき江ちゃんは絶対書かないでしょ。でも姪っ子に日記書いたらとか言うのは同じだ。訳わかんないこと言って考えさせるのも一緒。だいたい、叔母って無責任なんだよね。


という言葉を景子はゆき江に直接ぶつけることはなかった。朝とちがって、一人きりで読み、一人きりで書くしかなく、絶対的に取り残されてしまう景子のことがどうにもうかばれないという気がしてしまう。でもまあフラニーが「シーモアと話がしたい」と言うのだって、そのうかばれなさこそが小説の語りの力になるものね。

 

……このような本同士のリンクを読者はひそかにたのしむのだが、本そのものにリンクを貼られてしまうとちょっと拍子抜けしてしまう。乗代雄介はどんどん構造のわかりやすさ、参照項の明快さを心がけるようになってきている気がしていて、「こう読め」と言われているような気がしないでもない。


本同士のリンクでいえば、スタロバンスキーの『透明と障害』をちまちま読んでいる間に伊藤計劃の『ハーモニー』を読んで、これはルソーの目指す「透明」が描かれているではないかと思った。でも「ルソー ハーモニー」でTwitter検索したらツイートがそこそこあったので割とみんな考えることだったっぽい。

2021-12-18(メランコリー/ジェンダー)

卒業論文を提出した。
テーマ自体は一年以上前からずっと変わっていなくて、最初からこういうものが書きたいというヴィジョンがなんとなくあったけれど、それを秩序立てた論文の体裁にするということが難しくてそれなりに苦しかった。でもなんとか書きたいことが書けてよかった。ものすごく丁寧に添削をし、助言をしてくれる先生が現れなかったらたぶん書けなかっただろうと思う。大学で書いてきたレポートは本当に読まれているのか?と思うことも多くて、文章レベルの添削なんてこれまでほとんど全くうけられなかったので、卒論でそういう体験ができたことは本当に良かったし、こういう体験ができるならば大学院に行ってもいいかもしれないなあと思った。
ジュディス・バトラーにおけるジェンダー・メランコリーの系譜学」という題目で、ざっくりいえばバトラーにおけるメランコリーの概念を拾って、バトラーが精神分析フロイトラカンアブラハム&トローク)をどう受け取ってどう批判したのかということを書いた。フェミニズムクィアスタディーズを知りたいならまずバトラーは基本!とよく言われているけれども、精神分析を忌避していたらバトラーの理論は半分もわからない(それなのにあまり論じられない)という実感があり、精神分析が重要だということはわかるけれどどう重要かを理解して書きたいという動機があった。
第一章フロイトのメランコリー論(喪とメランコリー、超自我の問題、エディプスコンプレクス)、第二章バトラーのフロイト批判(ジェンダー・トラブル2-3あたりの議論、パフォーマティヴィティの説明)、第三章バトラーのメランコリー論の展開(ラカンの議論(問題=物質となる身体の第二、三章の議論)、体内化(アブラハム&トローク)とアレゴリー(すこしベンヤミンの話)について、バトラーの倫理論的転回、哀悼可能性、アンティゴネーについて、竹村のバトラー批判など)とざっくりこのようなことを書いた。文字数の割に書きたい内容が多く最初は「アイデアに言葉が追いついていない」と言われていて、完成稿も依然そうだとは思うのだが、でもとくに第三章の議論ができたので概ね満足している。アブラハム&トロークの議論はほとんどだれもしていないと思うし、バトラーがメランコリー(および哀悼可能性)の概念を中心にしながら「倫理論的転回」をおこなったことと、その議論のあやうさ(竹村が『境界を撹乱する』の「暴力、その後」という論文で指摘している重要な論点)などが書けたことは良かった。
わたしはあまり自分のことをクィアと呼ぶに値しないと思っていて、そのような人がバトラーを論じていいのかという迷いはずっとあった。大学一年の時からずっとなんとなく気になっていて、私が書けることがあると思えたのがバトラー、というだけだったし、大学院で同テーマを扱うとなればできないことはない(バトラーが参照している議論は未邦訳のものもたくさんあるのでそれを拾えればよりよくなる気もする)けれど、そんなに私がやる価値があるとは思えない。でもメランコリーは自責の病で、超自我のつよい状態(=社会的な規範性を強く身体化している)を生きている自覚はあるから、それなりの切迫した問題意識はあったと思う。

書き方については試行錯誤の連続で、最後は己の怠惰さを呪い続けた。時間&気分の管理としては、停滞している時は一日の文字数ノルマを決めて無理やり書くこと、論文に関わることに全く触れない日をつくらないこと、机に向かっている時間を計測すること、などがコツだったが、あまり頑張れなかったというのが本当のところだ。書く方法としては、関連の論文や書籍の内容をB6サイズのルーズリーフにメモする、書くべきトピックや文章構成のメモの付箋をつくるなどしたが、とくにこれがよかった!という方法はなかった。たぶん私はアイデア出しとかは得意だけどそれをひとにわかるように論理構成するというのはあまりできなくて、そこをかなり先生に頼ってしまった。アウトライナーは使いこなせなかったので、紙にこまかくトピック分けして書き出してあれこれ入れ替えるしかないのかもしれない。論文を書く機会はなさそうだけれど、このブログで公開できるような自由研究はし続けたいと思っている。ひとにわかるように説明するのは大変だけれど、結局それくらいできるようにしないと理解できたことにならないというのは真理なのだろう。

2021-11-11(ラギッド/misstopia)

 


11/7

朝電話で泣き、行く道でも電車でも泣き、帰り際も泣き、はやく死んじゃいたいとしか考えられなかった。セックスのあいだは全部忘れていた。前の日に何もしない日を作らないほうがいいって書いたばかりなのに何もできなかった。『ラギッド・ガール』最初の二篇を読む。

 


11/8

Amazonから来年の手帳(ミドリの日の長さを感じる手帳)と、セルジュ・ティスロン『家族の秘密』(アブラハム&トロークわからない…と呟いたら勧めてもらった本)届く。今日は昨日ほど気が滅入っていない。というか卒論の作業をしている最中に落ち込んでいることってそんなにないかもしれない。できていないときにダメになるのだ。

卒論はいちおうバトラー論なのだが、精神分析の元テクストの解説部分が思いのほか多い。バトラーの論者は精神分析を忌避するな!という裏スローガン?のもとやっているから仕方ない。今日は狼男のフロイトと、アブラハム&トロークの読解部分。バトラーの著作では狼男なんて影も見えないのに…。五時間ぐらいで身体的に疲れ切ってしまう。目も腰も肩も痛い。ドイツ語の予習一時間弱。落ち込んでなかったのに夜また悲しくなる。これは信用していないとかじゃなくて、ずっと怖いからずっと明日別れるのだと思っている。またひとしきり泣いて寝る。

 

「私が殺したんだ、と気づいたの。私が本を読んで……読みすすめることでミランダは死んだんだ、って。阿雅砂と二度目の対話をしている最中に、突然そう気づいたの。ガンと殴られたみたいなショックだった」

「どういう意味かな」

「私が本をひらくまでは、ミランダは紙に印刷されたただの活字。そのままにしておけば彼女は死ぬこともなかったわ。うかつにも私が読んだりしたばっかりに、彼女は”生きた”」

「”生きた”?」

「そう。本を読んでいるあいだじゅう、たしかにミランダは生きていたわ。私の中でね。でも、読みすすめることで、どうしようもなく、私はじりじりと彼女を死に追いやっていくの。あんなに聡明ですてきな子なのに」すこし涙が出た。「ばかみたい?でも私は気づいてしまったの。小説の酷い場面に眉をひそめている私たちこそが、ほんとの実行犯なのよ」

「死んではいないかもしれないじゃないか」カイルはおだやかに言った。「だってきみはミランダがどんなに生き生きしていたか思い出せるんだろう?ならきみの中にミランダという小さな人格は保存されているよ。もしかしたら、彼女のことを考えていないときでさえ、きみのミランダは意識されないサブルーチンとして、いきいきと思考しているかもしれない」

 


飛浩隆「ラギッド・ガール」

 


11/9

二時くらいに寝て、五時くらいに目が覚めてしまった。腰から首にかけてが痛くて呼吸が苦しい感じ。もう一度寝ようとしばらくぐだぐだしていたけれど、音楽を聴いてもくらげになってみても眠れず、起き上がる。お腹が空いてる気がして卵かけご飯をたべた。八時くらいにもう一度ベッドに入ったらすんなり寝る。しかし二限があるので十時半に無理やり起きる。先週の火曜もまったく同じような感じで眠れず、困ってしまう。なんとか二限でる。ヘルダーリンの詩の訳。ドイツ語を思い出したくてとったけど、あんまり楽しくないので最後まででられるかわからない。授業後何もできず泣きながらバイトへ。雨が上がっていてよかった。2コマ。反抗期の中一女子にあたって疲れる。でも今日で卒論に集中するため一ヶ月ほど休む。

 


11/10

三限にでる。あんまり聞いてなかった。ポケユナにアプデが入って愛するアローラキュウコンが強化され、五連キルできて嬉しい。

そして恵比寿のリキッドルームTHE NOVEMBERSの「Misstopia」11周年記念ライブ。ライブハウス行くの初めてで勝手が分からず緊張していたけど、無事後方の見やすい位置を確保。結構みなリュックとかコートとか持ち込むのね。(まあロッカー400円したし…わたしはもともと身軽だったから使う必要なかったな…とおもった)。ちゃんと真っ黒ワンピースで参戦。

ライブは最高だった…!すばらしい轟音に圧倒された。作風が変わってきたバンドだし、2010年のアルバムだから、もう今ライブ行ったりしても聴けないんだろうなあと思っていたからMisstopiaの曲が聴けて本当に嬉しかった。大好きなアルバム。paraphiliaのほうも、keep me keep me keep meが聴けてよかった。これからも生活のなかでふつうに涙を流し聴き続けるだろう。ライブ行ったら音源のほうがいいなあと思ってしまうバンドも正直あるから、行って良かったと心から思えてほんとうに良かった。理解者とか消失点とか「At the Beginnig」の曲もいくつかやってくれて、ばちばちのシャウトもきけて、でもずっと美しくのでずっと身体が気持ちよかった。踊ってた。自意識とか考えずにただ身を委ねるだけでよかった。

 


11/11

ノベンバききながら大学へ。プルースト演習は二回にわたって担当回。ヴァントゥイユの七重奏の部分で、今日のところはとくにリトルネロっぽい描写でドゥルーズだ!と思った。でもやっぱり単語選択で凝ってるな〜というところが多々あり、解釈の議論が白熱してよかった。こういうふうに小説じっくり読む演習が学部にもっとあったほうがいい。図書館で調べ物するはずが疲れて帰宅。ユナイトはハイパーとエリート行ったり来たりするのが嫌になったのと中毒になっても困るので消した。卒論終わったらswitch買いたいなーと思ってるけど、目これ以上悪くしたくないし、純粋にたのしい!って感じになれないから、どうしようかな…あつ森はやりたいが。『アンチオイディプス』と『左翼のメランコリー』読む。原稿は月曜にストップしたままだ。ドゥルーズとバトラーってやっぱり似てるところあるなあと思う。

 

2021-11-06(視力/見通し)


何度か書こうとはしたけれど、十月は一度も書けなかった。去年もこの時期の更新が全然なくて、悪い季節なのだと納得する。このままずるずると書けなくなっていくのでどんなにつまらなくても書いてみることにする。

 

目を酷使するので視力が落ちてしまった。右が0.5で左が1.0。もっと悪くなってきているかもしれない。右は斜視があるからより疲れやすいらしい。遺伝もあるし、なんとなくまだ大丈夫だろうと思っていた。視力の低下は不可逆なところが恐ろしい。くっきりと見えていた世界はもう二度と見ることができない。考えてみれば世界は不可逆なことで溢れているのに、目という器官に頼り切って、目を通してしか世界を認識していないかもしれないから、それが見えなくなってしまうのは本当に怖い。

 

この一ヶ月はわりと人に会った。私はその人たちの前で身体の硬さを変えた。

 

卒論はこれまで内容についてまったく指導が受けられない状況だったのだが、精神分析が専門のひとにみてもらうことができ、大学生活であんなに望んでいた添削を受けることができ、嬉しい反面、プレッシャーもかかっている。もう少し早く見て貰えばよかった。あと一ヶ月くらいでどこまで辿り着けるのだろう。長い期間をかけて長い文章を書くというのは初めてのことなので、なかなかやり方が掴めず、十月前半は書かなくちゃいけない、でも何にもできない、と本当にうつうつとしていた。いまは、約一時間区切りで一日に三〜五時間程度でやるペースが、集中力の続かない私にとってよいのだとわかってきた。あと一日まったく何もやらない日はもう作らないほうが良い。
本を読むことと書くことのバランスも難しく、最初はいろんな本を読んでばっかりで、どんどん拡散してしまっていた。そのアイデア出しも重要ではあったけれど、セーブポイントとして文章を書くのも大事。論文の文章が書けないときは、せめて重要な文献のレジュメをつくると、自然と文章も進むようになる。ここ数日でわかったことだ。
大学院にいけばいいのに(もったいない)というようなニュアンスで言われてしまうと、もう決めたのだから困惑するけれど、働いてみて、やっぱり研究がしたいと思ったら、いつでも戻れるような状況(語学とか、そもそも文章になれておくこととか)にはしておきたいと思うようになった。でも承認のために研究するようではだめだろう。承認の場があると承認されにいってしまうから、ひとりでやるのがいいのかもしれない。研究のことを神聖視しすぎだろうか。

 

日本のSFの名作が家に揃ってきた。飛浩隆の『グラン・ヴァカンス』はわりと好みの作風だったので(イメージの構築と破壊をやる作品が好きなので)、『ラギッド・ガール』も買った。本当に、つねに論文を書いているような人はどうやっていつ研究に関係ない本を読んでいるのか?今日は四時間近くやってたけど、字数的には1000字もすすまなかった。