2024年1月2月の日記

1/1 Mon

午前中いっぱいだらだらして、昨日の残りを食べ、まただらだらする。寒空の下自転車を漕いで帰るのを見送る。蟹鍋があるというので、実家に食べに行く。泊まれるようにもしていたが、地震のテレビがずっとついているのも父親がいるのも落ち着かず、一時間ほど食べるだけ食べて撤退する。疲れたのか人の少ない電車でぼろぼろ泣き、『雲』を読んでちょっと落ち着く。

1/2 Tue

『セバスチャン・ナイトの真実の生涯』『ブヴァールとペキュシェ』『八面体』を読み、原神ストーリーをすすめ、合間合間にもらってきた松前漬けなどを食べ、酒を飲み、一人の休日を満喫していた。

1/3 Wed

このあいだのノベンバのライブでは、川谷絵音がテレビで喋ったからということでshe lab luckをやっていたが、その時上がった歓声の多さ的に、私と同年代くらいの人は結構川谷氏経由でノベンバを知ったのかもしれないなと思った。たぶんピープルも。

1/13 Sat

8日まで休みを満喫した反動で9日からの仕事がきつくて病んだ。毎日障害起きてるし私責の高いタスクも抱えてたので普通にストレスフルだった。sが家事やってくれたりするから生活はなんとかなってるけど、いなかったらどうしてるんだろうと思う。『鉄鼠の檻』は途中がクライマックスっぽいミステリで珍しい。

 

(労働に飲み込まれた)

 

2/18 Sun

『龍彦親王航海記』を読んで、たびたび引かれていた矢川澄子の文章を読まなければと思い、たまたま古本屋で見つけられたので読んだ。『おにいちゃん——回想の澁澤龍彦』というその本は、自身が強いられた10年の間の複数回の中絶の話題に始まり終わるのだが、もちろん10年間の全てがそれによって否定されるわけではないが、しかし離別するには十分すぎる理由だったことが推しはかられる。わたしは矢川澄子のことをまずギャリコの訳者として(遠子が激奨していたことにより)知った幸福な読者だった。パイプカットの話題が出てくるので調べたところ、10万円もせずできるらしく、ピルを飲み続けるより安いし一回で済むからいいなと羨ましくなった。

2/19 Mon

殺意の14時間労働だった。このあいだ花束みたいな〜を見直したが、パズドラしかできなくなった気持ちもわかる。わたしはなぜかツムツムをインストールしてやっていた。夜になってようやく窓を開けることを思いつく。雨を含んだ風が流れてきて気持ちよく、半袖で寝る。

2/20 Tue

ウィーン・フィルハーモニー管弦楽団, マルタ・アルゲリッチ & ズービン・メータの「Schumann: Piano Concerto in A Minor, Op. 54 & Bruckner: Symphony No. 4 in E-Flat Major」をApple Music Classicalで

2/24 Sat

19日から23日まで、クソバカアホデカ障害のため本当に労働が大変で、5時からやったり23時までやったりしていた。昨日は祝日だったが、5時から9時まで働き、夕方まで寝たらあとはひたすらフォンテーヌの魔神任務を進めた。建物の上下構造を生かしたストーリーで面白い。スメールは螺旋的な話で、スメールシティも螺旋構造になっている。原神は、神と国が600年前の魔神戦争でいちど滅びたあとの土地で、再びそれぞれ神の国を建設し、それもそれなりの歴史ができたが綻びもできてきたところを、主人公がその災厄の間に失ったであろう兄妹をもとめながら旅する、というストーリーになっている。戦争前後とそれぞれの国で神のあり方が多様なのが独特で面白く、そして神を信じられない国であるカーンルイアが最終的にキーになってくる。今日はsが眼鏡を選ぶのに付いていく。奇抜っぽい眼鏡も似合うのですごい。眼鏡の似合う似合わないというのは何で決まるのだろうか。目と目の距離、上瞼と眉毛の距離が重要な気がしている。わたしは道中で見つけたちいかわのタオルハンカチを買った。デパ地下惣菜を買って、帰宅。

2/25 Sun

冷たい雨。昨日三つ目の本棚を組み立ててもらった。薄型の突っ張る本棚でそこそこ入るだろうと思っていたのに、元の本棚から溢れた分をいれたら95%くらい埋まってしまい、やや悲しい。また作り置きを作ってもらい、映画に行く。私はsを使役させすぎではないだろうか?と問うてみるものの、好きでやってるからいいのと丸め込まれてしまう。ユスターシュの『ぼくの小さな恋人たち』『わるい仲間』『サンタクロースの目は青い』を見た。初期の三作で、ヌーヴェルヴァーグ的な意匠だと理解できるものの、あまりにも非モテ童貞な男の子たちなので、ちょっとつらい。カフェや家の扉を開け閉めする場面が多かった気がする。

2/26 Mon

生を演劇として生きるというテーマは、物語でたびたび取り入れられ、ある種メタ的な奥行きをもたらすが、このあいだみた『覇王別姫』と、今日やったフォンテーヌの魔神任務はとてもよかった。演劇見にいきたいのだけれど、週末に行くには二日のチャンスしかなく、なかなか難しい。

2/28 Wed

たとえばこうです。小説が始まって以来、その書き手が「私」はといってしゃべり始めるのが小説の歴史の主流、自分もその語り方で書く。それなら小説に書かれているどの人物よりも、書いている「私」が長い間しゃべることになって当然じゃないか?長江の小説の「私」は、自分の書く登場人物の誰より長生きするつもりらしい、あれだけの老人になっても、という悪口はこの前イタリアの女性ジャーナリストの問いかけにもあったけれど、無意味じゃないだろうか?

そうかもしれません、確かに小説家には小説論的に生き死にする自由があるのでしょう。しかしアカリさんと私は、いまそれぞれの、これからの「新生」を実感しています。そして私たちは、原則的にパパの死後も生き残る覚悟です。

『晩年様式集』の一節だが、小説家にここまで書かれてしまったあと、大江の死後に何か書くということはするのだろうか。