2022-01-15(どうぶつ/空気頭/メレオロジー)

 

 

晦日にSwitchとあつまれどうぶつの森を買いそれをせっせとやりながら、それを買ったことでなくなったお金を稼ぐためにせっせと働いていたら、もう年明けて二週間以上経ってしまった。

このブログはかなり自分の思考のセーブポイントになっているから、もっとまめに書くべきなのだけれど、どうしても億劫で更新がとまるということが多くてそのことがさらにストレスとなるので、メモのようなものでももっと更新できるようにしたい。

 

 


○可能世界論について

野上志学『デイヴィッド・ルイスの哲学』を読んだメモ。へえと思ったのは、ひとつの可能世界はメレオロジー的和で満たされていて、可能世界同士は重ならないということ。では離接的総合というのはどのように考えられるのか疑問に思った。

 

f:id:kayanohiyu:20220116020029j:image
f:id:kayanohiyu:20220116020032j:image
 

 

 

藤枝静男について

1945年以降に発表された長編をひとつ選んでそれを文学史に位置付けながら論じるという課題のレポートで、最初は中上健次と宇佐見りんとかにしようと思ったけれどそれは授業内で扱われたので、志賀−藤枝−笙野という確実にある私小説の系譜について考えようと思った。いままで文学のレポートは女性作家を扱うことが多かったので男性作家縛りにしようと思ったのもある。

それを考える上で使えそうな本の写真をツイッターにあげたら思いのほかいいねが集まったけれども(そんなに藤枝が好まれているのか?それとも本が積み重なっている写真が好まれるだけか?)、なかでもやっぱり良い批評だと思ったのが、蓮實重彦の『「私小説」を読む』。

これもメモの写真をあげておくが、土地の隆起・陥没、川の分岐というような小説に書かれている地理的な要素と、「私」=「章」とその親族、またその妻の家系的な血の繋がりが、いかに関連して私小説として書かれているかということが美しく書かれてある。

f:id:kayanohiyu:20220116020507j:image

f:id:kayanohiyu:20220116020512j:image

 

『機械=身体のポリティーク』に収められている佐藤淳二の「〈差異〉の身体=機械学」はタイトルからして語彙がポモに染まりすぎているのだが、天皇制も絡めて考えたいと思っていたのでその点参考になった。

天皇制といえばということで、渡部直己の『不敬文学論序説』もぱらぱらと読むが、どうも単純に文意が通っていないと思える箇所があり、詳しく検討したいがその時間がない。

それにしても「空気頭」はたいへん不思議で魅力的な小説である。他の作品もよく読みたい。

 


 

あとはプルーストについて書くべきことがあるがそれは次回。