2021-02-14(欺瞞/不毛/共同体)


戦争を知らない

 四時間目、修学旅行の作文の発表会だ。わたしたちは先月、三泊四日で広島・長崎をめぐる修学旅行に行き、その感想の作文を書かされていた。広島・長崎という場所設定には大人の思惑を感じずにはいられなかった。
「みなさんは、鉄腕アトムを知っていますか。」
花岡さんの発表が始まった。花岡さんは白くてすべすべした肌にさくらんぼみたいな瞳をもち、長い髪はいつもさらさらで耳上のところからきっちりと編み込んでハーフアップにしている。優等生タイプの子で、もし花岡さんが死んだら、いつも明るく挨拶をしてくれて素直でいい子だったのに…みたいなコメントを近所のおばさんからもらえるだろう。
鉄腕アトムは、もとは手塚治虫の漫画で、そのあと1980年ごろにアニメとして放映されました。アニメや漫画を見たことがなくても、歌を聞いたことがある人は多いのではないでしょうか。アトムはその名の通り、原子力で動くキャラクターです。私の父がアトムを好きで、小さい頃から家ではたびたびビデオが流れていました。7つの能力を持ち、強くてかっこいい正義のヒーローのようなアトムに、私は憧れのようなものを持っていました。しかし、今回の修学旅行で原爆ドームを目の当たりにして、その考えは変わりました。なんの罪もない人々が原子爆弾ひとつであんなにも無残に殺されてしまうこと。その現実が強く私の胸に迫ってきたのです。正義のヒーローのアトムは人を殺すエネルギーと同じもので動いている、というアトムの暗い面も見なければならなかったのではないか、そう思いました。私たちは戦争を経験していませんが、無関心ではいけないと思います。まずは戦争や原爆の悲惨な事実を十分に知り、周りの人や未来の子供に伝えていくことが大切だと思います。みなさんも積極的に学んで伝えていきましょう。これで発表を終わります。」
原爆ドームを見ただけで戦争の悲惨さを訴えかけられる花岡さんの無邪気さに、わずかな羨望とほとんど吐き気のような違和感を覚えた。それにしても、なんて先生ウケする作文なんだろう。呼びかけから始める、経験をもとに自分の感情の変化を書く、社会に対する意見を述べる、いい作文のポイントを完璧におさえている。後ろのロッカーの近くにたつ先生をちらりと見ると、にっこりとして頷いていた。
発表を終えて満足したような表情を浮かべる花岡さんに拍手を送りつつ、感想シートに「わたしも戦争は許されないことだったと思います。同居している曽祖父が戦争を体験しているので、もっと話を聞いて、わたしが後世に伝えていきたいです。」と丁寧な字で書いた。

 

 

 一年の時に授業の課題(鉄腕アトムに関する詩を三つほど読んでなんか書く、というもの)として書いた拙い文章だが、これを読んだ人たちは皆、身に覚えがあると口にしていた。正直に書いてしまった不器用な(『最愛の子ども』の)真汐は職員室に呼ばれる羽目になった。
 私たちは全く思ってもないことをいとも簡単に語ってしまえ、いくらでも偽ることができ、やがてそれを自分のほんとうだと思いこむ。告白という制度が告白される内容を偽装すると言ってもいい。さらに他人の言葉までを、タイムラインやコメント欄の言葉をそのまま自分のものとしてあっさり引き受けてしまう。zocの動画のコメント欄を閉じたのは、自分の言葉で感想を持って欲しいからだと大森靖子が言っていた。至極真っ当なことだ。
 成績を枷にして書かされる文章の欺瞞と紋切り型にあふれた醜さは、学校を離れても蔓延っている。「たたかれるから」(あるいはもっと悪い場合「売れるから」)と「流行りのジェンダー」に「配慮した」ものを作ることができる。何にも知らなくてもハッシュタグで連帯の意を示すことができる。その論理は戦争プロパガンダと同じである。
 日記という本来他人の目から隠匿される場でさえも、そこに嘘のにおいをかぎとった(『違国日記』の)朝は、「自分に偽りなく書く」ということがわからなかった。

 

 本当の言葉で話がしたい、と思ってきた。本当のことをいうのは消耗する。私の本当を否定されると傷つく。だから偽のことを書き話し、感覚を鈍麻させる。そうすると、槙生のように「いいことにも悪いことにも心があまり動かな」くなってしまうのかもしれかなった。

 

フェミニズムに関してはあまり語りたくありません。私の知る限りこれくらい不毛な議論もないからです。わかる人には言わなくてもわかり、わからぬ人にはいくら言ってもわからないのがフェミニズムであります。あきらめるわけではありませんが、それより他に言いたいことは多々あるものですから。

 

ですぺら掲示板の二階堂奥歯の書き込み(2001年10月31日)

 

20年経ち、奥歯は今を生きていたらどう思うだろうか。

案外ツイッターはわからぬ人にリーチしうる場として機能することもあるかもしれない。不毛さにめげずに戦ってきた人々のおかげで今があるのだと思うし、たとえば『違国日記』は漫画だから普段本を読まないひとにも届く力がある。

 

でももっと遠くの世界がみたい。

 

二階堂奥歯なる私」など社会的な約束事に過ぎず、「思考者」(いや、「者」が邪魔ならいっそ「思考」でも「思惟」でも)は無名です。名前、自己同一性、そんな重いものを引きずっていたらどこにも行けません。言葉を軌跡としてただ飛べばよいのです。

 

脱自–恍惚の思考を展開したバタイユにナンシーが見出す共同体とは、人は実のところ一人ではおのれの死を完了しえないという点に存しており、似た者同士でありかつそれぞれ特異存在でもある人間の有限性が、つねにすでに分有されているという事態にほかならない。成員の死に意義を与えて回収する共同体ではなく、むしろ死こそがそもそも共同体的なのだ。「共同体は有限性を露呈させるのであって、その有限性にとって代わるものではない」と記すナンシーは、ブランショの語彙を借りつつ、「共同体は、ブランショが無為と名づけたもののうちに必然的に生起する」と述べる。有限性の分有としての共同体はそれゆえ、企てや意志などとは無縁であり、何一つ生み出しはしない。
ナンシーはこのようにバタイユを読解しながら、全体主義の猛威を経た時代にあって共同体を無為の共同体として思考する。ところがナンシーによれば、バタイユは、ファシズムコミュニズムの時代のさなか、脱自的コミュニケーションにおける主体をめぐる思考を躓きの石として、脱自と共同体との二つの極に宙づりにされたまま、「本来の意味での共同体を思考するのを諦めた」という。

 

安原伸一朗「フランス的、たぶんフランス的な」『モーリス・ブランショ 政治的パッション』所収の訳者あとがき、144頁

 

2021-01-23(練習/生きる/亜美)

したがって、問いに応答するゲームとしての詩作は、自己表現というより自身のプレイヤーとしての能力を試し鍛える「練習」のようなものである。もっとも、詩作を「練習」と見なすといっても、それはもちろんヴァレリーが自身の詩の質に関して無頓着であったということを意味するわけではない。上の引用にあるように「練習」として詩を作るとは「即興に抗う」ものでなければならず、一歩一歩、一語一語、語を置きつつそれを条件と照らしあわせるという、そのつどそのつどの判断が要求される作業である。詩を「装置」として完成させなければならない以上、ヴァレリーはその装置としての完璧さを求めていたし、だからこそなかなか詩を完成させられないこともしばしばだった。ここで「練習」とはあくまで自己表現との対義語として、むしろ自身が試されるような行為を指すとみなすべきだろう。
 みずからの行為を「練習」とみなすこと、つまり自分の書いた語を、自分の実存と結びついた必然的な表現とはみなさないことは、逆に偶然思いついた表現をあたかも自分が選んだ語であるかのように積極的に引き受けていくことにもつながる。[…]プレイヤーとして振る舞うかぎり、個人的な記憶と密接に結びついた語であろうと、反対に喚起力の弱い語であろうと、詩人はあらゆる語をただの駒として、自分から距離をとって扱う。偶然思いついた語であっても、それをひとつの条件として「在るもの」として引き受けなければならない。そうであってこそ、「練習」としての詩作の価値は増すだろう。


伊藤亜紗ヴァレリー 芸術と身体の哲学』、講談社学術文庫、137-139頁

リフティングをするサッカー少女の亜美と風景をちっちゃいノートに書き留める小説家の「練習の旅」を描いた、乗代雄介『旅する練習』のためにあるような文章だったので思わず長く引用している。

「そういう生き方をしないと死ぬから、カワウはみんなそうやって生きられる」そう言うことで溢れた感慨が「うらやましいな」と口をついた。
「人間は無理?サッカーをするために生まれてきたみたいとかよく言うじゃん」
「やらなくても死なないから」
「小説を書くのもそう?死なない?」
「死なない」
そうでなかったら、つまり書かなければ死んでしまうとバカらしい気負いでなく自然に受け入れられたら、カワウのようになれるかも知れなかった。

 一年前の日記には彼の小説を読んでもとくにぴんときていない(それもそのはず、それ以前の阿佐美景子の物語を読まずにいきなり『最高の任務』を読んでしまっていたから)様子の私が書かれているが、今ではすっかり熱心な読者といってもいい。「本番」のある音楽の習い事をずっとしていたから、一回きりの本番のために毎日の練習があることを、同じく母の母にそう言われてきた母は私に教えた。楽器をやらされているという意識はなかなか払拭されなかったが、毎日決まった量の宿題をする公文の教室は自分にあっていると感じていて、期限ぎりぎりまでレポートが書けない今となっては、素直に練習こそが生きることなのだと思える。練習に生きることは、その完成、あるいは本番に生死を賭けないということであり、生き延びるための健全な方法だ。
そういう意味では、「推しは命にかかわるからね」と言い、

とにかくあたしは身を削って注ぎ込むしかない、と思った。推すことはあたしの生きる手立てだった。業だった。最後のライブは今あたしが持つすべてをささげようと決めた。

これほど入れ込んでしまう、宇佐見りん『推し、燃ゆ』のあたしはかなり危ういと言っていいだろう。一度死に、「余生」を過ごすあたしがそれでもどうやって生きていくのか(けろりとまた新たな推しを見つける、ということもありうるかもしれないが)みてみたい。

 

2021-01-16(エゴ/鏡/エゴ)


 書くかどうか躊躇われることを、これから書く。


 ネットをやると、いかに自分がありふれているか、替えのきく存在かということがよくわかる。好きなものの共有が、コミュニケーションの手段となっていることも、それによってもっと良いものを知るときがあることも、ゆるやかな繋がりみたいなものが生まれることが現実からの逃げ口となってくれることがあることも、知っている。固有名詞を介して発言しているのだから、好きな作家や音楽家がかぶることはそう珍しくない。むしろ、同じものを好きな人が集まっているといってもよかった。それが一般にメジャーなものでない場合、喜ばしいと思うべきだった。それにしても、あまりにも似すぎていると思う人にすれ違ってしまったときに感じたのは、はっきりいって、気味の悪さだった。選ぶ本があまりにも似ていた。ツイッターはそのいいね欄やリプライからその人の見る世界を一部見ることができるが、いちばん不快であり不気味だったのは、彼女がいま付き合っているであろう人物が、私が高校生だった時にわりと親密な人であったことだった。茅野という名で呼ばれていた人物が急に私と触れてしまったことが、そしてその鏡写しのような人物がいたことが、大きな衝撃だった。内容だけでなく形式もよく似ていた。ここで日記を書いたり、他人の言葉を引用したりするのすら、同じだった。すべて後追いしているのは彼女の方に見えるが、そう考えてしまうことも、何よりそのことにこだわる自分のことも何もかも不快だった。過去形にしたがいまも不快である。何も見なかったことにして内にしまっておけずに、こうして書いてしまうことも。でも書かないと腐ってゆくと思った。
 実際の知り合いとネットで接触しないようにあんなに気をつけていたのに、あまりにも偶然で防ぎようがなかったとはいえ、もうネットを現実の私と切り離された安全な場所と見なすことはできなかった。たとえアカウントや名前をかえて転生しても、また同様のことは起こりうる。もう知らなかったことにはできないのだから、私はひたすら先へ、みえないところへと急ぐ。

 

〈語ること〉の極度の受動性。その最後の避難所においてさえも、〈語ること〉は他人にさらされ、忌避しえない仕方で徴集される。自己にくり返し転落する確信とは逆に、唯一性は、自己との非合致、自己に休らわないこと、平穏の不在をつうじて意味する。自己同定することも知に対して現れることもなく破産する痛点なのだ。[…]私と命名される何かが存在するわけではまったくなく、「私」は発語する者によって語られるのだ。代名詞は発語する唯一性をすでに隠蔽し、ある概念にこの唯一性を包摂し、唯一者の仮面ないしペルソナしか指示しないのだが、概念から逃走する私、言い換えるなら、一人称で語りながらも決して名詞に転換されることのない私はかかる仮面を打ち棄てる。一人称で語るこの私はなぜ名詞に転換されないのか。それは、この私が徴しを贈与することで与えられる徴しだからだ。


エマニュエル・レヴィナス存在の彼方へ』、合田正人訳、講談社学術文庫、144頁

 

エゴ、エゴ、エゴで、もううんざり。わたしのエゴもみんなのエゴも。誰も彼も、何でもいいからものになりたい、人目に立つようなことかなんかをやりたい、人から興味を持たれるような人間になりたいって、そればっかしなんだもの、わたしはうんざり。いやらしいわ——ほんと、ほんとなんだから。人が何と言おうと、わたしは平気。

 

サリンジャーフラニーとゾーイー』、野崎孝訳、新潮文庫、38頁

2021-01-14(湖/日記/オフィーリア)

 彼らは独自の境界線の内側に潜んでいますが、孤立しているわけではありません。私の心の中にある湖に、各々ボートに乗って浮かんでいます。縁に立てば、一目で輪郭をたどれる、池と見間違うほどの湖です。とは言え、ボートがぶつかり合うことなく自由に漂ってゆけるほどの広さは保たれています。波はなく、湖底は深く、水は薄緑色です。
 どんな水路ともつながっていない、ぽっかりと宙に浮かんだような湖なのに、彼らがどこからどうやって集まって来たのか、私にも分かりません。[…]
 いわば湖は私の友人たちを招き入れるための小部屋です。親しみを感じ合えるもろもろを図柄にした切手の収集帳です。あらゆる言葉を受けとめてくれる日記です。
 まぶたを閉じ続けると決めた時、今、自分の湖に自分のボートを浮かべたのだと分かりました。自分でこしらえた小さな湖に、自分を閉じ込めたのですから、何の不安を感じる必要もありません。そこは懐かしい場所です。きっとアンネは私の日記を読んでくれるでしょう。

 

小川洋子堀江敏幸『あとは切手を、一枚貼るだけ』(引用は小川洋子の文章)

 

どこにも水路がない湖は放っておくとどんどん澱んで、鳥も寄り付かなくなり、浮かんでいたボートは藻に絡んで身動きがとれなくなってしまう。浄化するには、逞しい生命を新たに迎えてすこしずつ澱みを吸収してもらうしかない。私の湖ではオフィーリアは自らの意志で眠るように死ぬだろう。

 

のぞきこむだけで誰もが引き返すまみの心のみずうみのこと

 

2020-12-29(年末/まとめ)

今年ももうおしまい。ちなみに去年のまとめはこちら。

 

 

  

小説部門


完全版はこちら

茅野さんの2020年読書まとめ - 読書メーター

 *ナタリー・サロート『子供時代』(湯原かのこ訳)
…ルリユール叢書のピンクとブルーの装丁がかわいい。幼年(enfance)文学の系譜(ウィティッグ、金井美恵子黒田夏子江國香織…)がなぜか好きなんだ。

エリック・マコーマック『雲』(柴田元幸訳)
…もっとものめり込んで読んだ本かもしれない、一日で読み切ったし。読書に現実逃避を求めてるからどうしてものめり込めると好きになってしまう。復刊された『隠し部屋を査察して』もよかったけれど、長編の方が好きだった。『雲』も文庫化に期待!

*ロベルト・ボラーニョ『野生の探偵たち』(柳原孝敦・松本健二訳)
…はらわたリアリストに俺もなる!

*シャーリィ・ジャクスン『ずっとお城で暮らしてる』(市田泉訳)
…呪詛とシスターフッド

*トーマス・ベルンハルト『破滅者』(岩下眞好訳)
…こちらも呪詛。

パスカルキニャール『音楽の憎しみ』(博多かおる訳)
…なにかと引用してる気がする。

アンナ・カヴァンアサイラム・ピース』(山田和子訳)
…小林美代子の『蝕まれた虹』も良かったが、やはりイメージの美しさでこちらを。

マルセル・プルースト失われた時を求めて』(鈴木道彦訳)
…二月から読んでて今は「囚われの女」。完読いけるんじゃないか?私もかなり嫉妬深い方だと思うが語り手にはかなわない。

津村記久子『君は永遠にそいつらより若い』
…『ミュージック・ブレス・ユー』でも号泣した。魂を高潔に。

恩田陸『三月は深き紅の淵を』
…これものめり込む系。先へ先へと読ませる文章が本当に上手

高橋たか子『誘惑者』
…めずらしく眠れなかった一晩に読んでいた。ここに書かれている自意識のことすごい知ってる。二階堂奥歯のことも、もうずっと私の中にある。

*『小川洋子の偏愛短篇箱』
小川洋子は名アンソロジスト。内田百閒アンソロも良かった

*『日本SFの臨界点 怪奇編』
石黒達昌の「雪女」が特に好きで、彼の他の作品も読んだが全部良かった。アンソロジーっていいね。

 

非小説部門


吉野朔実『少年は荒野をめざす』
…知ってる人からしたら今更?と思われるでしょうが(というか本も映画も全般的に全然最新を拾っていないのだが)、本当に大好きで、大袈裟かもしれないけどこのような作品が世界にはあるということが救い。

桜庭一樹桜庭一樹読書日記』
…私の中の文学少女部分を掘り起こしてくれた。ブックガイドとしても大変優秀。

ヤマシタトモコ『違国日記』
…年始の方の記事に結構書いたけど、微妙なところを全方位的にうまく描いているね…と感心してしまう。

近藤聡乃『A子さんの恋人』
…5巻くらいから急に芸術とは…人生とは…みたいになって、三角関係がどうなるかより生きることのめんどくささといかに折り合いをつけるかということをわかる人にはわかる(と思わせる)ディティールで示してくれます。一回くらい中央線沿線に住んでみても良いかもな。

芳川泰久ボヴァリー夫人をごく私的に読む』
…これは名著。自由間接話法についての記事書く書く言ってて結局書かなかったね、そんなのばっかりです。

山本貴光『マルジナリアでつかまえて』
…対面授業だったころ、好きな先生が自分の書き込み入りの本のコピーを配ってくれていて、それを舐めるように読んでいたものでした。マルジナリア大好き。

*今福龍太『伝奇集 一冊の本』
*三島芳治『児玉まりあ文学集成2』
ボルヘス愛の二冊。ボルヘス自身の文章が好きかと言ったらそこまででもないが、バベルの図書館の発想とそれに影響された人やものは好き

*川野芽生『Lilith
…今年は現代短歌クラシックシリーズをはじめ、歌集を結構買いました。ただすべての(?)大元の葛原妙子と塚本邦雄は持ってなくてダメなんじゃないかと思う。

金井美恵子『目白雑録5』
…こういう批評をかける人間になりたいような、なりたくないような

* クリスティーヌ・ビュシ=グリュックスマン『バロック的理性と女性原理』杉本紀子訳
…興味範囲をうまく繋いでくれるような本だった。

 

映画


映画に関しては、去年後半から見始めました、みたいな感じでベストを挙げるのが躊躇われるが、そう考えだすと何も言えなくなってくるので、思うままに見て良いと思ったものをあげます(完全版はTwitterにあげた)
西鶴一代女溝口健二…正月の松竹で見た。圧倒

*ダゲール街の人々/アニエス・ヴァルダ…正月のイメージフォーラムで見た

*動くな、死ね、甦れ!/ヴィターリー・カネフスキー…まずタイトルが最高

トーク・トゥ・ハーペドロ・アルモドバルピナ・バウシュのカフェ・ミュラーが見られる

*COLD WAR/パヴェウ・パヴリフスキ…今年見た映画で一番良かったかもしれないが、その良さを共有すべきでない人に共有してしまったため後悔している

緑の光線エリック・ロメール…共感100%でみてた

インディア・ソングマルグリット・デュラス…ブルーレイ欲しい

*白痴/手塚眞…トラウマ的映画

 

 

音楽


*Sea change/作曲:R・R・ベネット、演奏:ジョン・ルッター&The Cambridge singers…一番聴いたアルバムかもしれない。表題作の後のA Farewell to Arms からが本当に良いです。今年は全く人前で演奏する機会がなかった。習い事の発表会とかもいれたらそんなの3歳ぶりとかかもね。

*アダンの風/青葉市子…コピーするようになってなおさら、ギターも歌唱も技術が素晴らしいことがわかる。生のライブ聴きたい。

*echo/Plastic Tree…急にはまり、サブスクもこれとインクしかないので、久々にツタヤで借りたりCD買ったりした。

aiko全般…サブスク解禁されたときたくさん聴いていたらしい。カラオケ行きたい。
*zocの曲…ソロ曲含め、秋くらいに結構聴いていたかも。
結局歌える曲が好きだなというのは変わらない。

 

買って良かったもの

買い物をたくさんした年だった。破産はしないと思うけど一度手に入れたいと思ったら手に入れるまで気が済まないタイプであることはわかった。


クラシックギター
…なんとか宣言明けの新宿で一日で決めて買った。青葉市子の曲が弾きたくて買ったし、それしか弾いてないけど三日坊主にならずそこそこ弾いています、あんまり上達はしてない

iPad
…普通のやつの128GBで5万円しなかったので、もうちょっと早く買っておけば良かったかも。これで来年は論文読み書きが捗るはず!

*電気毛布
…超絶冷え性なのに暖房嫌いでいままで湯たんぽで頑張ってたけど電気毛布は革命だった。ほぼ24時間使っている。

*大島椿
…いままでミルボンのヘアミルク使っててそれもよかったけど、これ+ナノケアドライヤー+サロンシャンプーでだいぶ髪質が良くなったような気がする。

*Laboratolio Olfattivoの香水
…バニラとお香のにおいがする

イニスフリーのパウダー
…みんなもってる緑のパケのやつ、前髪さらさらになる。

*ひざうさぎ
…ぬいぐるみ、重みがあってくたっとしてて可愛い。

*エルバンのインク
…万年筆インクに手を出す。綺麗

*deemo
…4〜10月にかけて毎日毎日やっていた。ゲームやってもすぐ飽きがちだが有料ゲームは広告ないし結構やりがいあってたのしい。iPad買ったので捗るかと思ったらそうでもない。ある曲でAC出せたら課金しようと思ってるんだけど、なかなか出せず。

 

 

 本当になんだか変な年だった。何にもしていない気がするし、実際家で転がっているかたまに働くかしかしておらず、新しく人に出会わなかったし、知っていた人とはことごとく連絡をとらなくなった。昨年までは寂しいな、と思うことがあったけれどもうそれすらも感じず、早くぜんぶ終わればいいのにな、と願ってその場その場をやり過ごすみたいな日々の連続だった。でも怠惰であることには嫌悪感があって、明日からはこんなに画面をみない、食べない、と何度誓ったことでしょう。この生活を終わらせたいのなら就職活動をするしかないのかなあ、本当に?

今日『瞳子』読んだけど、彼女はいい感じにだらだらしていて、『小春日和』に通ずるよさがあった。夜になっても遊びつづけろ!

2020-12-13(風/他生の記憶)

 

好きとか嫌いとかなくたんたんと先へ泳いで行ける人、泳ぐ能力はあるけれど陸地を離れてしまうのが怖くてあんまり遠くへ行かれない人、好きだから頑張って泳いでいく人、海へ憧れ続けて陸にいる人、海とは違う方向を見るようになった人。

 

『アダンの風』をつくった青葉市子は、文字通り海へふかくふかく潜り込んで、そこで触れてしまった世界の核のかけらの一粒を持ち帰ってきれいに磨いてみせてくれる。

 

〈かくてわれらは死せるなり〉水のごとき風に目覚めて他生の記憶は/井辻朱美

 

2020-11-22(あき/あと)

疲れたわ、と彼女は言う。
たった三キロ歩いただけじゃないの、とエリサベスが言う。そういう意味じゃない、と母が言う。あたしはもう、ニュースに疲れた。大したこともない出来事を派手に伝えるニュースに疲れた。怒りにも疲れた。意地悪な人にも疲れた。自分勝手な人たちにも疲れた。それを止めるために何もしないあたしたちにもうんざり。むしろそれを促しているあたしたちにもうんざり。今ある暴力にも、もうすぐやって来る暴力にも、まだ起きていない暴力にもうんざり。嘘つきにもうんざり。嘘をついて偉くなった人にもうんざり。そんな嘘つきのせいでこんな世の中になったことにもうんざり。彼らが馬鹿だからこんなことになったのか、それともわざとこんな世の中を作ったのか、どっちなんだろうと考えることにもうんざり。嘘をつく政府にもうんざり。もう嘘をつかれてもどうでもよくなっている国民にもうんざり。その恐ろしさを日々突きつけられることにもうんざり。敵意にもうんざり。臆病風を吹かす人にもうんざり。
臆病風には吹かれるんだと思うけど、とエリサベスが言う。
正しい言葉遣いにこだわることにもうんざり。

 

アリ・スミス『秋』、木原善彦


茅野は痕跡を残しすぎた。うんざりして消えようにも消えきれないかもしれない。本当に、ちゃんと距離をよくとってやっていかなければ。

 

「精神病?ばかばかしい!」バディをあざけるように笑ってやった。「もし、正反対の二つの素晴らしいものが同時に欲しいと思うことが精神病なんだったら、私はまったく精神病でけっこう。そして、その二つの場所を行ったり来たり飛び回って残りの人生を送るつもりよ」

 

シルヴィア・プラス『ベル・ジャー』、青柳祐美子訳