2021-05-22


雨がつづき、ぐったりと横になっている時間が長い日々を過ごしている。いまは何も考えずに読めて満足感がある話を頭に流し込みたい気分なので、ミステリに分類されるものを読んでいる。恩田陸『ユージニア』、皆川博子『倒立する塔の殺人』、森博嗣すべてがFになる』。あと『三体』に取り掛かり始めた。


高二くらいのときに朝井リョウの『何者』を読んで以来、就活に対する恐怖しか持っていなかった。逃げ道を残しておきながらやったので、今から考えればそこまで追い詰められることもなかったが、人の尊厳や情緒を破壊していくシステムであることは間違いない。

 

・説明会だけ視聴してやめた→10社
・ESかテスト落ち→8社
・一次面接落ち→6社(1つGD含む)
・二次面接落ち→1社
・最終面接辞退→2社
・内定→2社
(計19社エントリー)

 

所感
・やりたいことよりは適性で仕事を選んだ。そしてそれは結構大事な気がする。適性診断テストやMBTIはあなどれない。まだ働いていないのでわからないが。
インターン、OBOG訪問は全く必須ではない。でも知人にはインターンからの早期選考で内定を得ていた人もいるので、早く始めて早く終わりたい人にはいいのかもしれない。
・二ヶ月半とたぶん短いほうだったが、これを半年、一年続けると確実に大学での勉強ができないと思う
・大学卒業したあとの一年で有給インターンをして、そのあと就職するというシステムになればいいのに。それが企業にとっても就職する側にとっても合理的。
・エージェントは申し込んだ方がいい。私は四月ごろからマ○ナビのサービスを使った(無料)。ESや面接の対策をしてくれるので効率が良いし、心の支えになる。結果的にエージェントの紹介ではないところに行くが、最初に紹介してくれたところでとりあえず内定を出せたので安心した。私を担当してくれた人はいい人で仕事できる人だったが、これも運かもしれない。
・大学のキャリアセンターは結局使わなかったけれど、エージェントかキャリアセンターかどちらかは使った方がいい。就活に関してわからないことを詳しい人にすぐに聞けるようにしておく方がいい。
・SPIやテストの対策はしなかったけど特に問題はなかった(たぶん)
・ESで求められるものがぜんぜん書けなかった。最初にESの提出求められるところは全部おちたので、途中からテストだけで面接に進めるところだけを受けた。結局正解のESがわからないまま終わった
・テンプレ質問をするところは、私に合わなかった。物事に対する考え方を聞いてくれるところはよかった
圧迫面接はなかった。不快な感じの人はいた。
ジェンダーセクシュアリティに関することを勉強していました、というと、その企業の考え方もわかって、それに難色を示す企業はこちらから願い下げなので良い指標になった。
・若い面接官の方が、大学での勉強内容に興味がなさそう(それが何の役にたつのでしょう?という態度)で、これからの大学の意義を憂えた
・ひとつだけコンサルの会社を受けたが、ケース面接は結構楽しかった。だがコンサルになる体力は私にはないだろうと思った
・面接は逆質問が大事。それを知らなかった四月半ばまでの私は、ふつうに「ないです!」とか言ってた。事業内容について質問し、それにどう関わりたいのかをアピールしなければならない。
・web説明会・面接がほとんどで楽だった。内定のところは最後までwebだったのでオフィスに行ってない。ライティングとかカメラ位置とか特に気にしなかったけどべつにそれで大丈夫だった。鞄や靴を新たに揃える必要がいし、交通費もかからないので楽だった。

 

2021-05-13

 

毎日ここに日記をのこすのは無理だった。土曜の夜から不安と緊張に呑まれてほとんど何も手に付かないような状況が続いている。細切れに寝る。何も、といっても必要最低限のことはやれているので、そとから見ればできていることになるのかもしれない。このあいだ大学の相談室の予約をとって、カウンセリングのようなものを受けたけれど、そこでも最低限のことができていれば、まあ良いのではないか、と言われた。「自分のやりたいように、また積極的に生きてください!元気でね」と書かれた、大学に入ったばかりの頃にもらったメールを見つけた。積極的に生きるってなに。

 

日曜にシンエヴァを見たという話も書こうと思っていた。でも今はアヤナミの声が脳内にこびりついてしまったということしか言えません。

 

たそがれ、——昼がその最後の力を使いはたすあの苦悩の時刻に、私は猫をかたわらに呼んで私の不安をしずめた。そのような不安を、私は誰に打ちあけることができたか?「ぼくを安心させてくれ」と、私は猫にいうのだ、「夜に近づく、そして夜とともに、ぼくの身近な妖怪どもが立ちあらわれる、ぼくはこわい。三度、すなわち昼が去るとき、ぼくが眠りにはいるとき、ぼくがふっと目をさますとき。三度、ぼくを置きざりにする、ぼくのつかんだと思っていたものが、ぼくをすりぬけて……。ぼくはこわい、空白に戸口をあけるそうした瞬間が、——のぼってくる夜がきみを息づまらせようとするときが、睡眠がきみをのみこむときが、きみが真夜中に、どれがきみであるかを見さだめ、何がきみでないかを考えるときが。昼はきみの気もまぎれる、だが真夜中は舞台装置をもたない。」

 

ジャン・グルニエ『孤島』、井上究一郎訳、ちくま文庫、34頁

 

2021-05-08


5/7

濱口竜介『PASSION』をみた。誕生日のテーブルからもうアップの切り返しで写される関係がぴりぴりしすぎていて笑ってしまう。よく笑ってしまう映画だった。濱口竜介の映画の人物のサイコパスモードのとき、結構笑ってみてしまう(重心ワークショップとか)んだけど、反応として正しいのかな。

学校から帰ってきて明らかに疲れているのにトモヤ(漢字忘れた)はその表情を見ようともしなくて、パスタ作ってて、後ろにぴとってするけど「どうしたの?」っていうだけで、振り向いてくれないって思って離れて、でも一応ついてきてくれて、不安でたまらないから「ずっと一緒にいたい」って言ったら、「それは無理かもな」って冷静に言われてしまう感じ… そしてどうにもならないから押し倒すけど、トモヤはああパスタって思ってる、なんてよくわかるのだろう。カクカクと不安定なクローズアップ。

上映後のトークショーで濱口は、会話偏重になってしまうことへのエクスキューズとして、走る場面やフリスビーなどの身体運動を撮ってしまったと言っていた。たしかに男女の関係をキス一辺倒で終わらせているようなところがある。どこまでも自分の性別と恋愛、異性愛システムを意識させられる映画であって、『ハッピーアワー』のときも思ったけれど、見るときのコンディションをえらぶ。『寝ても覚めても』をもう一度見直してもいいかもしれない。

 


5/8
『PASSION』のことを引き続き考える。たかこのように生きるのが本当は楽なのだ。嫌われたくない、という受動的な原理で生きてしまうことのちいささ。
THE NOVEMBERSのHallelujahの、ただ遠くへ、あなたを愛したい、いこうよ、の三曲を繰り返し聴いている。

きのう大学図書館から借りてきた吉原幸子『オンディーヌ』をよむ。

 

「塔」

あの人たちにとって
愛とは満ち足りることなのに

わたしにとって
それは 決して満ち足りないと
気づくことなのだった

〈安心しきった顔〉
を みにくいと
片っぱしから あなたは崩す
  ——崩れるまへの かすかなゆらぎを
  おそれを いつもなぎはらふやうに——
あなたは正しいのだ きっと
塔ができたとき わたしに
すべては 終りなのだから

ああ こんなにしたしいものたちと
うまくいってしまふのはいや
陽ざしだとか 音楽だとか 海だとか
安心して
愛さなくなってしまふのは苦しい

崩れてゆく幻 こそが
ふたたび わたしを捉へはじめる
ふたたび
わたしは 叫びはじめる

 

この率直な感傷と自己愛。

 

エヴァンゲリオンのQをみる。廃墟になったNERVの造形がきれい。シンジのように誰かを信じることで自分の存在意義をたしかめようとすると、その分裏切られた時のダメージが大きい。
世界を何度でも、気に入るまで反復するということを虚構のなかでやること。以前ツイートしたことだが、私がドゥルーズの書き方を好きなのは、小説や映画の虚構世界と、私たちが生きる世界を同じ世界として捉えているからだ。

鈴木泉:現実世界もその一つであるさまざまな可能世界は、相互に矛盾しないけれども、両立可能ではない。だから、カエサルルビコン河を渡った世界と渡らなかった世界などが無数にあって、その中で完全性の量が最も高い世界を神が選んだ、という話になるわけです。しかし、それはライプニッツが体現しているバロックの話であって、ホワイトヘッドが体現しているネオ・バロックでは、非共可能的な世界が「同じ世界 le même monde」を構成する、とドゥルーズは言う。では、その「同じ世界」というのはいったい何なのか。どれだけ読んでも、きちんとした説明が与えられているとは思えません。
しかも、そこでドゥルーズが出してくる具体例はといえば、ドゥルーズ読者にはおなじみのジェームズ・ジョイスボルヘスモーリス・ルブラン、そしてゴンブローヴィッチといった作家たちの虚構世界です。そうして、われわれは現実世界において他の共可能的世界にいる場合もいない場合もあるということでしかないように思えるけれども、実際は「同じ世界」を構成する無数の非共可能的世界のどこにでも現れることができる、という途方もない議論が展開される。それをドゥルーズは「継ぎはぎだらけの同じ世界」と呼ぶのですが、これは言ってみれば書き割りの虚構世界です。夢の中の世界と言ってもいい。[…] 非共可能的な世界が、「同じ世界」を構成しているなら、もはや現実世界を指定することはできないので、その場合の無数の非共可能的な世界というのは可能世界ですらない、ということです。

 

『思想』2014年4月号の座談会「虚軸としてのスピノザ1」

 

 

2021-05-06(安定/透明な)

よく人と喋った日だった。

夢に美味しそうなドーナツ(チャイ味とオランジェット味)が出てくる。家にたまたまポンデリングもどきみたいなドーナツがあったので食べようとするも、衝撃的に不味く、ひとかけでなげだす。
Amazonほしい物リストから誰かが贈ってくれたヴェイユの『工場日記』が届いている。どこのだれかもわからない人に対して本やぬいぐるみを贈ってくれた人が四人(一人で複数もありえるけど)もいて、しかも誰が贈ってくれたかわからないからお礼もできなくて、自分でリスト作ってリンク貼ってるんだけど、すごいシステムだ。本当にありがとうございます。

エージェントのひとから電話。無事に内定をひとつ得て、とりあえず来年行くところができたのでほっとする。まわりのひとも喜んでくれて嬉しい。

木曜日の授業はどれも重たい。

「囚われの女」の冒頭部と、眠っているアルベルチーヌを眺める場面の読解。diaphaneという単語が透明なのか、半透明なのかの議論をする。肌が透ける様とか、水の形容にも使うみたい。プルーストは適当にどのページを読んでも美しい。結局囚われの女でとまっていて、完読はしていないのだけれど、完読にそんなに意味はないような気がする。

つぎの時間はいつもほぼ雑談。テクストだけを読み込む、いわゆるテクスト論的なやり方とと、作者や時代背景までも読み込むやり方と、結局両方やらなくちゃ文学研究としてだめ、という話をする。スタロバンスキー(のルソー論)を読め、と言われた。メランコリー論も書いているらしいので気になる。

つぎはいちばん好きな先生の授業。今日は若竹千佐子の「おらおらでひとりいぐも」を読む。ポリフォニー的他者と私(おら)の関係、東北弁/標準語の使い方、など。好きな先生のこと本当に好きだなあとこの三年間授業を取り続け、思い続けている。

私は私を理解して欲しいと思う人にちゃんと理解されていて、それはすごく幸福なことだと思う。

 

2021-05-05(風が強い/世界と私)

 


まだ半睡のまなこで電話をとる。家から駅に向かっているのだという。風が強いのでよく聞き取れない。半睡のまま切る。

 


くらもちふさこの『いつもポケットにショパン』を途中まで読む。母の持ち物。主人公の麻子が人の気持ちに疎いわりには機嫌を伺いすぎるので苛々させられる。クラシック音楽(とくにピアノ、ヴァイオリン)を小さい頃からやる人の、親の影響力というのはとても大きい。

 


エヴァンゲリオンの破を見終わる。ぼろぼろ泣く。シンジと同じくらいの年でエヴァをみたら、それは取り込まれてしまうだろうというのはよくわかる。最初はこの物語に対してかなり穿った見方をしていたが(みんなが見ているものはだいたい穿ってしまうが)、それぞれの人物の切実さをわかると、大きな世界と小さな日常の連続にもまんまと入り込んでしまう。でもそこで心が通うようで通わないエヴァという装置を挟み込むのが妙なのだろう。旧劇は見ていないのだが、同じ人が同じ物語を何年もかけてやり直すというのは、かなり特異なことだと思う。それじたいが二次創作的になる。

 


名付けられた関係に退屈さを感じる一方で、曖昧な関係には自分の位置の不安定さを怖がっていて、結局だれとも関係せずにいたい、なにも信じたくないと閉じこもってしまう夜。

2021-05-04(不覚/残酷さ/無断)

とにかく、思考が連続しない。腹痛や頭痛や腕につくられた痣のことに気を取られたり、ネット空間の有象無象にすぐに脳を預け、そのなかで迷子になってしまったり、私という統覚はすぐに解体をはじめようとする。だから、日々のセーブポイントとして、日記を真面目に書くべきなのかもしれない。

 

マギー・ネルソンの”The art of cruelty”という本の、The situation of meatという章をだらだらと2ページ翻訳。ここまでヴェイユカフカ、ベーコンの話題が出ているが、まだその議論の枠はつかめていない。イエス磔刑という肉の境遇をありありと描写すること、それを見ることで私たちはどのように巻き込まれるか。これを機にヴェイユをちゃんと読みたいと思って、冨原眞弓『シモーヌ・ヴェイユ』を昨日買ってきたけれど、いつ読めるのか。

 

あとは『SFマガジン』に載ってる「無断と土」。いちおう目を通したという程度の読みしかできなかった。いぬのせなか座の仕事はときどき気になっているものの、独特の言語づかいに、文脈のはかりしれなさと若干の内輪感を感じて怖気付いていたが、私の関心でもある〈喩〉について、この作品では比較的わかりやすい説明がなされていたので、もう何度か読んだらもうすこしわかるかも。改行詩を前にしたときの、目がすべるという感覚や、それを声にだしてみると読めたような気がするという感覚も、ここに書かれていたことをとっかかりに考えられそうだった。何度も文字を目で追うという動作と、ゲームの周回プレイの同期。

 

演習の発表のテクストをそろそろ選定すべく、野溝七生子の短編をいくつか読む。『山梔』の阿字子や『女獣心理』の征矢が登場する「緑年」あたりが良いかとも思ったが、結局家父長制への反発という主題に終始してしまいそう(文体への言及ができるといいのだが)なのと、いまのところ『少女領域』しか参考図書がないので、ほかもあたってみる。

2021-04-17(徒労/家の/執着)

就活はまったくもってうまくいっていないけれども、そもそもなんの準備もしていないしどこにもひっかからなければ院、という選択肢も残されている(そこにいけるのか、いってやっていけるのかは別)ので、そこまで気にやむこともない、と言い聞かせつつ、やはり時間を割いたものにたいしてなんの対価もかえってこず、むしろ無駄な時間ということになるのは徒労感に襲われる。この一文の長さで文章を書くとまず落とされる。面接ではそこまで消耗しないがとにかく書くのが面倒で、この文章や日記を書くことでなんとかバランスを保っている気がする。そもそも、私はビジネスにまったく興味がなく、生きていくにはお金が必要だけれど、たくさんお金を稼ぎたいとか売れるものをつくりたいとかそういう観点はもっていない。ここまでレールにのせられて特に考えなしにとんとんとやってきたけれど、そろそろおりたいのかもしれない(一昨年くらいからなんとなくおりているという意識はあるが、外面上はまだおりてないと思う)。

 

しばらくここを空けると、近況報告めいてしまうし、何も書けなくなる。

 

『あのこは貴族』をみた。門脇麦の、あの守られて育てられてきた者の幼さと不安定な表情が見事で、ストーリーが親切設計すぎる(最近の映画をみるとよくこの感想を抱くけど、それは私のみる映画が少なく極端だからだろうか)けれど飽きなかった。私の家は東京でも地方でもないプチブルといったところで、高校の知り合いはだいたい同じ具合。私立大学に奨学金を貰わず完全に親のお金で通っているというのは、日本でかなり限られているのだという自覚は、一応、ある。でも不自由なく恵まれてきた、ということにかなり負い目を感じるのは何故なのだろう。

 

不幸は執着を否応なく浅ましい対象へとむかわせ、執着の浅ましい特徴をあらわにする。かくて執着を断つ必要性がいよいよ明確になる。それでも執着をやめぬなら堕落する。
執着は幻想をつくりだす。実在するものを欲するなら執着を断つしかない。執着とは、実在を感受する能力の欠如以外のなにものでもない。なにかを所有することに執着するのは、自分が所有するのをやめると、そのなにもかも存在するのをやめてしまうと思いこんでいるからだ。

 

ヴェイユ重力と恩寵』、冨原眞弓訳、岩波文庫、34頁

 

執着ではない愛を知らなければならない。
就活の目標、おのれの魂を低く見積もらない、としていたが、就活以外のところで低くして受け入れられようとしている気がする。