2023-01-27(湯/喩)

 

「何ひとつ怯えずに君が眠っていたらいい、とか、何度でもやさしい夢だけみてていいよ、とかそういう愛の形態が美しいと思う」と2021年10月27日にツイートしていた。どちらもplastic treeの曲の歌詞だ。セカイ系的世界観ともいえるかもしれないが、いろいろ残酷なことのある現実世界から愛する人だけ隔離して、わたし/ぼくがシェルターになってあげるよ、みたいなのに弱いのかもしれない。眠るのが好きなだけかも。

夢に関する文章で好きなのも多い。またプルーストを引きたいところだが、プルーストエピグラフとして置かれている金井美恵子の「水鏡」でも引いておこう。

今にも雨が降りそうな重苦しい天気で、むし暑い空気には藻の繁殖した、腐敗した水のにおいがしていた。ずっと列車に乗っていたせいで、身体中の節々が(ことに腰骨の蝶番が)痛み、食事をとるよりは何処かで早く横になって眠りたいのかもしれないのだが、どちらの欲求が優位なのか実のところあやふやだ。お湯につかって——たっぷりとお湯を張った風呂に浸って、肉体というこの厚ぼったい輪郭を曖昧に溶かしながら、お湯と皮膚の境界を消し去り、すっかり水と一緒になってしまったら、もう、眠る必要もないのだが、柔らかな湯気を表面から立ちのぼらせているお湯に入っていると、窓の外から呼ぶ声が聞えてくる。呼ぶ声ではなく、窓の外を通って行く歌声だったろうか。乳色の靄と水滴に覆われた窓ガラスを通過して陽の光がお湯の表面に降り注ぎ、風呂桶の上り湯の蓋に置いたリンゴの真紅の表面——淡黄色の果肉の水分がクチクラ層の艶やかな赤い外皮によって蒸散することをまぬがれている、甘酸っぱい球体——に無数の小さな水滴の球がむすばれ、やがて表面を覆っていた水滴は彎曲面を辷り落ちて、リンゴはただ薄っすらと濡れているだけになる。

夢というよりお風呂の引用になってしまった。お風呂に入っていると窓の外から声が聞こえてくるというのは囚われの女の場面にもちかい。お湯に浸かって小説を読んでいる時だけが仕事のある平日の五日間で充実した時間である。むしろ風呂以外のところで本があまり読めなくなっている。

 

 

隠喩という修辞は、ひとたびその語法がひろく公認されてしまうと、はじめにもってきた新鮮な衝撃力をなくし、陳腐な修辞にすぎなくなる。これはあらゆる言語表現の運命でもあろう。しかし反面、それゆえに、人間がもっている限られた言葉を古びた因襲的語法から洗い浄め、それに力といのちを吹き入れる詩人の使命が存在するともいえる。まえにもいったことだが、隠喩というのは本来それが一回かぎりの語法であるのがこの修辞の生命なのである。その意味で、ひとつの隠喩を発見するには、鋭い感性と自由な想像力による対象の「詩的認識」がその都度要求されるのである。

保苅瑞穂『印象と隠喩』161頁

 

エクリチュールフェミニンがあるとしたら、それは隠喩を習慣的使用から奪還したもの(イリガライふうにいうと濫喩)でしかないと思っている。ただ隠喩とか濫喩っていうと修辞の問題でしかないと思われるから、喩というのがよいのかもしれない。

 

言語の表現の美は作者がある場面を対象としてえらびとったということからはじまっている。これは、たとえてみれば、作者が現実の世界のなかで〈社会〉とのひとつの関係をえらびとったこととおなじ意味性をもっている。そして、つぎに言語のあらわす場面の転換が、えらびとられた場面からより高度に抽出されたものとしてやってくる。この意味は作者が現実の世界のなかで〈社会〉との動的な関係のなかに意識的にまた無意識的にはいりこんだことにたとえることができる。そのあとさらに、場面の転換からより高度に抽出されたものとして喩がやってくる。そして喩のもんだいは作者が現実の世界で、現に〈社会〉と動的な関係にあるじぶん自身を、じぶんの外におかれたものとみなし、本来のじぶんを回復しようとする無意識のはたらきにかられていることににている。

吉本隆明「言語にとって美とはなにか」『全集8』、晶文社、145頁

2023-01-16(石切場/本当の事)

「それでは、きみのいわゆる本当の事をいった人間は、まったく出口なしというわけかい?」とたじろいで僕は折衷案を提出した。「しかし作家はどうだろう。作家のうちには彼らの小説をつうじて、本当の事をいった後、なおも生きのびた者たちがいるのじゃないか?」
「作家か?確かに連中が、まさに本当の事に近いことをいって、しかも撲り殺されもせず、気狂いにもならずに、生きのびることはあるかもしれない。連中は、フィクションの枠組でもって他人を騙しおおす。しかし、フィクションの枠組をかぶせれば、どのように恐しいことも危険なことも、破廉恥なことも、自分の身柄は安全なままでいってしまえるということ自体が、作家の仕事を本質的に弱くしているんだ。すくなくとも、作家自身にはどんなに切実な本当の事をいうときにも、自分はフィクションの形において、どのようなことでもいってしまえる人間だという意識があって、かれは自分のいうことすべての毒に、あらかじめ免疫になっているんだよ。それは結局、読者にもつたわって、フィクションの枠組のなかでかたられていることには、直接、赤裸の魂にぐさりとくることは存在しないと見くびられてしまうことになるんだ。そういう風に考えてみると、文章になって印刷されたものの中には、おれの想像している種類の本当の事は存在しない。せいぜい、本当の事をいおうか、と真暗闇に跳びこむ身ぶりをしてみせるのに出会うくらいだ」

大江健三郎万延元年のフットボール』、講談社文芸文庫、259頁

 

いま取り掛かっている文章を書くにあたって、いろいろ参照してみている。やっぱりベンヤミンの書いてることは凄いという確信と、山本浩貴(署名は山本浩貴+hとなっているのだが、便宜的にこう記す。ただこの+hがかれの影のように存在しているが肉声を持った一人の人間であるということを私はいつも忘れないようにしていたい気持ちがある)が大江論を書いていたのが私と同じ年齢の時だと気がついてちょっと愕然とした。かれの「こう書いたら世界がこう見えている魂をつくることができる」論は、プルーストについてももちろんいうことができる。

つまりは場面の選択と転換をになう言語配置は、生きものと、そのつどの配置を根拠づける社会的・物理的規則とのあいだの拮抗として文章所持者をつくり、さらにそのような文章所持者の群れとしての言語配置の場を、周囲を巻き込むようにして一語に収束・圧縮させる機能をはたすのが喩である。その喩が、私の二重性のようなものをともなってしまうことに関しては、『言語にとって美とはなにか』において喩というものが、自己表出を極端におしすすめるために指示表出としての関係をたどることが不可能になってしまうような性質をもちながら、同時に、その成立には《感覚的な意識が、言語表出に場所を、いわば空間性をあたえなければならない》ため、自己表出のなかに、指示性を帯びた(現実世界の)私をひとつの空間として封じ込める必要が出てくるものとして考えられていることから、理解できる。すなわち喩は書く私と書かれる私の二重性を生み出す中心核となるわけだが〔……〕

『いぬのせなか座1号』、55頁

この喩の用い方なんかはまさに、というところ。ドゥルーズは『失われた時を求めて』の語り手を蜘蛛だと喝破していたわけだが、まあテキストと〈私〉の配置(星座)的なことを考えれば、あながち突飛なことでもないのだろう。

ある時期にわれわれが見たある物、われわれが読んだある本は、われわれのまわりにあったものにだけいつまでもむすびついているわけではなく、当時のわれわれがあった状態にも忠実にむすびついている。それがふたたびわれわれの手にもどるのは、もはや当時のわれわれの感受性、または当時のわれわれ自身によってでしかありえない。私が図書室にはいって、他の思考をつづけていても、『フランソワ・ル・シャンピ』をふたたび手にとると、ただちに私のなかに一人の少年が立ちあがり、私の位置にとってかわる。そんな少年だけが、ただひとり、『フランソワ・ル・シャンピ』という表題を読む権利をもっている、そしてそのときの庭の天気とおなじ印象、土地や生活についてそのころ抱いていた夢とおなじ夢、あすへのおなじ苦悩とともに、そのとき読んだ通りに、彼はそれを読むのだ。私がもしちがったときのある事物をふたたび目に見るとしたら、そのとき立ちあがるのは、また一人の年少者であるだろう。きょうの私自身は、見すてられた一つの石切場にすぎず、その私自身はこう思いこんでいる、この石切場にころがっているものは、みんな似たりよったりであり、同一調子のものばかりだと。ところが、そこから、一つ一つの回想が、まるでギリシアの彫刻家のように、無数の像を切りだすのだ。私はいおう、——われわれがふたたび見る一つ一つの事物が、無数の像を切りだす、と。

失われた時を求めて井上究一郎訳、ちくま文庫、10巻、347-348頁

たぶんここで言っている本を読むということは小説を書くということについても同様に言える。私にも何か言いたいことがあるはずなのに引用して満足してしまう。

ところで友人と呼ぶにはやや特殊な距離にあると互いに思っている人と、本を選びあって読むということをしているのだが、ジェンダーに対して少なからず問題意識のある二人であるのに選んだ本がわりと男の子性/女の子性の強く出るようなものだった気がしている。私があなたにとってどういう人になり、あなたが私にとってどういう人になるかということを改変する力が本にはあるためになかなかあやうい試みであり、しかし言葉で人と関係することについてよく考えもする日々だ。本当のことをちゃんと語らなければならない義務を感じるとその人は書いていたが、はたして本当のことを語ったあとに出口なしということにはならないだろうか。

わたしは鈴子を変形したい。同時にわたし自身も変形したい。わたしたちが今とは別の物語を生きられるように。

松浦理英子『裏ヴァージョン』

 

 

 

2023-01-04(無感覚/非寛容)

 

 

ツイートオブザイヤーを早々にだしてしまったかもしれない。本当に1/3が賞味期限だったアンリシャルパンティエのマドレーヌをかじったら、レモンの香りがするのに味がない!となり順当に味覚障害となったのでした。このときは嗅覚があったが今はそれも失い、しかし鼻呼吸はできる程度に鼻詰まりは解消されたので本当に感覚だけがなくて変な感じ。プルースト共感覚的な描写が多いといわれているけれども、共感覚というよりは描写の中で類似・隣接したものや言葉を配置しているためにそう解釈されてしまうというのが正しい。と、ジュネットプルーストにおける換喩」に書いてあった。プルーストについていろいろ読み直したりしていて、それは書きたい文章があるからなのだが、なかなか難しいし身体も本調子というわけでもないので間に合うのか不安になっている。

 

さいきんは大きめのdiscordサバにツイートみたいに書き込んでいる。ツイッターよりクローズドだからかわりと居心地がよく不快なものを見るということもない。なにかネガティブなことを吐き出してもスタンプを押してくれる人が多く、人の温かみを感じている。

自分も不用意な言葉選びをしていることがあるだろうに、人から向けられた言葉に寛容になれずいちいちひっかかってしまう。意図と出力された言葉は違うのかもしれないが、そういう言葉になった以上もうどこかで拒絶の反応を示してしまう。ちょっとは人間関係の作り方がわかってきたかと思っていたがそうでもないらしい。毎年年明けから誕生日くらいまでは気持ちが沈んでいる。

 

無料公開されていたブレッソン『白夜』をみたらやっぱりとても良く、こういう映画だけ見ていたいと思った。こういう映画というのは、静かな愛の映画のこと。『やさしい女』もよかったし、ドストエフスキーブレッソンの相性が良いのかもしれない。あとは、アニメの『灰羽連盟』をみて泣いていた。

なんかぐったりしていたら休みが終わってしまったが、仕事はほどほどにしつつインターネットもほどほどにしつつ、考えるべきことを考える。

 

2023-01-02(発熱/黒猫)


晦日の夜から発熱し、最高38.6℃程度の熱を出しながら正月を迎えた。そのとき電話をしていたので熱でぽやぽやしながら喋ることとなった。紅白とかそういう年末年始の番組はなにもみていない。弟が27日あたりからコロナになっていたし、気道のあたりが熱くてもやもやした感じがそうなのだと思っていたが、自分でやった抗原検査は二回とも陰性となり、なんだったのかよくわからない。味覚もあるし食欲もあるし喉も飲み込む箇所には大したダメージがないし、コロナだとしたらかなり軽症の部類だから本当にただの風邪だったのかもしれない。体力ないわりに大きく体調を崩すということがほぼないので焦ったが、軽めに済んでよかった。SNSで熱あるって言ったら何人かメッセージをくれてあたたかいインターネットだなと思った。2日の今日にはもうすっかり熱はなく、咳・鼻詰まりはあって喉もやや痛むがそれは乾燥のせいでもあり、元気といっても差し支えないほど回復しました。

 

年末は『巨匠とマルガリータ』を読んでいた。「書類がなくなれば、人間も存在しなくなります。だからこそ、私も存在していないのです」(下・162)という言葉にあるように、ファンタジックなエンタメ的描写の中に政治批判みたいなのも紛れ込んでおり、とても面白かった。積んでた『キャリバンと魔女』もぼちぼち読んでいる。今年は去年より多く(月平均15冊以上くらいの感じで)読みたい。あと書くこと。

 

青葉市子が髪をばっさり短くしていた。ほとんど象徴的な髪だからなにか変わった心持ちがあったのかもしれないが特に語られてはいない。海外のツアーの際不便でじゃまとかそんな理由かもしれない。彼女はヨーロッパツアーをずっとやっていて、もう活動拠点を日本からうつしてしまうのだろうか。日本の日々悪くなっていく政治状況のことを考えると、いずれ日本を脱出するほうが賢明なのだろうと感じる。仕事でも使うし今年は英語(のリスニング・スピーキング)をどうにかしたいという気持ちがある。上半期でとりあえずTOEICを一回受けておきたい。

 

幸先悪い年明けでしたが気を取り直して頑張りたいこと表明でした。

 

2022-12-30(年末/まとめ)

 

年末まとめの季節。私のまとめは今年出たものではなく今年受容したものです。

 

 

 

読書メーターの本棚はこちら。今年は再読含め142冊しか読めておらず、すくない。

プルースト失われた時を求めて:「見出された時」まで読めたのでなんといっても今年の一冊。人生の一冊。今年はプルースト没してから百年の記念であり、何かと話題にもなっていた。なんどでも折にふれて読むことになるだろう。読むこと、書くこと、芸術を感じること、恋愛すること、人生のすべてが書かれている。

保苅瑞穂『プルースト 読書の喜び』:保苅瑞穂の本もまたプルーストに付随して良かったもののうちの一つ。この本は最近文庫化したので人にも勧めやすい。みんなプルーストを読もう。

黒田夏子『累成体明寂』:日本のプルーストといえば黒田夏子である。日記もずっと私のテーマなので、小説家として世に認められるのが遅かった筆者の書くことをめぐる「暦族篇」がとてもよかった。「日記者」であるということ。

アナイス・ニンアナイス・ニンの日記』:私が読んだのはちくま文庫で出ているもの。これもやっぱり冒頭でプルーストヘンリー・ミラーに買い与え、ヘンリーが『失われた時を求めて』のどこに線を引いているか、ということを書いていてそこから引き込まれて大事に読んだのだった。

ロザリンド・クラウス『独身者たち』:独身者機械という魅力的な概念を知った。シュルレアリスムは女性に対して抑圧的・蔑視的であるという批判は、シュルレアリスムを単純化しすぎで、もっと多様な作品を取り上げるべきだという主張の本で、そういうやり方には賛同できる。

ジョルジュ・ディディ=ユベルマンジャコメッティ キューブと顔』:ジャコメッティは作品〈キューブ〉制作時にフロイトを読んでいたらしい。ジャコメッティとメランコリーについては、谷川多佳子『メランコリーの文化史』や千葉文夫『ミシェル・レリスの肖像』でも触れられていたけれども、ユベルマンのこれはジャコメッティの特異な作品〈キューブ〉を通して、認識できない喪失をどう作品に表すかということをよく分析していました。このあたりの本をまとめて読んでいたのが八月のことで、こういう読書が常にできていたらよいのに…。

 

映画・アニメ

あわせて51ほど。少なすぎる。

タル・ベーラ『ダムネーション/天罰』(1988):水の音が心地よいが寝てしまわない画面のかっこよさ。

ブレッソンたぶん悪魔が(1977):顔がいい!!

シャンタル・アケルマン『囚われの女』(2000):特集されていたアケルマン5本すべて映画館で観れたのはよかったです。なかでもやっぱりプルーストの翻案であるla Captive(≠prisonnière)。そもそも原作が眼差しのテーマをもつものの、最初の海辺の〈花咲く乙女たち〉を映写機越しに眼差すシモン、磨りガラス越しのお風呂、眠る女と欲望、などプルーストのエッセンスをかなり凝縮して、映画として提示していた。

輪るピングドラム(2011):安倍晋三統一教会の信者の子供である山上徹也に殺されるという象徴的な今年の事件を、あまりにも不気味な形で予知してしまっていたかもしれないすごいアニメ。生存戦略しましょうか。

 

音楽

あいもかわらずthe NovembersPlastic TreePeople in the box(この三つはライブにも行きました)、青葉市子、相対性理論などばかり聴いていたのでそれらは前提としてほかによく聴くようになったもの。

・Passage/DoZzz (2020):なんて読むのかわからない台湾のシューゲイザーバンド
・Microcastle/Deerhunter(2008):なかでもAgoraphobiaばかり聴いていた
・Single/Dottie(2020)

そういえばこのあいだ「私を構成する9枚」を考えてみたが、①剃刀乙女/青葉市子、②TOKYO BLACK HOLE/大森靖子、③To (melt into)/THE NOVEMBERS、④インク/Plastic Tree、⑤Kodomo Rengou/People in the box、⑥天声ジングル/相対性理論、⑦Single/Dottie、⑧プーランク合唱曲集/The sixteen、⑨ゴルトベルク変奏曲集/グレン・グールド、にした。

買ったもの

noble chairs:5.5万くらいするゲーミングチェア(白)。家にいるとき基本的に椅子に座るかベッドで寝るかしかないので、腰への負担を和らげるためにあってよかった。

基本情報・応用情報技術者試験:受験料(8000円くらいする)を払い、国家資格を二つ得た。会社からの報酬金もあるし良い買い物でした。持ち前の丸暗記力と国語力が役立ちました。あと会社のお金でSAPコンサルの資格もとったのでまあ成果としてはそこそこよかったのではないだろうか。

スプラトゥーン:9/8に発売されてから、なんと360時間以上の時間を費やしました。Xパワーは1700くらい、サーモンランはでんせつ200くらいが限界っぽく、最近は飽きてきました。

ロリィタブランドの服:MIHO MATSUDA、sheglit、星箱Worksで黒くて可愛いお洋服をいくつか買った。どれもまあ高い買い物だけれども、服を買うことや着ることを心から楽しむことができるようになって良かった。これももしかしたらすぐに飽きてしまうのかもしれないが、来年も気に入った服を身につけられていればいいなと思う。いまはまだぜんぜん街や日常に馴染んでいる格好(たぶん)だけど、もっと過激化してふりふりになっている可能性もある。

 

配信・動画

12月に入って急に興味を失いつつあるが、何も考えずにぼーっとみれてただ時間が潰せるという良くも悪くもの点において、配信や動画を視聴することがいかに適しているかということを知った。CRのうるかさんの配信を見ていた時間がたぶん最も長く、他によくみる人の名前をあげると、紫宮るな・月ノ美兎・葛葉・vaniLaなど。うるかさんには一時期推しといっても差し支えないほど興味を持ったが、推しを作るのは怖いので悪意が書いてある掲示板などをみて冷静になり、距離を取った。いつまでものんびりゲーム配信をしていてくれたら嬉しい。

 

各月かんたんまとめ

一月
バイト三昧。藤枝静男のレポートが書けて良かった。

二月
本をたくさん読んだ。『氷』三部作、『心は孤独な狩人』、『アーダ』など。

三月
なんか不安で無為にすごした日が多かった。京都に行った。無事卒業、袴のコスプレ。

四月
入社した。同期との飲み会とかすぐ面倒になった。基本情報とった。父方の祖母が亡くなった。

五月
アケルマン見に行ったりなんだかんだ映画とか本とかは摂取してた。はじめてゴスロリっぽいもの(sheglitのワンピース)買ったのここらへん。

六月
配属された。ここからわりとずっと暇。アナイス・ニンの日記がとにかくよかった。たぶん配信とかたくさん見てた。

七月
13冊読んでたのでそこそこ。別れた。RFA買ったけどすぐ挫折した。ミホマツのオルト買った。

八月
ひきこもり。『独身者たち』『アウステルリッツ』『八月の光』など22冊読んだ(今年最高量)。


九月
ここからスプラトゥーンにかなり割かれる。ツイートもすくない。

十月
結構限界な感じで応用情報うけた。ピープルのライブ良かった。

十一月
サブスクでゴダールを無理やりいろいろみた。先月のことなのにとくに覚えてない。

十二月
色んな人に会った。ボーナスでなんか本とか服とかいっぱい買った。

 

就職したということが今年の大きな出来事だったが、ほぼ在宅のゆるゆるホワイト企業であったおかげで大したことのない平凡な日常を送れている。毎日毎日働くのなんて病んでしまう!と身構えていたから、のんびりライフを送れて本当によかったし、むしろ大学時代よりお金があるのでそれに伴って精神的余裕もある。もちろん一方で世の中がどんどん悪い方向にいっているといううっすらした暗澹がある。

今年新たに知り合った人や久しぶりに会った人が比較的多く、いろんな人とほどよく仲良くしていけたらいいなと思っている。そういう人生の趨勢にどこか俯瞰でいられるようになってきているし、性格も前より穏やかになったような気がする。

来年はとにかく実家を出て一人暮らしをするということを目標にして、それだけ達成できたらいいなと思います。

 

 

2022-12-19(光る/孤独/アレゴリー)

はてなブログが記事の真ん中に広告をいれてきて最悪って言ってたら本日のブログみたいなのでピックアップされて読者が増えました。


今年は街のイルミネーションをみたり、クリスマスカードを貰ったりして、クリスマスのわくわく感をよく味わっている気がする。キリスト者ではないけどキリストやマリアやロバや羊や星や彼らのいる世界の色あいが好きでキリスト教関連のものを集めてしまう育子のことや、クリスマスツリーの下で眠った夕歌のことを思い出す。

 


 


人と関わると自分の輪郭が浮き出てくる。さいきん日記をたくさん書いているのはそのせいもある。そしてわかっていたことだが、人と関われば関わるほど孤独を感じる。今月は大社交月間で躁鬱とは言わないまでもけっこう気持ちの上下がはげしく、高校の集まりはパスしてしまった。一対一でないと「べつにわたしがいる必要ないな」と予定をキャンセルしてしまいがちだ。それをキャンセルした上でなお年末まで予定入りすぎてちょっと疲れて億劫になってきてもいる。仕事がないのをいいことに平日に身体をやすめる。

メンヘラという言葉を用いて良いかわからないが、人の好意に自分の存在の意味ををあずけてしまうということが気持ちの上下をうむのだろう。その人からの好意の気配に過度に敏感になり、しかし往々にして人はそこまで好意にこだわりはなく、行動と好意が一致しているとも限らないので、私が気にするべきことではない。あまり気にしなくなってきていると思うけど、それは私の相手への興味にも関わる気がする。誰かにとっての特別でありその誰かを大切にしていれば孤独ではなくなるのかもしれない。でもいままでの経験上、べつに恋人がいたからといって定期的な話し相手がいるという点で多少寂しさは紛れるかもしれないが(でもその点であれば極論週一回話す人が七人いたらいいということだ)、孤独がなくなるわけではない。また次会う約束をしてわかれられるのはうれしい。

 


 


ロリィタにカテゴライズされることが嫌ではないのか?と聞かれたとき、その場ではぜんぜん!と答えたのだが、その理由を考えてみた。たとえば女性にカテゴリー化されることは、そのとき言われる女性とは男性に対比されるところの(暗に劣っていると示された)女性であり、二元論的な枠組みでしか捉えられていない。

ロリィタにもゴシックやクラシックや和などいろいろあり(私はゴス&クラが好きで色は黒ばかり)、女性がそうでないのと同じように一枚岩的でない。まあロリータさん(笑)みたいな蔑視的目線の人とかもいるんだろうし、そういう人の目線をカテゴリー化と呼ぶなら批判されるべきというか、まああなたにはわからないでしょうねみたいな応対をするしかない。かといって私は集団性が苦手なのでロリィタのイベントなどには参加する気は全く起きないのだが。

と、ここまで書いて思ったが、私はロリィタよりもゴシックに重きを置いている。

 

明日は今日より幸せであるとか、人間精神は改良できるとか、人は平等であるとか、努力すれば必ず報われるといった言葉を信じられなくなったとき、すなわち近代的民主的価値観が力を失ったとき、ゴシックはその魅力を発揮する。〔…〕そして実のところ、現実社会という「誰かのための制度」を憎み、飽くまでも孤立したまま偏奇な個であろうとするゴシックは、そういうクズな世界での抵抗のひとつなのである。

高原英理『ゴシックハート』、講談社、8-9頁

 


だがこの本の最後で二階堂奥歯についてこう描写されることについては批判(というより非難)されるべきだろう。

Vivienne Tam, MORGANといった衣装を好み、ゴシック・ロリータをも愛した。それらの似合う容姿であったと思う。話せば非常に聡明だったが、単に知的に優れているだけでは満足しないことがその容姿への注意深い管理から見て取れた。(236頁)


それらの似合う容姿であったと思う??そういうジャッジのできる主体=男でよかったですねえ…さぞあなたもご立派な容姿であることでしょう。


ブチ切れたところで話を戻すが、年齢や性別や体型などの社会的コードを無視して好きな服を着るのはそう簡単なことでもないと思う。バトラーがジェンダーを衣服のように「自由に自分の意志で取り替えられるもの」として形容したことに批判があったが、衣服が自由意志で選びやすいことに異論はないにしてもそこにもまたなんらかの規範のしがらみがあるに違いない。ロリィタは無垢な少女性の強調だとして、女性から批判を受けることもあるのだろうが、むしろ少女性や女性性の過剰な、普通の格好(とは?)から逸脱した、ちょっと日常に馴染みやすいドラァグくらいに考えたい。ドラァグアレゴリー(≠習慣的比喩)についてはわたしの卒論3-2をぜひお読みくださいませ。

『読むことのアレゴリー』文庫化したので買いたい。

 


↓親切に自己引用

 

しかし、ドラァグの形象の攪乱性にバトラーがこだわっているのは、それが身体表現でありながら意味的な規範性を問うものだからであろう。言語でありながら行為であり、行為でありながら言語であるということがパフォーマティヴの持つ意味であった。ドラァグアレゴリー性は、身体と意味の連続的な語りを切断させる力をもつ。より正確にいえば、異性愛的でストレートにみえる物語はその根源的な場において断裂していることを明るみに出す。
 アレゴリーは、身体の同一性によって支えられた〈私〉の首尾一貫した物語——分析の治療のある場面においてそれは強固に要求されるかもしれない*18——が、〈私〉の身体も含めた〈私〉以外のものによってさまざまに断片化されているということを示すだろう。バトラーは、「私が語る物語、ある種の必然性を持った物語は、その指示対象〔referent〕が十全に語りの形式を取るとは想定できない」と述べたあと、註でこう付け加えている。「語りはアレゴリーとして働き、最終的に連続的関係においては捉えられないものに対して、また、語りの形式を引き受けるときにのみ否定され、置換され、変形されうるような時間性、空間性を持つものに対して、連続的説明を与えようとする」(GA 68,75)。この文は一見、アレゴリーが連続的な一貫性を与えるというように読めるが、そうではない。アレゴリーは語りに連続的説明を「与えようと」しながら、常に失敗しなければならないのである。

2022-12-11(纏うもの/神様の)

 

ほとんど動かなかったのか、寝る前に抱いていたぬいぐるみがそのままの位置にいた。イヤホンもしたままだった。死ぬ前にぬいぐるみとともに棺に入れてほしいって書いておきたい。在宅勤務のありがたみを冬になってかみしめている。いつまでもベッドにいたい。職場で自分がどう思われているかいまいちわからない。与えられたものは早めにこなしてるからマイナスってことはないだろう、でもプラスではなさそう。一度要員が足りなかったほかのチーム(あまりにも足りないらしく年末年始にもなにやら作業があってつらそう…)に手伝いに入ったら、効率よく飲み込み早くて助かりました〜と言ってもらえて嬉しかった。のちのち年下の人が入ってきたら褒めて育てるのを心がけたい。ボーナスも思ってたよりあり、ホワイト企業にさえ入れればいいって思ってたから運良く入れて本当に良かった。ボーナスでまた本や衣類を増やしてしまうかもしれない。ロリィタ(このあいだお店でロリィタさんと呼ばれ、ロリィタさんとしてのアイデンティティが他者から承認されました)、いつまで着るのだろう。年齢の問題というより私の飽き性の問題でそんなに長く着ない気もしており、いっぺんに似たような種類の服を買っていいのかという問題がある。でも服を買ったり着たりすることにこんなに感情を動かされることってほとんど今までなかったと思う。物欲とはうまく折り合いたい。

なぜゴスロリなのかという話をここには書いてなかった気がする。インスタに書いたものを転記しておく。

小五(2011年)くらいに、ロリィタが流行っていたのか、『神様のメモ帳』とか『GOSICK』とか『B.A.D』とか、ゴスロリを着たかわいい女の子が出てくるラノベを読んでいて、そこからずっと憧れてきたけど、実際に自分が着るということをあんまり考えたことがなかった。
今は、かつて甘ロリとか言われていた類の(地雷とか量産とかネーミングがあんまりなので使いたくない、本人たちはすすんで自称するようだけど)、ふりふりの服が流行っており、インスタで眺めているうちに私の本当に好きで着たい服ってゴスロリだったのでは?という気づきを得た。大学にゴスロリ着てきていた仏文のかわいい人がいて、実際に着ている人を見て、やっぱりいいなあと思ったこともある。そもそも、ゴシックなマインド(cf. 高原英理『ゴシックハート』)は持っていたと思う。
ロリィタはまず服が高いというハードルがあるが、グレイルとかユニクロとかに慣らされているだけで、これだけしっかりした縫製で繊細なフリルなどついていれば高くなるものだ。会社員実家暮らしの余裕(それにしても四月からものを買いすぎではある)。まあでも高い分、買う時にすごく悩むし大事にしようと思える。
ブランドはこの着てる二つのブランド(sheglitとMIHO MATSUDA)が好きです。ゴスロリといえど、ドレスすぎず(パニエも持ってない)、普段使いできるライン。今暑すぎて着れないしそもそも外出てないので、早く着られる季節になって欲しい。一生秋冬を繰り返していいよ。

(8月3日)

で、懐古モード(懐古ロリというジャンルもあるらしい)にはいり、さいきん『神様のメモ帳』を読み返したら思ってたよりかなり文章がちゃんとしており、ふつうに小説として面白かった。ラノベに親でも殺されたのか?というような憎悪をむける本屋の店主のツイートを見かけたが、あれはどこから生まれた憎悪なのだろう。保守にしろ革新にしろ、店の人のツイートは私にとってノイズに感じる。本屋のラインナップから思想を感じるのはよいが、本屋が喋っているのは好ましくない。好みの問題だが。

本は、このあいだ『エクリチュールと差異』『スピノザと表現の問題』という大物二つを買った。またいつ絶版になって高騰するかもわからないので、ここ数年単位で参照の気配があるものはなるべく買いたいと思っている。

 

図書館へ。身につけているもの全て真っ黒だと闇に紛れてしまう。『巨匠とマルガリータ』を借りてきた。年の瀬になると大物の長編小説を読みたくなる。

図書館②へ。雨が降ったようで空気が冷たい。奈倉有里『夕暮れに夜明けの歌を』の順番が回ってきたので借りる。お風呂で読む。近頃またSNS依存になっているので、浴室で本の内容のことだけを考えている時間に安堵する。ちょうど巨匠とマルガリータの話など出てきてこういう巡り合わせはいつでも嬉しい。古井の『杳子』も再読した。初読時はうっとりなどと書いていたが今はぐったりという感じだ。杳子の身体、腰のあたりが重たいという描写が多く、その重みを感じる男というよりは杳子の重みそのものに同期してしまう感覚がある。雷獣というYouTuberグループが、男性がAVを見ている時に男女どちらに移入しているのかという問題を話していて面白いと思った。男性の性欲のことがよくわからない。

 

書き始めてから五日くらいの日が経っている。