2021-04-17(徒労/家の/執着)

就活はまったくもってうまくいっていないけれども、そもそもなんの準備もしていないしどこにもひっかからなければ院、という選択肢も残されている(そこにいけるのか、いってやっていけるのかは別)ので、そこまで気にやむこともない、と言い聞かせつつ、やはり時間を割いたものにたいしてなんの対価もかえってこず、むしろ無駄な時間ということになるのは徒労感に襲われる。この一文の長さで文章を書くとまず落とされる。面接ではそこまで消耗しないがとにかく書くのが面倒で、この文章や日記を書くことでなんとかバランスを保っている気がする。そもそも、私はビジネスにまったく興味がなく、生きていくにはお金が必要だけれど、たくさんお金を稼ぎたいとか売れるものをつくりたいとかそういう観点はもっていない。ここまでレールにのせられて特に考えなしにとんとんとやってきたけれど、そろそろおりたいのかもしれない(一昨年くらいからなんとなくおりているという意識はあるが、外面上はまだおりてないと思う)。

 

しばらくここを空けると、近況報告めいてしまうし、何も書けなくなる。

 

『あのこは貴族』をみた。門脇麦の、あの守られて育てられてきた者の幼さと不安定な表情が見事で、ストーリーが親切設計すぎる(最近の映画をみるとよくこの感想を抱くけど、それは私のみる映画が少なく極端だからだろうか)けれど飽きなかった。私の家は東京でも地方でもないプチブルといったところで、高校の知り合いはだいたい同じ具合。私立大学に奨学金を貰わず完全に親のお金で通っているというのは、日本でかなり限られているのだという自覚は、一応、ある。でも不自由なく恵まれてきた、ということにかなり負い目を感じるのは何故なのだろう。

 

不幸は執着を否応なく浅ましい対象へとむかわせ、執着の浅ましい特徴をあらわにする。かくて執着を断つ必要性がいよいよ明確になる。それでも執着をやめぬなら堕落する。
執着は幻想をつくりだす。実在するものを欲するなら執着を断つしかない。執着とは、実在を感受する能力の欠如以外のなにものでもない。なにかを所有することに執着するのは、自分が所有するのをやめると、そのなにもかも存在するのをやめてしまうと思いこんでいるからだ。

 

ヴェイユ重力と恩寵』、冨原眞弓訳、岩波文庫、34頁

 

執着ではない愛を知らなければならない。
就活の目標、おのれの魂を低く見積もらない、としていたが、就活以外のところで低くして受け入れられようとしている気がする。