2022-11-27(名前/受容/愛の病)

イーロン・マスクTwitterを買収してからにわかにTwitter終了の気配が人々の間に共有されてきているが、果たしてどうなるだろう。高校生になったタイミングでスマホを持って、ツイッターもインスタもそのときからやってたけどツイッターが特別なのはかやのという一人の人格をつくったことにあった。高校のときは花夜乃という漢字をあてて、主に惚気話をして、同じような話をする年上のお姉さんばかりフォローしていた。手紙交換をした人もいてそのやり取り自体はすぐ途絶えてしまったけど、本名が同じで縁を感じたりもした。大学生になってから茅野をつくった。今これを読んでくれてる人は大半が茅野として私を見ていて、茅野として私を認識している人に実際に会ったり付き合いさえした。ツイッターだけでなくさまざまなSNSを茅野の名でやっているし、もう茅野でない私の部分はほとんどないと思っている。真っ黒のすこしフリルのついた服を好んで着るようになってからは、見た目のイメージと中身も統合されてきた気がして、しかしそれはわりと心地が良い。見た目と中身、外見と性格の分離や統合をVtuber(や2Dモデルを使う配信者)を見るようになってからよく考えるようになった。つまるところ自己イメージをコントロールしたいということなのかもしれない。

 

人生、こんなのでいいんだろうかという漠とした不満だけが日々うっすらつもる。労働環境については現段階でこれ以上は望めないくらい良いのだと理解している。すくなくとも残業はほとんどなく有給も自由にとれてパワハラもセクハラもない。内容には興味がないが、それは最初からわかっていたことで、好きなことを仕事にしたらだめなタイプだと思っている。

時間の割合的に仕事のことを原因にしてしまっているけれどたぶんちがって、受容者でしかないことに倦んでいるのだと思う。ヴァントゥイユの音楽を聴いて、ただ自分の恋愛に結びつけてうっとりしたスワンではなく、創作へと力を向けた語り手に、私はなるべき(すくなくとも目指すべき)なのだと半ば傲慢にしかしどこか信じている。怠惰な習慣と消費に流されずに。文フリに行ったのは二回目で、単純に人が多い密室空間で疲れるということもあるが、それ以上にここにいる人の大半が創作者であることに怖気付く。読んだから書く、という後藤明生(と金井美恵子)の態度は簡潔でいてそのシステムを習得するのは難しい。

 

自分の話ばかりしていてつまらない。

 

最近読んだ(でいる)本。
・『ミシェル・アンリ読本』。たしか鈴木泉の論文を漁っていた時にアンリの名前を知って興味を持ったような気がする。デリダとは異なった形で西洋ロゴス主義を批判していて、図式化すると大体こんな感じ。

生(のロゴス)・内在  //   光 /  闇、既知/未知、カテゴリー、一般性(要するに伝統的な西洋哲学の枠組み)

デリダだったら、右側(光/闇、既知/未知の区分け)を脱構築という感じだが、アンリはそれらをひとまとめの論理とし、それとは全く別の次元に存在する「(内在的)生」を対立させ、別の二元論を導入するという感じだろうか。アンリには『精神分析の系譜』という本もあるらしいが、これはフロイト批判ニーチェ賛美みたいな感じらしく、どのようにフロイトを批判しているのかは気になるところ。私はフロイトをいかに批判するかということに書き手の評価の基準を置いているところがある。(もちろん、家父長制的だからダメとかいうだけの人は単純でつまらないなあという評価が下される)。

 

ドゥルーズにも似たような論理がある。

死の本能 //   生の欲動 / 死の欲動
無底の暗闇 // 光 / 闇

このような論理形式をたてると、闇や死の欲動や神の発生の問題が問われる。このあたりは堀千晶『ドゥルーズ 思考の生態学』や十川幸司『フロイディアン・ステップ』に書いてある。『思考の生態学』はここ数年待ち望んでいた本だったので出版が嬉しいというだけで今年ベスト本に入れてしまえるのだが、内容にもすこし触れておきたい。ライプニッツの読解は以前からかれの論文や講義でその精緻さと大胆さと美しさを魅力に感じていた。ライプニッツの可能世界論の拡大は今の世界が必然ではなく(ライプニッツだと神によって必然となるのだが)虚構世界の実在性を信じることでもあり(cf 2021-05-08(受け身/塔/多世界) - よくわからない比喩)、ドゥルーズ(と堀千晶)が小説や作品を重要視しているということと通じている。たとえば次のような一節がある。

 たとえば、ある村の子供が暗闇のなか足を水にひたして歩いてゆく際に、風が右の頬だけを撫ぜるのか、それとも左の頬だけか、あるいは両方の頬に同時にふれるのか、どういった感触を呼び醒ますのか。これらが、いずれも可能だとして、しかしあるひとつの風が、同じ日付の同じ時刻、同じ空間において、これらの動作を一気に行うことができないとするなら、このわずかなちがいが世界同士の全面的なちがいと結びつく。賭けられている争点は、ある時点における風の撫ぜ方のちがいをめぐる主観的な認識の問題ではなく、実在的な世界全体が丸ごと別のものになるか否かである。あるひとつの風の吹き方、水音の立ち方、光の揺れのうちに、子供の運命ばかりでなく、世界がもはや同じ世界ではいられなくなることが折り畳まれている。あるいは、ともに揺れ動く葉や枝や塵の動きの具合、方向、速度、その影や音の向きや長さ、暗闇の深さの度合、森に漂う香り。細部のなかには無限が埋まっている。充足理由律において「分析は無限に進行する」のであり、それゆえ水のなかで差し出される一歩一歩、水紋の広がりかた、その小さな音の一つひとつが、運命の分かれ道である。左足を一歩静かに下ろしたことの背後で、すでに潜在的に無限個に世界が分岐していたのである。神の計算によっても、神の意志によっても、神の力能によっても、出来事の偶然性が消滅することはない。(84頁)

ひとつひとつの描写があらゆる世界の可能性と偶然性を示すことに眩暈がする。

ドゥルーズが参照する哲学者はたくさんいるけれど、日本の研究としてはライプニッツスピノザニーチェベルクソンあたりがメジャーどころな気がしている。しかし前述の図式のような発生の問題は、シェリングの導入によって得られるらしい。シェリングについてほとんど全く知らなかったので純粋に勉強になったし、第五章「愛の病——神の発生と崩壊」はタイトルからしてスリリングで面白いところだと思う。スピノザ的なシェリング(=思考と存在の合一=愛)とスピノザ的でないシェリング(=思考と存在の根源的な分裂=病)がいる。

卒論を書いてから約一年たってしまったのだが、バトラーにはほとんど興味を感じなくなってしまっているものの、メランコリー(愛の病)というテーマは一生興味があるだろうという気がしている。愛や性欲について拗らせているからこそ精神分析を無視できないし、欲望の問題を扱わないなら私にとってフェミニズムは嘘になる。