2023-03-31(私の領分/これは愛の行為だろうか)

 


 年明けから体調を崩したり恋に邁進しているうちにすっかり春で、3月は一度も書けなかった…となりたくないので滑り込ませる。頭がぼーっとしてしまうような恋愛もいいけれど、頭が高速回転する恋愛はもっといいものだと思う。高速回転の結果ツイートが多くなっているし、文字への飢餓感がずっとあり、ずっと何かを読んでしまう。恋愛の相手と言語的にも身体的にも試行と応答を繰り返し、自分が変化している感じがある。しかし必ずしも良い変化なのかどうかはわからず、体調がわりとずっと悪いのは確かだし、自分の醜い情動をすべて捨て去りいなくなれたらそれがいいのにとも思う。なんて誠実な人間なのだろうと日々感心しているが、私のいう誠実さとは私に向けられた誠実さのみを指している。ハッピーアワー、passion、親密さあたりの作品をとても見返したい。自分の中で参照点となる作品に出会いそれを何度も通過することが生きることであると思う。

ツイートには意識的に彼氏と書くようにしているが、まず恋人やパートナーと呼ぶことは今のわたしの感覚には合っていない。

近年のジェンダーニュートラルな語彙を選好する傾向にあって、性的に関係する相手のジェンダーが特定されないように、ラヴァー、パートナーといった語り方が普及してきたが、このことは女の側に限って見るなら、女の相手が男であっても女であっても、女の性は同質的なものであると見なしていることになる。

小泉義之異性愛批判の行方」『性愛と災厄』、243頁

異性愛と同性愛の経験は異なったものだろうと異性愛者のわたしがいうことはホモフォビアと受け取られかねないが、家父長制批判というフェミニズムの運動において、女性同性愛の経験が重要な批判的形象としてあることの歴史性を無視したくない。異性愛者であることによって得ている特権性にせめて自覚的であることが、(ただ規範に従ってしまっていることへの罪悪感の誤魔化しにすぎないかもしれないが)、私の立場からできることであろう。ただ彼氏というのはあまりに関係依存的な呼称でもあり、私がいなくても彼は存在しているので書くにあたって何か仮の固有名を与えるべきだろう。

 sは自分の領分を守って書くということにさいしょから注意深い。私はここまでのことを書き、あなたはここまでのことを書く。しかし互いの書いたものを読むのだから、そのような領分はあっけなく崩れ去ってしまうときもある。ちょっとした言い回しなど、以前はあまり用いたことのなかったものが影響されて自然と出てくる。それに、恋愛における嫉妬の問題が私の中ではとても大きな問題としてあるが、これは所有できないものを所有しようとするから生じるもので、束縛は領域侵犯以外のなにものでもない。それが私の愛だよって暴力的に受け入れられている。

 

9 セックスを抑圧による歪みから解放することは、だれもが自分の望むものや人を好きに欲望できるということではない。前半はラディカルな要求で、後半は自由主義的な(リベラルな)要求である。リベラルな要求の多くと同じように、後半の要求は、共同体の強制的な権力に対する個人主義的な懐疑心に動かされていることが多い。わたしの欲望を規律に従わせなければならないとしたら、その規律はだれが与えるのか?わたしの欲望が規律に従うことを拒んだら、わたしはどうなるのだろう?

10 こうした不安に根拠がないと言いたいわけではない。干渉されたくないと望むのはおかしなことではない。

11 とはいえ正しく理解すれば、セックスを抑圧の歪みから解放するというラディカルな要求は、欲望を規律に従わせることとはまったく異なる。「欲望は政治によって選ばれたものに逆らい、欲望そのもののために選ぶことができる」と書いた時、わたしが思い浮かべていたのは、正義の要求によって統制された欲望ではなく、不正義の縛りから自由になった欲望である。わたしが問いかけているのは、自分や他者の身体を見て、そうすべきでないと政治が告げていても、感嘆、称賛、欲求を感じることを自分に許したらどうなるだろうということだ。ここには一種の規律がある。うまれたときからわたしたちに語りかけてきた声、どの身体と世界でのありかたに価値があり、どれに価値がないかを告げる声を黙らせるよう求められるからだ。ここで規律に従わされるのは欲望それ自体ではなく、さしでがましくも欲望に指示を与えている政治的な諸力である。

13 これは規律の行為か、それとも愛の行為だろうか?

 

アミア・スリニヴァサン『セックスする権利』、山田文訳、134頁

 

 

キャサリンヒースクリフが大好きでした。ヒースクリフからひきはなされるのが、一番厳しい罰になるのです。それなのに、ヒースクリフのことで一番よく叱られるのもキャサリンでした。

 

エミリー・ブロンテ嵐が丘』、河島弘美訳、上巻84頁