ジュディス・バトラーにおけるジェンダー・メランコリーの系譜学④

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はじめに

第一章

第二章

 

第三章 バトラーのメランコリー論の展開

3−1. 幻想的同一化

   バトラーの著作のなかで、精神分析的な同一化やメランコリーの理論と、ジェンダー・パフォーマティヴィティの議論は一見あまり噛み合っていないように思える。バトラー自身も『ジェンダー・トラブル』の一九九九年版序文で、「前半部はジェンダーというメランコリー構築を尋問しているが、後半では冒頭部の精神分析的な事柄が忘れられているように思われる」と述べ、「前半と後半で見られる乖離」を認めている*1。本章は、その乖離を埋めるべくして書かれる。
    さて、バトラーが精神分析における同一化(identification)という概念を援用し続けているのはなぜなのか。行為のまえに意図をもった主体を措定しない、という一貫した主張をもつバトラーにとって、同一化という概念は、どうしても同一化の前に同一化する主体の存在を想定させる点で、都合が悪いのではないだろうか。たとえば次のような一文。「少女が一人の少女になるのは、母親を欲望の対象として除外し、その除外された対象を自我の一部として、より明確にはメランコリー的同一化として組み込むような、禁止への服従を通してである」(PP176)。このような主張に対しては、バトラーがボーヴォワールの「ひとは女に生まれない、女になる」という一節に対して呈した、女の前に名指される「ひと」とはいったい誰なのかという問いがそのまま適用される。すなわち、母親に同一化する少女とはいったい誰なのか。とくにメランコリーに言及するとき、たしかにバトラーは対象に同一化する自己の存在を認めているようにみえ、そのかぎりでエイジェンシーという、主意主義的なエイジェントから厳密に区別された主体概念をみずから裏切っているように思われる。また、同一化は内部(=同一化する自己)と外部(=同一化される対象)を区別した上で、外部の対象を内部の自己に取り入れるということだ。これは、他者の自己に対する差異、すなわち他者の他者性を抹消するような行為ではないだろうか*2
 しかし、バトラーによれば同一化は他者を自己のうちに引き入れるような運動であり、自己は他者との関係において形成されるが、まず他者と自己の安定的な確立があって、そのあとに同一化が生じるのではない。この点はきわめて重要である。「メランコリーにおける他者の内在化は、外部の対象を内部の対象に復元するという単純な模倣ではない。内部と外部の区別がおこなわれるプロセスは、メランコリーがおこなう内在化によって、それ自体が生み出されるものだからである」*3。このような他者と自己の関わりにおける、自己の、とくにセクシュアリティの不安定なあり方をバトラーは「幻想 phantasm」*4と呼んでいる。つまりバトラーは、「幻想」や「虚構」という言葉を用いて他者と自己の境界を揺るがす同一化という営為をさらに虚構化あるいは脱実体化することで、アイデンティティの構造を二重にしているのだ(GT 99)。『問題=物質となる身体』(1993年)の第二、三章では、ジャック・ラカンの理論的語彙が用いられ、幻想的同一化について説明がなされている。バトラーの整理に従えば、ラカン的な同一化とは、同一化に先立って主体があるのではなく、むしろ同一化をとおして主体が形成されるような過程である。

 ラカン的な立場は、同一化は自我に先行するのみならず、イメージと同一化の関係が自我を確立する、と示唆している。さらに、こうした同一化の関係を通じて確立された自我は、それ自体一つの関係であり、さらには、そうした諸関係の累積の歴史なのである。(BTM100)


 バトラーはラカン鏡像段階論を、「『自我とエス』におけるフロイトの身体的自我の導入の書き直し」(BTM 96)として読んでいる。フロイトは「自我は、究極的には、身体的感覚、とりわけ身体の表面から発する感覚から出ている。自我は、このように、身体の表面の心的な投射とみなしてもよいかもしれない」*5(十八/347)と述べており、身体的自我を心的なものの効果として描き出しているようにもみえる。この記述を踏まえ、ラカンが、そしてバトラーが導入しようとしている考え方は、身体をある関係の中で構築された想像的なもの、すなわちイメージに根ざしたものとして捉えるということだ。さらにバトラーは、そこに「ファルスの意味作用」の議論を接続させ*6、身体と性差の意味作用のあいだに生じるアポリアを問題にしている。
 まだ言語を使えない生後六ヶ月から十八ヶ月の子供は、自他の区別がつかず、身体感覚が ばらばらの分裂状態を生きている。しかし鏡の中に自分の像を認めると、ここではじめて自 己を統一的な身体イメージとして捕捉することができる。このように自己の身体イメージ は、鏡像というひとつの他者を通じて獲得されるものなのである。さらにラカンは、想像界象徴界現実界という図式を用いて、心的なものと身体的なものの領域を描いた。想像界とは、主体の自己認識や他者への関係が、空間的に捉えられたイメージを介して形成される領域である。象徴界とは、およそあらゆる主体が拠って立つ言語の場を指す。そして現実界象徴界において捉えられないものの領域、典型的にはフロイトのいう欲動やエスの領域 のことである。ラカンによれば、子供はイメージに満ちた想像界から、言語で分節化された象徴界に参入することによって主体としての位置を獲得する。そこで問題となるのが、主体はどのようにして象徴界の論理によって性化されるかということである。
 男児をモデルとしたフロイトのエディプスコンプレクスは、父からの報復を恐れる去勢不安によって母への愛着を断念することで終結するのであった。男児は、母やその他の女性にペニスがないことに気が付き、それを去勢の結果なのだと解釈することで去勢不安を強化させる。そしてペニスを持つものである父に同一化し、父=男性の位置を引き受けるのだ。このようにフロイトは、ペニスの有無という身体的な差異の発見に基づいて性的ポジションが引き受けられるとしている。これに対してラカンは、身体器官としてのペニスではなく、特権的なシニフィアンであるファルスの作用が性差を規定するという、構造論的転換をおこなった。ファルスという象徴界を統御する記号が先にあり、その意味作用の両極に振り分けられるかたちで身体的性が規定されるのだ。
 ラカンによれば、幼い子どもは、養育者である母が自分の前に現れたりいなくなったりす るという事態を、+/−という記号的な価値の対立として受け取る。子どもはもちろん母が現前することを望むが、母もまた自分と同じように何かを望んでいるのだと想像する。母に欠如しており、それゆえに母がそれを欲望しているのだと子どもが想定する代数的な「x」 がファルスである。子どもは母の欲望を満たすファルスに想像的に同一化するが、母の欲望の対象が父に帰属していることを知ると、子どもにとってファルスは、母子の分離をもたらす父の法と結びついた象徴的なものとして機能する。そしてこの父の法が、男/女のポジションを定めることになる。かくして、女性はファルスであるもの、男性はファルスをもつものとして定位される。象徴界を統御するファルスによって身体を意味づけられることが、性差の規定となるのである。
 身体=セックスを引き受ける(assume)こととは、あるひとつの言語的なフィクション として、身体のイメージを身に帯びることである。ファルスによって男女の差が意味づけら れるというラカンの理論を利用して、バトラーはここで身体の虚構性を暴こうとする。身体はかならず象徴界のあとにやってきて構築されるものであり、その意味でバトラーは「セックスはすでにつねにジェンダー」(GT 29)なのだということができる。
 ただしバトラーが問題にしているのは、ラカンの理論において象徴界の意味づけの極は異性愛的な身体の二元論を強力に追認してしまっており、さらにその象徴界の法が変更不可能だとされていることだ。セックスの引き受けが象徴界のある位置に同一化することであるならば、象徴界の法に従えない身体の存在はその法の規範性を揺るがすのではないか。 バトラーは、セックスの引き受けである同一化は想像界の次元で起こり、象徴界の主体の自律性をむしろ崩していくものだとしている。「もし、性化されたある位置を引き受けること が、象徴界の領域内部に徴し付けられたある位置に同一化することであり、また、同一化することは、そうした象徴界の領域に接近する可能性を幻想化することを含意するとすれば、 そのとき、セックスの引き受けを強制する異性愛主義的制約は、《幻想》的同一化の統制を通じて機能している」(BTM 130)。セックスの引き受けはある身体イメージへの同一化であるが、この同一化は幻想化されている*7。幻想は現実の対立概念ではないし、バトラーへの批判においてしばしばいわれるように身体の物質性を無視しているわけでもない。バトラーが幻想というとき示しているのは、現実の身体の捉えがたさ、私たちが本質的で自然的だと思っている身体の脆さのことである。「幻想とは、既に形成された主体の活動ではなく、 主体をさまざまな同一化の位置に集約させたり、拡散させたりする活動として理解されるべきである」(BTM 366)。幻想はつねに主体の同一化を不安定な境界へと晒し、主体のうちへと包摂される物質性、あるいは反対にそこから棄却される物質性の存在をありありと 提示する。さらに、同一化する身体イメージは、社会と個人の歴史の中で繰り返し引用され 続けることによって絶えず変容し、統一的な形態では把捉できないものとなる。同一化は、 「二重の運動」として理解されなければならない。

同一化は象徴的なものを引用する際に、象徴界の法を(再)発動し、それに力を(再) 備給し、想像的例示に先行する構成的権威として、それに依拠しようとするのである。 しかし、象徴界の優位と権威は、あの再帰的反転——引用が、〔...〕従う先行的権威そのものを効果として存在を通じて構成されるという——を通じて構成される。(BTM 146)

 象徴界の法、すなわち異性愛的な身体の二元論的な規範に従うように強制される同一化 は、根本的に引用行為でありパフォーマティヴに法を変更させる可能性をもつ。そして、同一化という営為は一回きりの出来事ではない。バトラーは身体イメージへの同一化が社会の中で起こり続ける出来事であり、あるいはその同一化が完全に達成されることは決して なく失敗する可能性もあるという意味で《幻想》であると述べている。バトラーの批判的戦略は、「(異性愛主義的)性的差異をめぐるヘゲモニー象徴界を転位すること(displacement) であり、性源活動的快楽の場を構成するためのオルタナティヴな想像的図式を批判的に解放することである」(BTM 123)。

 

3−2. 隠喩と身体

 

 パフォーマティヴィティという J・L・オースティンらの理論を源泉とする言語的機能と、 メランコリー的ジェンダーを接続する紐帯のひとつが、ニコラ・アブラハムとマリア・トロ ークの「喪あるいはメランコリー」(1972 年)にあると考えられる。彼らの論の特徴は、フ ロイトよりもさらに、言語作用を重視することである。他者を自己に同一化ないし体内化させること、セックスを引き受けることは、他ならぬ言語的な操作においてなのだ。
 フロイトは「喪とメランコリー」で、カール・アブラハムの論文を参照し、メランコリー 的同一化がリビドー発達段階の口唇期、あるいは食人的な段階との関連があることを示し ている。少なくともこの論文においては同一化と(食べること=)体内化という言葉は、他 者を自己の内部に取り込むという点でほぼ同義に用いられている。バトラーもまた同一化と体内化を同義語として扱うことが多いが、その際参照されているのがこのアブラハムとトロークの著作である。「ジェンダー的パフォーマティヴィティは、メランコリーの分節化 と、喪失へのパントマイム的な反応——そこでは失われた他者が、自我を形成する同一化において体内化される——において現れる」(PP 209)。
 アブラハム&トロークは、取り込み(introjection)と体内化(incorporation)を厳密に区 分し、喪の作用を取り込みに、メランコリーの作用を体内化にそれぞれ対応させている。彼らは、フロイトの症例「狼男」の読み直しを通して、これらの概念を洗練させた。「狼男」 ことセルゲイ・パンケイエフは、ロシアの貴族階級出身で、姉の自殺、躁鬱病の父親の死などの困難な状況を経て、一九一〇年からフロイトの分析治療を受けた。夢の解釈をしていくなかで、フロイトはパンケイエフの強迫神経症の病因を幼少期の外傷的な体験の記憶、すな わち原光景に求めた。原光景とは、両親の性交場面を見るということであり、フロイトは実 際にパンケイエフが見たであろうこの光景と、夢の中の光景を関連させて意味づけしてい くことで、このようなトラウマ的体験が彼の神経症に影響を与えているとした。
 それに対してアブラハム&トロークは、姉によるパンケイエフへの誘惑を病理の発生源とし、またその姉からの誘惑は、姉と父の間にあった性的場面の反復だとしている。姉は、パンケイエフより二歳年上で、何事につけ彼より優れていて、特に詩の才能を父に認められていた。パンケイエフにとって姉は両親に認めてもらうにあたって面白くない競争相手であり、嫉妬の対象でもあった。また、パンケイエフは三歳の頃、姉からの誘惑、性器を弄ばれるということを経験した。性的な関心を触発された彼は、乳母の前で性器を弄んだが、そこで乳母は「そんなことをしていたそこに傷がつきますよ」というように、去勢の脅しによるしつけをした。これらの出来事の後のパンケイエフは、ひどい癇癪と、人が変わってしまったかのような性格の変化(今日の用語で言うところの解離のような現象)を起こしていた とされている。この人格の変化をアブラハム&トロークは、パンケイエフが他者を体内化した結果だと捉えている。パンケイエフの姉に対するアンビヴァレントな感情、両親に認められるような優れた人としての姉と、性的な触発をしてくる姉への感情を処理するための作業が体内化だったのである。この体内化は、「互いに両立不可能な二つの役割を、〈自我理想〉の役割と愛の〈対象〉の役割とを彼女〔=姉〕に合わせもたせる唯一可能な方法」*8である。
 さらに、アブラハム&トロークは、姉は実は父親から近親姦的な行為に晒されていたと仮定し、このトラウマ的経験が、パンケイエフの経験へと連鎖しているという解釈に至る。この姉の性被害体験は実際にあったかどうかを証明することができないが、アブラハム&トロークは、それが言葉にできない家族の秘密であり恥であったからこそ、体内化を引き起こしたのだとする。アブラハム&トロークの読解の特異さは、狼男の体内化が「埋葬語 cryptonyme」、あるタブー語を秘密に保つための言葉の音声的で即物的な置き換えによって生じたことだとしている点にある。パンケイエフは、ロシア語・ドイツ語・英語の三言語使用者であり、その三言語間で関連する単語の加工、言い換えが、言葉の未発達だった幼少期の体験を秘匿するのである*9。言語的操作において体内化するというのは、一体どういうことなのだろうか。
 取り込みも体内化も、対象を自己に引き入れるようなメカニズムではあるのだが、それら の区別には、隠喩の機能がはたらくかどうかが決定的な違いである。その喪失が意識的な喪は、対象が言語的な表象システムのなかにあり、隠喩の作用によってその対象を言語化=象徴化して取り込むことができる。

喪失した対象からリビドーをうまく置換させるには、その対象を意味すると同時に、それを他のものによって置き換える言葉の編成をつうじてなされなければならない。もとの対象からのこの置換は、言葉が不在を「比喩であらわし」、そうすることでそれを乗り超えていく、本質的に隠喩的な活動である。(GT 130  強調原文)

 隠喩とは言語の慣習的な置換の仕方のことであり、いわば、既存の言語の枠組み内で表現可能なものである。失った対象から別の対象へとリビドーの矛先を変更するとき、そこには言語による置換の作業があるのだ。それに対してメランコリーは、「ナルシシズム的に欠くことのできない対象の突然の喪失であり、一方でこの喪失に関するコミュニケーションが禁じられている」*10ために、その喪失を「喪失として自らを打ち明けることができない」*11フロイトの「喪とメランコリー」でも示されていたように、メランコリーにおける喪失は無意識的である。アブラハム&トロークの理論においては、その喪失はなんらかの社会的な規範によって禁じられているために無意識的に抑圧されたのだとされている。「喪失せざるをえなかったということ自体が否定の対象」になるのである。狼男にとって打ち明けられない喪失の体験とは姉からの性的な触発であり、姉にとっては父からの近親姦的な行為である。それが「埋葬語」という特異な対象として彼らの無意識に保存されている。ひるがえってバトラーは、異性愛的な主体は同性愛の喪失を二重に否定しているためにメランコリーに陥っているのだという。異性愛的な男性主体は、「自分は決して他の男を愛したことはなく、それゆえ決して他の男を失うことはなかった」(PP180)という喪の拒否によって構築されているのである。また、同性愛者の場合にも、エイズで命を失った人々が社会から哀悼されなかったために陥った、いわば実際に生きられたメランコリーがあった。ただし、その打ち明けられない無意識的な喪失は、たんに言語以前のものとして留まるわけではない。メランコリー的体内化は、言葉−対象をそのまま呑み込む。言語による意味的な解釈、隠喩化ができないために、メランコリー的体内化はある特別な言語作用、すなわち反隠喩の作用をはたらかせるのだ。アブラハム&トロークはこう述べる。

ファンタスム化を支配する手続きのうちに一つの言語活動を見ようと決意するならば、スタイル上の新しい比喩、すなわち比喩化を積極的に破壊する比喩として分類整理することがふさわしく、こうした比喩のためにわれわれは反隠喩という名称を提案しようと思う。語の字義通りの意味に立ち帰ることが問題なのではなくて——言葉(パロール)においてであれあるいは行為においてであれ——語の「比喩化の可能性」がいわば破壊されているように語を使用することが問題なのだということを明確にしておこう*12

 ここでは、言語と非言語という対立が示されているのではない。隠喩と反隠喩という言語の機能の対立であり、反隠喩は比喩の可能性そのものを破壊するようにはたらく。隠喩という言語の置換機能、意味づけの機能がはたらかない反隠喩は、その対象を「文字どおり」に体内化する。アブラハム&トロークは、文字どおりの体内化を「写真のイメージ」になぞらえ、隠喩と対立させている。狼男における文字どおりの体内化とは、姉を近親姦的な行為に晒した父の、ペニスを体内化するということである。そしてバトラーはこの体内化を、セックスの事実性を表す幻想として捉えている。

反隠喩的な活動である体内化は、喪失を身体のうえに、あるいは身体のなかに、文字どおり〔literal〕に表現し、それによって身体の事実性として——つまり身体が文字どおりの真実として「セックス」をもつときの手段として——立ち現れてくる。所与の「性感」帯に快楽や欲望を位置づけ、そして/または、禁じることは、ジェンダーの差異を生みだすメランコリーの所業であり、これは、身体の表面をすべておおうものである。(GT 131)

 この引用文において述べられているのは、身体が本質的で不変な「文字どおり」の事実とみなされる場合において、そこには体内化というメランコリーの作用がはたらいているということだ。体内化は、「セックス」と解剖学的性差と「自然なアイデンティティ」と「自然な欲望」とのあいだに漠然とした統一性を示し、その変容の系譜を忘却させる。隠喩という言語的な置換の以前にあるかのような身体には、実はべつの言語作用、反隠喩がはたらいているのである。言語の意味づけから逃れた無垢で自然な身体は存在しない。しかしメランコリーはその隠喩構造を隠蔽し、身体の「秘密の場所」のなかに否認された愛の対象と欲望を抱え込んで、異性愛的な身体、性器結合主義的な身体を自然とみなすような規範をさらに強化させるだろう。

体内化が幻想だということは、同一化がおこなわれるさいの体内化は〈文字どおり〉と錯覚する幻想——あるいは文字どおり化する幻想——だということである。まさにメランコリーの構造のせいで、身体の文字どおり化のプロセスは、その系譜を隠蔽し、「自然な事実」というカテゴリーのなかにみずからを位置づけるのである。(GT 133)

 メランコリーは、セックスとジェンダーを切り分けるように構造化をしたうえで、ジェンダーの構築性を隠蔽し、セックスを本質的で自然的なものとして定位する。バトラーが問題にしているのは、本来は隠喩的な置換がおこなわれているにもかかわらず、それが⻑きにわたって反復されることで物質化され、自然なものとみなされるような場合である。しかしその一方、隠喩の構造があるからこそ、その構造内部での喩の異なる用い方、すなわち濫喩の可能性がある*13。隠喩の本来もつ余剰性が規範的な物質の生産をパフォーマティヴにずらしていくのである*14。前節でのペニス/ファルスの議論がまさにそうである。ファルスは、本来ペニスという身体部位とは異なったシニフィアンであるにもかかわらず、まさに「ペニスではない」という否定の形で繰り返し参照されることによって物質化され、現実のペニスに近づいている。しかし隠喩的な置換の構造がそこにあるならば、ファルスはペニスから別の形で置換されるということ、すなわちレズビアン・ファルスというあり方の可能性が考えられるのだ。レズビアン・ファルスとは、ファルス「をもつ」位置と、「である」位置につくことを同時に可能にするシニフィアンである。ファルスという記号を利用しながら、その記号の固定性を揺るがすこと。たとえばリュス・イリガライは、ラカンの理論においてファルスの隠喩作用が特権化されていることに対抗して、女性的で流体的な換喩の重要性を訴えている*15。バトラーはイリガライの批判はある程度有効だとするが、しかしそのような二項対立は再び男根一元論的な言説へと収束してしまうとする。隠喩と対立関係にあるものではなく、隠喩の制度内部において隠喩の固定性を崩していくような濫喩の作用が重要なのである*16
 またバトラーは、このように本質的で自然な身体として捉えられていたものを、言語として虚構に晒すということを、「アレゴリー化」という概念でも説明している*17アレゴリー化の言葉が用いられるのは、ドラァグのパフォーマンスについての場面である。バトラーは『ジェンダー・トラブル』において、パフォーマティヴィティをドラァグの衣装やメイクのような、主体の意志によって自由に選択できるものとして描いていると批判された。それを受けて『問題=物質となる身体』(とその後の『権力の心的な生』)においては、ドラァグアレゴリー化という言葉を用いて再び論じている。ドラァグのパフォーマンスは、異性愛的なメランコリーをアレゴリー化する。すなわち、ドラァグの女性性/男性性の過度な演出は、女性を愛する男性、男性を愛する女性という異性愛的主体の物語を一種の見せかけのかたちで曝け出し、その物語を過度に寓意化することで攪乱するのだ。

ドラァグは、ジェンダーを安定させる、一連のメランコリー的に体内化された諸幻想をアレゴリー化する。〔...〕ドラァグが、平凡な心的でパフォーマティヴな実践——それは、同性愛の可能性を断念することを通じて、つまり、異性愛的対象の領域と、それが愛することのできない対象の領域の双方を生み出す予めの排除を通じて、異性愛化されたジェンダーを形成する実践である——を暴き出し、アレゴリー化するということである。このように、ドラァグ異性愛的メランコリーをアレゴリー化する。(BTM322-333/PP187-188)

 このようなドラァグの評価はもちろんリスクがともなうと、バトラーは注釈を加えている。女性性を演じる「男性」、男性性を演じる「女性」には、それぞれ男性による女性性の形象への愛着、女性による男性性の形象への愛着が存在しており、そしてその形象の喪失が前提となっていると解釈することもできるからだ。しかし、ドラァグの形象の攪乱性にバトラーがこだわっているのは、それが身体表現でありながら意味的な規範性を問うものだからであろう。言語でありながら行為であり、行為でありながら言語であるということがパフォーマティヴの持つ意味であった。ドラァグアレゴリー性は、身体と意味の連続的な語りを切断させる力をもつ。より正確にいえば、異性愛的でストレートにみえる物語はその根源的な場において断裂していることを明るみに出す。
 アレゴリーは、身体の同一性によって支えられた〈私〉の首尾一貫した物語——分析の治療のある場面においてそれは強固に要求されるかもしれない*18——が、〈私〉の身体も含めた〈私〉以外のものによってさまざまに断片化されているということを示すだろう。バトラーは、「私が語る物語、ある種の必然性を持った物語は、その指示対象〔referent〕が十全に語りの形式を取るとは想定できない」と述べたあと、註でこう付け加えている。「語りはアレゴリーとして働き、最終的に連続的関係においては捉えられないものに対して、また、語りの形式を引き受けるときにのみ否定され、置換され、変形されうるような時間性、空間性を持つものに対して、連続的説明を与えようとする」(GA 68,75)。この文は一見、アレゴリーが連続的な一貫性を与えるというように読めるが、そうではない。アレゴリーは語りに連続的説明を「与えようと」しながら、常に失敗しなければならないのである。

 

3−3. 暴力とメランコリー

 これまで、メランコリーがセクシュアリティの次元においてどのようにはたらきうるのかを論じてきた。バトラーは二〇〇〇年代以降(「9・11」、同時多発テロ以降といってもいい)、メランコリーを国際的な政治問題に結びつけ、公的領域と私的領域、自国と他国といったより広い範囲での関係において思考の材料としている*19フロイトの「喪とメランコリー」でも述べられていたように、メランコリーに陥った者の自己呵責は、最終的に自殺に至ってしまうような暴力性をともなっている。一方でバトラーは、メランコリーの攻撃性を良心的な倫理として保存しておくということもまた重要性であると訴えている。

メランコリーに苛まれる人はみずからに痛烈な非難を向ける。それを抱えて生きることのできる良心と生きていられなくなる良心との違いは、前者においては、自己の殺害が部分的な、昇華された、不完全なものにとどまるところにある。それは自殺にも殺害にもなりそこねるのだ。つまり、逆説的なことに、不完全な良心のみが破壊的な暴力に対抗する可能性をもつのである*20。(FW210)

 ここで述べられている「不完全な良心」とは、外部の社会的規範に対して完全に同一化することなく、同一化の残余を留めておくということだ。この要求、メランコリーにおける良心=攻撃性を自殺に至らない程度に留めておくという要求は、たいへん難しいことに思える。しかし、他者への暴力の動機がみずからのうちにあるということを自覚することが、他者から自己への暴力に対抗しうる力を持つのだとバトラーはいう。自己に同一化されきらない残余、すなわち自己のなかに生き続ける他者の力は、私に倫理を要請する。内なる他者に屈せずに抗しながら、しかし良心として保存するということの倫理が求められているのである*21。「責任は、怒りに満ちた要請に対する非暴力的解決を見つけだすという倫理的命令のみならず、攻撃性をも、「自分のものと認める」。正式な法にしたがってこれをおこなうのではなく、まさしく、みずからの潜在的な破壊性から他者を守ろうとするために、そうするのだ」(FW 212)。
 自死にむかうメランコリーの攻撃性がどのような場面で倫理として立ち現れるのか。バトラーは『アンティゴネーの主張*22』(2000年)においてアンティゴネーの姿形に注目することで、その分析をおこなっている。ソポクレースの古典劇『アンティゴネー』は、王オイディプスの亡き後、その王位を兄弟同士(エテオクレースとポリュネイケース)が争ったのちに、倒れた兄(ポリュネイケース)の埋葬をめぐって展開される悲劇である。兄弟のうち、エテオクレースの方は、「〈正義に則り〉、しきたりどおり土に隠して、冥土の死者たちにも受け入れられるように」埋葬されたのに対し、ポリュネイケースの方は、「嘆かれず葬られもせぬまま、血眼の鳥どものご馳走」になって、無惨な死を迎えた*23アンティゴネーは、妹の立場からポリュネイケースを公的に埋葬することを訴えるが、王クレオーン(オイディプスの叔父)はそれを許さない。テーバイの王位や公的な政治空間は男性が支配しており、アンティゴネーは王の親族でありながら女性であるために政治に参加することができないのだ。バトラーは、兄を公的に哀悼するためのアンティゴネーのクレオーンに対する要求が、公的領域への参入とその境界を攪乱する契機となったと解釈する*24。私的領域におしこめられているアンティゴネーの発話が、公的に哀悼される者とそうでない者との区別に疑義をつきつけるのである。しかしアンティゴネーはこの要求をした罰として、地下牢へと連れていかれ「生きながらの死」を迎えることになる。アンティゴネーの立場は、公的領域と私的領域のはざまにあり、また生と死のあいだにもあるのだ。
 アンティゴネーによる公的な喪の要求には、メランコリーの徴候がつきまとっている。メランコリーの特徴は、たとえ誰を失ったのかは判明していても、本質的に何を失ったのかは知られていないという点にあった。もちろんアンティゴネーは、自分が失ったのは兄ポリュネイケースだと認識している。しかしバトラーの解釈では、アンティゴネーの家族の構成からして「兄」という言葉が指しているものはオイディプスやエテオクレースの可能性があり、アンティゴネーの喪失は意識的に名状できるものではないのだ。メランコリーに陥ったアンティゴネーは、兄を哀悼する権利を主張する。それはその時の政治体制において哀悼されていない生が存在するということの確認であり、そしてメランコリーが彼女の発話に暴力性をあたえるのだ。

彼女のメランコリーは——もしそれをそう呼んでよければ——嘆く〔grieve〕ことのこの否定から成り立っているものだと思われ、その否定は、嘆く権利を彼女が主張するときに使う公的語彙によってなされるのである。その資格があるという彼女の主張は、彼女の発話のなかで機能しているメランコリーの徴候と言ってもよい。嘆くことを彼女が声高く公言することの前提には、嘆きえない領域がある。公的に嘆くことを主張することで、彼女は女のジェンダーから離れて、傲慢のなかに——番人やコロスやクレオーンをして、ここにいる男は誰なのかと思わせるような、明白な男らしさの過剰のなかに——入っていく。ここにいるのは男たちの亡霊〔spectralmen〕であり、アンティゴネーがそのなかに住まっている亡霊、また彼女がその場所を占め、そうすることで彼女自身がそれへと変わっていくような兄たちなのである。フロイトが言うように、メランコリーはその人の「訴え」を記録し、法的主張を向け、そのとき言語は悲嘆〔grievance〕の出来事となり、また言語は語りえぬものから湧き上がっているがゆえに、語りえるものの限界に語りえぬものをもたらす暴力を運んでくる。(AC155)

 アンティゴネーは、語りえないものの領域から、語りえるものの領域の限界に暴力を運び、その領域の境界を揺るがすような主張をするという。だが、ここでポジティブに語られている「暴力」は、兄の埋葬を禁じ、語りえないものの領域を作り出した国家による暴力とどのように区別することができるだろうか。
 竹村和子は、バトラーのアンティゴネー読解はやや楽観的だという批判を加えている。というのも、アンティゴネーの「自殺」では、メランコリーを生み出す秩序の外側に出ることができないからである。アンティゴネーは地下牢の中で「生きながらの死」に耐えることなく、自死を選んだ。そしてアンティゴネーの死は、許嫁ハイモーンとその母エルリュディケの死をももたらすことになり、そのメランコリーの連鎖をとめることができなかったのである*25アンティゴネーのメランコリーを抱えた主張は、一方で哀悼可能な領域と不可能な領域の構造を揺るがす政治的なものである。しかし他方で、メランコリーの暴力性は自らの死だけでなく他者の死をも引き起こし、ふたたび哀悼されない領域を作り出すことにもなってしまった。フロイトは、愛の対象を置き換えることができればメランコリーから喪へと移行することが可能だといった。しかしおそらく、メランコリーの攻撃性から自分と他者を守りつづけるということはそう簡単ではない。また喪失対象が不明であるために、その対象を捏造したうえでそれを奪われた被害者として、他者への攻撃を正当化することが可能になるあやうさもあるだろう。
 ただしバトラーは、このメランコリーと喪のあいだの移行という力動そのものに、政治的可能性をみている。メランコリーは喪の否認であるため、まずはメランコリーをそれとして認めなければならない。そしてなぜメランコリーに陥ってしまうのか、その喪失を正常な喪の作業として哀悼することを禁じている構造、公的に哀悼すべき人とそうでない人を作り出す構造に批判を向ける必要がある。

嘆く〔grieve〕こと、そして嘆きそのものを政治的力学の資源とすること、それはあきらめて活動しないということではなく、苦しみ悩むことにどうやって同一化するのかという、自分自身の立つ位置を時間をかけて探していくプロセスであると考えられないだろうか。嘆きがもたらす喪失の感覚、「私はどうなってしまったのか?」とか、まさに「いったい自分になにが残されているのか?」、「他者のなかにあって私が失ったものとは何なのだろう?」といった問いが「私」を、知りえない、という領域に位置づけるのだ。しかしこのことは同時に、かりにメランコリーという自己に埋没した心情を他者の被傷性〔vulnerability〕を慮ることへと移し変えることができたなら、新たな理解への出発点ともなりうる。そうなれば私たちは、特定の人の生が他の人の生よりも傷つきやすく、それゆえ哀悼される価値がある〔grievable〕とされる、そのような状況について考え、それに異議を申し立てることもできるようになるのだ。(PL65)

 メランコリーは自らのうちにある他者の力を〈私〉に自覚させ、自己は根本的に他者に依存しているということ、さらに自己と同じように他者もまた傷つきうるということを発見させる。そしてその傷つきやすさは政治権力により、あるジェンダー、人種、国籍などによって不均衡に異なっている。哀悼可能な人とそうでない人の区別を作り出す権力への異議申し立ての手段を、「集会」という手段にうったえたのが『アセンブリ』であり、そこでは、この手段は非暴力でなければならないということが強調されている*26。最新の著作も『非暴力の力』(2020年)というタイトルが付けられており、近年のバトラーにとって非暴力はキーワードとなる。バトラーはこう述べる。「非暴力を確実に定義することは、常に可能なわけではない。実際、非暴力のあらゆる定義は、非暴力とは何か、あるいは何であるべきかをめぐる解釈である」*27。みずからのうちにある暴力の自覚は、果たして非暴力への道を開くのか。暴力的なメランコリーの秩序から、どのようにして非暴力が現れるのか。その分析は今後の課題としたい。


参考文献表

 

*1:「『ジェンダー・トラブル』序文(一九九九)」、高橋愛訳、『現代思想』vol.28-14、66-83頁。そして興味深いことに、最終部では前半の精神分析の議論が置き去られ、パフォーマティヴィティによる規範のポジティブな反覆可能性を訴えることを、バトラーは自身が「メランコリーとしての喪失の否認=躁病」に陥っていたのではないかと述べている。

*2:以上のような、バトラーの「同一化」「自我」「主体」という概念の用い方に関する問題点については、精神分析家のジェシカ・ベンジャミンが『他者の影ジェンダーの戦争はなぜ終わらないのか』(北村婦美訳、みすず書房、2018年)の第三章において言及している。

*3:Butler, “Moral sadism and doubting oneʼs own love: Kleinian reflections on melancholia”, in Reading Melanie Klein, New York and London: Routledge Press, 1998, p.180

*4:ここではファンタスムを基本的に「幻想」と訳す。ただし後の節でアブラハム&トロークの用いるファンタスムは「亡霊」の意味合いも強く、場合によっては訳し分ける。

*5:しかしこの記述は、1927年にロンドンで出版された英訳の際につけられた註であり、ドイツ語のヴァージョンはない。

*6:バトラーによるラカンの参照の仕方は、年代や講演ごとの議論の変更を無視した雑駁なものだという批判もありえるだろう。バトラーのラカン読解がどれほど正当性のあるものかをここで検討することは筆者の手に余るが、このようなダイナミックな読解が引き起こすトラブルこそバトラーの特異さなのだといえよう。

*7:このような幻想的同一化を使いながら、トランスジェンダーの身体の引き受けについて論じているもの として、以下の特に第一章を参照のこと。ゲイル・サラモン『身体を引き受ける——トランスジェンダーと物質性のレトリック』、藤高和輝訳、以文社、2019 年。

*8:アブラハム&トローク『狼男の言語標本』、港道隆ほか訳、法政大学出版局、2006 年、17 頁

*9:狼男の生い立ちはかなり特殊なものだが、トラウマ的な体験を〈秘密〉として抱え込んでしまう、ということはある程度普遍的な出来事ともいえる。アブラハム&トロークの理論を用いながら、映画の登場人物を例にとってより日常的な〈秘密〉の現れ方について論じるものとして、セルジュ・ティスロン『家族の秘密』(阿部又一郎訳、白水社文庫クセジュ、2018年)がある。

*10:アブラハム&トローク「喪あるいはメランコリー」『表皮と核』、大⻄雅一郎+山崎冬太監訳、松籟社、2014年、291頁

*11:Ibid.,292頁

*12:Ibid.,295頁

*13:濫喩的なフェミニズムの言語実践の一例として、モニク・ウィティッグの『レズビアンの躰』(中安ちか子訳、講談社、1980年)を挙げることができる。「わたしたちはまっすぐに降りてゆく。すねを、腿をぴたりとつけ、たがいの腕をからませ、わたしの手であなたの肩を抱き、あなたの手にわたしの肩を抱かれ、胸を胸とをあわせ、たがいのひらいた口を重ね、ゆっくりと下降してゆく。〔...〕大きな手でわたしの背をおさえ、わたしをおちつかせ、あなたの陰門をわたしの陰門におしつける。わたしは、瞼がぴくぴくとうごきはじめ、頭ががんがんし、腹郭にも腹部にもクリトリスにも鼓動が鳴りわたり、あなたはますます早口で語りかけわたしを抱きしめ、わたしもあなたを抱きしめ、二人は渾身の力をこめて抱きあう。〔...〕わたしの中身があなたの体内にぶちまけられ、あなたの中身とわたしの中身がまじりあう、わたしの口をあなたの口に重ねあわせたまま、わたしの腕をあなたの首にまきつけたままで」(43-44頁)。また日本では、性器結合主義的な人間どうしの関係とは異なるセクシュアリティのかたちを描き、物語の固定性と闘ってきた作家として松浦理英子がいる。

*14:Cf.竹村和子・冨山一郎「バトラーがつなぐもの」『現代思想』vol.28-14、2000年12月、⻘土社、44-65頁

*15:リュス・イリガライ『ひとつではない女の性』、棚沢直子ほか訳、勁草書房、1987年、140頁

*16:ジェーン・ギャロップは、イリガライの「換喩的な読み」を評価し、それによってファルス中心主義的な解釈の伝統を超えようとしたが、「自分の換喩的な読みに導かれて潜在的なファルスという概念にたどりつき、換喩的な解釈もまた、それなりに、ファルス中心主義になってしまいうるということが分るようになった」と述べている。ギャロップの理論はバトラーと共通している部分も多い。Cf.ギャロップラカンを読む』、富山太佳夫・椎名美智・三好みゆき訳、岩波書店、2000年、178頁。

*17:ところで、メランコリーとアレゴリーといえば、ヴァルター・ベンヤミンバロック劇についての著書『ドイツ悲劇の根源』を想起させずにはいられない。バトラーは『権力の心的な生』において、「ヴァルター・ベンヤミンは、メランコリーは空間化するものであり、時間を反転させるもしくは宙づりにするメランコリーの作用力は、その署名効果として「風景」を生み出す、と述べている」(PP 222)とわずかに言及している。しかし、バロック劇(Trauerspiel)のアレゴリー性が、歴史の中で構築されてきた象徴的なもの、完全なものとみなされた自然を断片化するという論旨など、バトラーの主張と共通する部分もある。「感性的な美しい自然(Physis〔肉体〕)に、不自由さ、未完成さ、そして断片性を認めることは、古典主義にはその本質からして当然拒まれていた。だが、まさにそうした点こそを、バロックアレゴリーは、その途方もない華美にくるんで隠しながら、以前には予感されなかったほどに強調しつつ呈示するのである」(『ドイツ悲劇の根源』下巻、浅井健二郎訳、ちくま学芸文庫、1999年、48頁)。バトラーは論文集『喪失——喪の政治』(2003年)の後書きにおいて、喪を衣服に喩える表現に注目してベンヤミン読解をおこなっている。ここでドラァグへの言及はないが、アレゴリー化する行為は人間の身体と衣服=人工物の関係になぞらえられており、ドラァグの形象と並べてみることもできるだろう。

*18:Cf.バトラー『自分自身を説明すること——倫理的暴力の批判』、佐藤嘉幸+清水知子訳、月曜社、2005年、96頁。以下GAと略記。

*19:このようなバトラーの「倫理論的転回」について(やや批判的に)討議しているのが、竹村和子村山敏勝新田啓子「攪乱的なものの倫理」(『現代思想』vol.34-12、2006年10月、⻘土社、38-63頁)である。

*20:バトラー『戦争の枠組み』、清水晶子訳、筑摩書房、2010年、210頁。以下FWと略記。

*21:ジャック・デリダもまた、他者を他者として担うという倫理のうちにメランコリーの必要性を訴えていた。やや⻑いが『雄羊』のある箇所を引用しよう。「フロイトによれば、喪は、自己の内に他者を担うことにある。もはや世界はない。それは、他者の死における他者のための世界の終わりであり、私は、この世界の終わりを私の内に迎え入れる。私は、他者と彼の世界を、私の内にある世界を担わなければならない。つまり取り込み(introjection)、記憶(Erinnerung)の内化(intériorisation)、理想化である。メランコリーが、この喪の失敗と病理学に応じることになるだろう。しかし私が、他者に忠実であるために、他者の単独=特異な他性(altérité)を尊重するために、私の内に他者を担わなければならない(それは倫理そのものだ)としても、それでもなおある種のメランコリーは、正常な喪に抗議するにちがいない。このメランコリーが、理想化的な取り込みを甘受するはずがない。フロイトが、まるで正常さの規範を確証するためでもあるかのように、もの静かな確信を持って述べていることに対して、メランコリーは激怒するにちがいない。「規範」とは、健忘症の良心にほかならない。そのおかげで私たちは、他者を自己の内部に自己として保存すること、それはすでに他者を忘れることだということを忘れることができる。忘却が、そこに始まるのだ。だから、メランコリーが必要なのだ。この場所で、ある種の病理学の苦しみが、法=掟(loi)を口述=命令(dicter)する——そして詩が他者にささげられる——である」(強調原文)。ジャック・デリダ『雄羊』、林好雄訳、ちくま学芸文庫、2006年、80-81頁

*22:バトラー『アンティゴネーの主張問い直される親族関係』、竹村和子訳、⻘土社、2002年。以下ACと略記。

*23:ソポクレースアンティゴネー』、中務哲郎訳、岩波文庫、2014年、20-21頁

*24:スラヴォイ・ジジェクもまた「メランコリーと行為」という論文の中で、アンティゴネーの不服従の行為に注目している。いわく、「アンティゴネーによる市⺠的不服従の身振りは、これよりも根源的にパフォーマティヴである。アンティゴネーは、兄をきちんと埋葬すべきだという強固な要求を通して、善に関する支配的な概念に公然と反抗しているのだから」。ただしジジェクはこの論文中で、メランコリーを再評価する思想にみられる「客観的シニシズム」を批判しなければならないとしており、ラカプラと同様に欠如と喪失の区別をするべきだという指摘をしている。Cf.スラヴォイ・ジジェク「メランコリーと行為」、鈴木英明訳、『批評空間』第III期vol.1、2001年、115-138頁

*25:竹村和子「暴力のその後.....——「亡霊」「自爆」「悲嘆」のサイクルを穿て」『境界を攪乱する』、岩波書店、2013年、289-334頁

*26:バトラー『アセンブリ行為遂行性・複数性・政治』、佐藤嘉幸+清水知子訳、⻘土社、2018年、241-248頁

*27:Ibid.,243頁