ジュディス・バトラーにおけるジェンダー・メランコリーの系譜学③

前回まで 

はじめに

第一章

 

第二章 バトラーのフロイト批判

2−1 法の遡及的効果としての「気質」

 

 『ジェンダー・トラブル』*1の第二章第三節、「フロイトおよびジェンダーのメランコリー」において、バトラーはフロイトのメランコリー論を検討する。フェミニズム的観点から精神分析を批判する場合、おおくはエディプスコンプレクスが男女非対称的であることや、能動性が男性に、受動性が女性に割り振られていること、また母という位置の理解が家父⻑制的価値観に基づいていることなどに焦点があたる*2。しかしバトラーは、そのような応答は確かに重要だと認める一方で、「ジェンダーを男性的なものと女性的なものに切りわける、二元的で異性愛的な枠組みを増強する傾向をもち、そういった枠組みは、ゲイ・レズビアン文化の特徴である攪乱的でパロディ的な集中についての適切な記述を、あらかじめ封じてしまうものである」(GT128)とする。すなわち、精神分析の言説を男根中心主義的な単一の敵とみなし、そこで貶められている女性性を評価しようすると、フェミニズムは、男女二元論的な構造を保存したままに、むしろそれを強化することになってしまう。バトラーの精神分析への批判を貫いているのは、精神分析理論を成り立たせる枠組み、物語の一貫性そのものを問い直す視座であり、いわば精神分析を利用しながらその内部で精神分析を攪乱する戦略である。
 フロイトにおける同一化の議論は、ある意味構築主義的といえる。すなわち、男性性/女性性は、両親との関わりのなかで獲得されるものであり、生得的なものではないということだ。しかし、フロイトの記述には拭いがたい異性愛規範へのこだわり、解剖学的性差への準拠が見てとれる。バトラーがそのなかでまず批判をむけるのは、「気質 disposition」の議論であり、実際フロイトが言い淀んでいるようにみえる箇所である。

結局、エディプス状況が父−同一化で終わるか、母−同一化で終わるかは、男女どちらにおいても、男性性と女性性のどちらの気質が相対的に強いかにかかっているようである。(十八/29、素質を気質に変更している)

   バトラーが批判しているのは、父への同一化か母への同一化を決めるのは、その同一化する自己が元々持っている男性らしさ/女性らしさの気質の相対的な強さによるという論理である。これは実際、かなり奇妙な論理の転倒だ。フロイトは同一化という概念によって、後天的に得られる性という意味でのジェンダーの考えを取り入れようとしているようにみえる。しかし気質は対象備給に先立つとされており、結局はその個人がもつ性質のなにかが、父/母への同一化を最終的に決定づけるようである。父(男性的なもの)あるいは母(女性的なもの)へと同一化をする以前に存在する男性的/女性的な「気質」とはいかなるものか。バトラーは、フロイトは女性気質=男性を愛する気質、男性気質=女性を愛する気質としているためにこの奇妙な転倒が起こるのではないかと指摘する*3(GT119)。たしかに、男児のエディプスコンプレクスにおいて父に同一化することとはつまり、その後に女性を愛の対象とするということであり、母に同一化することは「女児のように」振る舞い、父親に対して「情愛的な女性的態度」を示すということである(十八/29)。そして、対象選択以前に存在するとされる「気質」は、そのどちらかの同一化を決定する因子として定義される。
 すなわち、エディプスの図式においては、性差は愛の対象によって決定されるという性自認性的指向の混同が生じているうえ、その愛の対象は同性愛的な欲望が禁じられていることによって予め排除され、選別されている。ただし、フロイトの理論のなかで同性愛の存在が認められている点は指摘しておきたい。たとえば「女性同性愛の一事例の心的成因について」においてフロイトは、性自認性的指向を区別するように記述しており、「男性的性質の方が優り、性愛生活でも男性的な類型を示す男性が、にもかかわらず対象の点では倒錯していて、女性ではなく男性しか愛さないということがありうる」と述べている(十七/269)。しかし、父母という異性愛達成者のもとでおこるエディプスコンプレクスにおいて、父に同一化しながら男性を愛すること、母に同一化しながら女性を愛することは想定されていない。くわえて、フロイトが「両性性」という言葉で示しているのは、男性として女性を、女性として男性を愛するという二つの異性愛的傾向を一個人の内にもつということだ。
 精神分析は、「対象選択に際してその決定につながった心的機制を明らかにし、その機制から欲動の素地への道をたどってゆく」(十七/270)ことを目的とする。しかし、対象選択に先立ち、その選択の原因かのように措定される気質は、実は同性愛の禁止という暗黙の法のもとに、異性愛達成の結果としてあくまでも事後的に仮定されるものである。バトラーの言葉を借りれば、「男性気質や女性気質は、精神の一時的な性的事実ではなくて、自我の理想像が共謀しておこなう価値転換行為によって、また文化によって、押しつけられる法が生み出す結果にすぎない」(GT123-124)。そして、生得的であるかのような気質と心的事実を根拠にしながら、欲望を禁止する法(近親姦タブーと同性愛タブー)によってその気質を強化させるという物語は、気質の自然性、基盤性を問う可能性そのものを排除している。気質は、それ自身の成立過程を隠蔽することを目的とした物語の遡及的効果である。すなわち、「〈気質〉とは、言葉に出されず、また禁止によって語りえないものにされている強制された性の禁止の歴史の痕跡」(GT124)なのである。

 

2−2 同性愛の予めの排除

 ここであらためて、エディプスの物語を検討しよう。男児は敵対者である父へと同一化することによって、母を愛しながら父を憎み、また恐れるというコンプレクスを解消するのであった。しかし、仮にこのプロセスで失った対象を自己に内在化させるメランコリー的同一化が生じるとすれば、近親姦的欲望の禁止によって失った母が内面化されるはずである。この齟齬をどう理解すればよいのか。バトラーは、それを暗黙に同性愛的欲望が禁じられていることの帰結とみなす。すなわちバトラーの考えでは、男児が父へと同一化するのは、父が敵対者だからではなく、同性愛が禁じられているせいで失わなければならなかった愛の対象だからである。

同一化は、自己と対象との関係を代償したものであり、また対象喪失の結果でもあるために、ジェンダーの同一化は、禁じられる対象のセックスを、禁止として内面化する一種のメランコリーとなる。この禁止が、明確に区分されたジェンダーアイデンティティ異性愛欲望という法を認可し、規定していく。だからエディプスコンプレクスの解決は、ジェンダーの同一化にたいして影響を及ぼすものだが、それがおこなわれるのは、近親姦タブーを通してだけでなく、それに先立つ同性愛タブーを通してでもある。その結果、ひとは同性の愛の対象に同一化することになり、それによって、同性愛のリビドー備給の目標と対象の両方を、内面化してしまう。(GT122-123)


 この読解を受け入れれば、喪失対象を引き入れるメランコリー的同一化と、男児の父への同一化を齟齬なく説明することができる。バトラーによれば、フロイト男児のエディプスコンプレクスを終結させる契機とみなしている去勢不安は、父による罰としての去勢を恐れるのではなく、父を同性的に愛した結果、みずからが「女性化」されてしまうのを恐れるために生じる。男児は父を愛することを禁じられているがゆえに喪失しなければならず、その喪失のメランコリー的同一化によって父のジェンダーを身に帯びるのだ。
 つまり、同性愛的欲望を断念することは、むしろエディプスの異性愛的な達成を条件づけるものとなる。フロイトは「両性性」に言及しながらも、その理論の主眼がやがては異性へとリビドーを向かわせるエディプスの図式へと収斂するのは、この図式において同性愛の可能性が予め排除(foreclosure)されているためなのだ。このようにバトラーは、同性愛が暗黙にタブー視されるような構造を批判しているのである。

エディプス的葛藤は、異性愛的欲望が既に達成され、異性愛と同性愛の区別が実行されていること(この区別には結局のところ何の必然性もない)を前提としている。この意味において、近親姦の禁止は同性愛の禁止を前提としているのである。というのも、それは欲望の異性愛化を前提としているからだ(PP175)。

 しかし、「同性愛タブーは近親姦タブーに先立つ」という繰り返し提起されるバトラーの主張は、同性愛を具体的な喪失としてではなく、構造上生じてしまう根源的な不在として位置づけてしまうかのような印象を与えることもまた確かである。『ジェンダー・トラブル』では、「すべてのジェンダーの同一化が、同性愛タブーをうまく実行したことに基づいているわけではない」(GT123)としているにもかかわらず、『権力の心的な生』では、主体は「主体化の諸限界を徴しづける同化不可能な残余、メランコリーに取り憑かれている」(PP41)と書かれており、メランコリーのメカニズムは一般的な主体形成にかかわるものだとみなされている。
たとえばドミニク・ラカプラは、バトラーがメランコリーの構造を一般化することに批判的である*4。ラカプラは、不在と喪失の区別を主張し、もし喪失を不在と取り違えてしまった場合、それは「終わりなきメランコリー、不可能な喪、過去と歴史的な喪失を徹底操作*5〔workingthrough〕するどのような道も閉ざされるか、流産するしかない、永劫のアポリア*6」になるという。つまり、同性愛の禁止のメランコリーによって主体化を条件づける以上、同性愛が永遠の不在として位置づけられてしまい、その喪失は原理的に取り返しのつかないものとなってしまう。しかしバトラーはあくまでも、(フロイトの理論のように)異性愛規範が前提とされるとき、そこで予め排除されている同性愛の可能性について述べているのであって、この排除を不可避で不変の事態とみなしているわけではない。『ジェンダーをほどく』(2004年)でバトラーは、ふたたびメランコリーの限定性を主張している。

異性愛的メランコリー、すなわち、異性愛の中にジェンダー規範の強化として現れる同性愛的な愛着の拒否(「私は女だから、女を欲しない」)を明らかにするべく、私は、ある種の愛の形に対する禁止が、主体の存在論的な真実としてどのように据えられている〔installed〕かを示そうとしている。「私は男である」という「私」が「私は男を愛してはならない」という禁止を内包することで、その存在論的主張が禁止そのものの力を持つようになるのである。しかし、これはメランコリーの条件下でのみ起こることであり、すべての異性愛がこのように構造化されているわけではない。また、一部の異性愛者が同性愛の問題に対して、無意識のうちに否認するのではなく、単純な「無関心」でいることができないということでもない。(この点については、イヴ・コゾフスキー・セジウィックから引用している)。また、私は何よりもまず同性愛者の愛があり、その愛が抑圧され、その結果として異性愛者が現れるという発達モデルを支持していると言いたいわけでもない。しかし、このような説明がフロイト自身の仮定から導かれるように思えるのは興味深いことだ*7

 このように、バトラーはフロイトのテクストから導き出される同性愛の構造的排除を指摘しているが、より一般的にまず同性愛があって、それが抑圧されてはじめて異性愛的主体が生み出されるという主張をしているわけではない。異性愛者にとって同性愛の対象はもう取り戻すことのできない不在としてあるのではないが、一方で実際にどのような主体がメランコリーの条件のもとにあるのかという具体的な記述はできない。メランコリーの条件を理論づけてしまうと、必ずその条件から排除された領域がふたたび生み出されてしまうからである。異性愛者が自身の同性愛の可能性を否認しているとき、身体に帯びたジェンダー規範をより強固にしていくというメカニズムがメランコリーなのだ。異性愛が強固に前提とされる言説や主体の場において、そこにはいつの間にか失われてしまっていた別の愛の可能性があるかもしれない*8

 

2−3 パフォーマティヴなジェンダー

 父あるいは母との同一化が、異性愛規範のもとで可能になり、またその同一化の原因として措定されている気質あるいは一次的同一化が、それ以上遡及不可能な本質ないし「自然」として基盤化されるということ。すなわち構築的なジェンダーの根拠に自然的なセックスがあるために、ジェンダーの規範性を覆すことができなくなってしまうという難問。それに対処するべくバトラーが用いたのが、「パフォーマティヴィティ(行為遂行性)」である。バトラーにおけるパフォーマティヴィティの概念は多義的で、年代と著作によってもその扱いが変化している。ここでは、特にパフォーマティヴィティが、引用のもつ反復=反覆可能性によって規範を攪乱する契機となりうること、主意主義的でない主体概念を提示しようとしていることの二点を確認する。
 パフォーマティヴィティは、アメリカのアカデミズムにおいて二重の歴史をもつ。すなわち、J・L・オースティンの言語行為論、ならびにそれを批判的に引き継いで理論化したジャック・デリダ脱構築派の流れと、「パフォーマンス・スタディーズ」というあらゆる行為をパフォーマンス(=演技)として捉え直す研究の流れである。バトラーの『ジェンダー・トラブル』はこれら二つの流れの結節点となっていることが指摘されている*9。まずは、オースティンの言語行為論について概観しよう。パフォーマティヴとは、コンスタティヴと区別して提示された言語の用法である。コンスタティヴ(事実確認的)は、先に事象があり、それを確認するように言葉を用いることである。例えば、「今は二時だ」「私は学生だ」などだ。それに対して、パフォーマティヴ(行為遂行的)は、言語を発すると同時に行為となるようなものである。例えば、「私は結婚する」「私はあなたを〇〇と名付ける」などだ。パフォーマティヴな発話は、真偽ではなく、その行為と発話が適切かどうかという観点で捉えなければならない*10。たとえば同性同士の婚姻が法的に認められていない現代の日本において、女性の同性愛者が「私はある女性と結婚する」と言っても、その行為は法的には成立できないことになる。また、「結婚する」という言葉が指し示すものは、日本においてはたいてい婚姻届を届けたり、戶籍を移したり、あるいは結婚式をあげたりするという行為であり、これは繰り返しなされてきた慣習の力によっている。戶籍のない国や、同性婚が認められている国では「結婚する」という言葉の行為内容が変わってくることだろう。このように行為遂行的な発話は、その発話がなされた状況や文脈によって、適切か不適切かが判断される。
 バトラーは、ジェンダーアイデンティティがパフォーマティヴだという。それはつまり、ジェンダーは身体的性差=セックスという事実に基づいてコンスタティヴに記述されるのではなく、その都度ごとの身ぶり、行為、発話に応じて構築されるのだということだ。

行為や身ぶりや演技〔enactments〕は、それらが表出しているはずの本質やアイデンティティが、じつは身体的記号といった言説手段によって捏造され保持されている仮構物〔fabrications〕にすぎないという意味で、パフォーマティヴなものである。(GT240)

 ここでバトラーは狭義の言語論の範疇を超えて、身体的な動きをある種の記号、言説として捉えている*11。男/女というアイデンティティは、解剖学的性差の表出ではない。男らしい/女らしい身ぶりは、社会的な文脈の中で記号として保持されてきたものにすぎないのだ。そしてジェンダーは、そのように繰り返し反復される身ぶりや言語行為のなかで構築されてきたものであり、それだからこそ、いままでの慣習に従わない反復というものがありうる。ジェンダーを理解する既存の社会的枠組みにとっては不適切な発話行為の可能性があるということが、ジェンダーのパフォーマティヴ性を考える意義の一つである。

ジェンダー化された永続的な自己とは、アイデンティティの実体的な基盤の理想に近づくように、反復行為によって構造化されたものであることが判明する。他方でその反復行為は、ときおり起こる不整合のために、この「基盤」が暫定的で偶発的は〈基盤ナシ〉であることも明らかにするのである。ジェンダー変容の可能性が見いだされるのは、まさにこのような行為のあいだの任意の関係のなかであり、反復が失敗する可能性の中であり、奇−形のなかであり、永続的なアイデンティティという幻想的な効果〔phantasmatic effect〕がじつはひそかになされる政治的構築にすぎないことをあばくパロディ的な反復のなかなのである。(GT247-248)

    基盤ないし根源的な本質とみなされるアイデンティティは、言語行為が反復されることによって政治的・社会的に構築されてきたものである。それゆえに現行の慣習と異なる仕方での反復、パロディ的な反復の可能性がある。反復(repetition)的な引用行為は、必然的に慣習に差異をもたらす反覆(reiteration)なのだ。パフォーマティヴの反復=反覆可能性についてはデリダが論じていたことであるが、バトラーはデリダに逐一言及せずともこうした脱構築的な戦略をとっている*12。しかし、この攪乱的な反復は主体の意図によって自由に行使できるものではない。たしかに『ジェンダー・トラブル』では、このパフォーマティヴィティの例を、ドラァグのような衣装やメイクを派手に、過剰にするパフォーマンスのこととしているために、意志をもった主体がその意志のままに自由に選択できる行為だと解釈された。だが、言語や習慣がある程度の時間をかけた拘束性を持つ以上、このような反復はむしろ強制された不自由なものであるといえる。そしてバトラーが強調するのが、行為のまえに意図をもった主体が存在するのではないということだ。

アイデンティティの政治の基盤主義的な考え方からすれば、政治的利権を練り上げ、次に政治行動を起こすためには、まずアイデンティティが適切な場所にいなければならない。しかし「行為の背後に行為する人」が存在する必要はなく、「行為する人」は行為のなかで、行為をつうじて、さまざまに構築されるのだとわたしは主張したい。(GT250)

 フェミニズムが、女という一枚岩のアイデンティティに基づいてその立場から男女平等ないし女性解放を目指す運動であるならば、逆に女というカテゴリーが本質化され、現在の性の制度が再生産されてしまうことになる。そのように行為の背後にある意図をもった行為者(agent)と区別される主体概念として、バトラーは「エイジェンシー」という概念を持ち出す。エイジェンシーとは、行為をつうじて構築されるオルタナティヴな主体のあり方である。エイジェンシーの日本語訳は現在では、「行為能力」でほとんど統一されている*13。 しかし、最初の訳者である竹村和子は「行為体」としており、これが「既存の権力体制の内部にありながら、引用がはらむ置換に「何かをおこないつつ生産していく」能動性を秘めたものとして」あること、また「主体に代わる概念という意味合いも込め*14」て、この語を選択したと語っている。文化や言説の制約をうけながら、しかしそれに完全には従属することのない、ある抵抗の地点、それがエイジェンシーである(GT251)。

 

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*1:バトラー『ジェンダー・トラブルフェミニズムアイデンティティの攪乱』、新装版、竹村和子訳、⻘土社、2018年。以下GTと略記。

*2:精神分析に対するフェミニズムの側からの反応については、北村婦美「精神分析フェミニズム——その対立と融合の歴史」(⻄見奈子編『精神分析にとって女とは何か』、福村出版、2020年、1-60頁)にまとめられている。

*3:このとき抹消されるアセクシュアルの存在について、松浦優が「メランコリー的ジェンダーと強制的性愛——セクシュアルの「抹消」に関する理論的考察」『GenderandSexuality』(15)、国際基督教大学ジェンダー研究センター、2020年、115-137頁において論じている。

*4:同様の批判を、ラカプラを翻訳した村山敏勝も行っている。Cf.村山敏勝「主体化されない残余≠去勢」『現代思想』vol.28-14、2000年12月、⻘土社、195頁。「根源的なメランコリーによって主体が生まれるとされるとき、「規範化されない残余」といった口調ともあいまって、失われた対象は根源的な不在のようにも聞こえる。しかし、じつはそこにあるのは同性愛という具体的な喪失である。ところが再度、この喪失は現実に起こったものではなく、異性愛社会の規範によって起こる前から失われているのだから、取り戻すことのできない根源的なものである。もちろん同性愛を取り戻したからといって主体の十全性が実現するわけではないから、バトラーがユートピア的に同性愛を不在の象徴と化しているという批判はあたらない。しかしあれほど記号の再流通にこだわるバトラーは、ここではきわめて論理的な構図を作り出すことによって、異性愛/同性愛の二項対立を非歴史的に固定しているような印象すら与えてしまうのだ。くりかえせば、『権力の心的生』における「主体化されない残余」は、ラカンの公式とはまったく異なって、具体的な内容をもった空間である。心的空間のなかに、社会権力を超自我というかたちで組みこみ、同時に棄却された対象も循環のなかに組みこむことがここでの企てである。システムのなかにありながら排除された場」。

*5:徹底操作とは、精神分析の過程において、解釈に統一を与え、解釈がひきおこす抵抗を克服する作業のこと。Cf.ラプランシュ/ポンタリス『精神分析用語辞典』、村上仁監訳、みすず書房、1977年、330頁

*6:ドミニク・ラカプラ「トラウマ、不在、喪失」(上)、村山敏勝訳、『みすず』、2000年5月、みすず書房、16頁

*7:Butler, Undoing Gender, New York and London: Routledge Press, 2004, pp.119-120

*8:ここで筆者はバトラーに従うことで異性愛と同性愛という二項対立を強固にしていることを認めなければならない。異性愛規範に抗うセクシュアリティのあり方は、非性器的なものも含めてより多様なはずであり、なにも同性愛に限定する必要はない。また反対に、母と娘の関係は「唯一性器的なセクシュアリティの可能性を、どのような意味においても根源的に許されなかった家族、そして非−性器的なセクシュアリティを称揚された家族」であり、娘のメランコリーは複雑で根深いものだと書いているのが、竹村和子である。竹村は、論考「あなたを忘れない」(『愛について』、岩波書店、2002年、138-206頁)において、メランコリーの概念を用いながら「母」「娘」「女」というカテゴリーの規範性と可変性について論じ、本来「全階調」であるはずの愛が性器のみによって価値づけられてしまうことのメランコリーを描き出している。

*9:藤高和輝は『ジュディス・バトラー生と哲学を賭けた闘い』(以文社、2019年)の特に第六、七章において、バトラーにおけるパフォーマティヴィティ概念の形成と変遷についてまとめており、この点を指摘している。

*10:オースティンは、『言語と行為』(飯野勝己訳、講談社学術文庫、2019年)において、行為遂行的な発話が「適切」になるような条件を六つあげている(35頁)。しかし後には「遂行体は確認体とまったく明白に区別される——前者は適切または不適切になり、後者は真または偽になるという仕方で——わけではない」(109頁)と述べ、遂行体と確認体の区別はそう単純ではないこともまた示唆している。

*11:バトラーは、『ジェンダー・トラブル』の中ではオースティンに言及することなくパフォーマティヴという単語を用いている。

*12:デリダの反復=反覆にバトラーが直接言及しているのは、たとえば『問題=物質となる身体』(佐藤嘉幸監訳、以文社、2021年)の310頁などである。145頁でも同様の論点があげられるが、ここでは訳者がデリダの参照を注釈している。

*13:バトラー自身がフランス語の定訳capacité dʼagir, puissance dʼagirを承認しており、「力」の意味が強くでる行為能力が採用されている。また、フロイトの「批判的審級 kritische Instanz」の英訳は、critical agencyである。(PP43,251)

*14:以下の「訳者あとがき」より。サラ・サリー『ジュディス・バトラー』、竹村和子ほか訳、⻘土社、2005年、307頁。