しかしあたりまえながら日記者は日記を書いているとき最も上きげんで最も健康なのだ。日記を書く時間をぬすめたかぎり、日記者の生存は安泰であり、ごく平坦な日常にまぎれていようと制作に没入していようと、あるいは喜怒哀楽の高揚にあろうと、ふりかかる難題をしゃにむに取りさばいている充実にあろうと、日記を書かないでいるなら日記者はあやうい。
よぶんな存立といぶかられもしようが、生きものとしての存在と制作者としての存在という、しばしば対立し亡ぼし合おうとする2者にくわわる、いわば3つ目の位格として日記者はあり、双ほうの熱量をぬすむようで補給し、補給するようでやはりぬすみ、だがどちらかの半死のきわにはどちらの代替ともなって衰減をくいとめ、それでいて2者を調和させるのではなく、相剋がけして解消しないようにそれぞれをそれぞれに保たせるのである。
黒田夏子『累成体明寂』
以前は無限に感じられていた読みたい本、見たいコンテンツがさいきんでは有限に感じられるようになってきており、こういうときひとは制作者になるのかもしれないと思った。じっさい論文はそういうモチベーションで書かれた。
いつのまにか大学生活が終わっていた。コロナが流行ってからの記憶があまりなく、なんの成果もないような気がしてくるが、一応以下のようなタイトルの文章を書いてきて、十八歳のころに比べれば多少成長とよべるようなものがなにかしらあったのかもしれない。それにしてもこの文章のテーマの散逸がそのまま学部のディシプリンの無さを表しており、良くも悪くもなにか一つのことを探求するということがなかった。いまも何か書きたいという気持ちではあるが、何を書くべきか定まっていないと書けないので、書けない。
○ジュディス・バトラーにおけるジェンダー・メランコリーの系譜学
・ジュディス・バトラーにおける「エイジェンシー」の可能性
・家族規範をゆるめる(『アンティゴネーの主張』と『最愛の子ども』)
・両性具有について(ヴァージニア・ウルフ、金井美恵子、松浦理英子)
・ウルフ『オーランドー』について
・ドゥルーズの「超越論的経験論」とは何か
・文学の戦争機械 モニク・ウィティッグ『女ゲリラたち』について
・日本におけるキリスト教讃美歌の受容
・知への意志としての哲学
・近代フランス語詩の歴史
・D・W・グリフィス『田舎医者』の分析
・学校と性教育の困難
・メルロ=ポンティ「幼児の対人関係」における他者理解=自己認識の問題