ジュディス・バトラーにおけるジェンダー・メランコリーの系譜学②

はじめに

第一章 フロイトのメランコリー論

 

1ー1. 喪とメランコリー

 

 バトラーがメランコリーに注目するのは、他者を自我のうちに内在化させるというメランコリー的同一化(identification)のメカニズムが、ジェンダーアイデンティティの形成に関係するからである。「メランコリー的同一化は自我がジェンダー化された性格を引き受ける過程の中心をなしている」(PP172)。あるジェンダーを引き受け、身に帯びることを同一化として捉え、さらにその同一化がどのような規範によって引き起こされ、制限されているのかを問うことが課題となる。まずは、フロイトがどのようにメランコリー論を展開させたのかをみておこう。
 フロイトは論文「喪とメランコリー」(1917年)において、愛する対象の喪失への反応として、喪とメランコリーを対比的に提示した。喪は「愛する人物の喪失、あるいは祖国、自由、理想など、愛する人物の代わりになった抽象物の喪失に対する反応」*1(十四/273)である。心的状態としては、「深い苦痛をともなった不機嫌、外界に対する関心の停止、愛する能力の喪失、あらゆる行動の制止」(274)のようなものに陥るが、それは病的なものではなくむしろ正常な作業であり、一定期間ののち克服される。それに対してメランコリーは、対象喪失への反応であることは喪と同様で、精神状態もよく似ているが、とりわけ「自尊感情Selbstgefühl」の低下が激しく生じるのが特徴である。自尊感情、すなわち自己をケアする能力が低下すると、それは「みずからに対する非難と悪口雑言となって現れ」、究極的には自殺に至るような自己への処罰をおこなうほどになる(274)。自責の病なのだ。
 喪とメランコリーの最も大きな違いは、喪が「喪失に関わることは何一つ無意識的でない」のに対し、メランコリーは「なんらかの喪失があったと想定すべきだと確信しているにもかかわらず、何が失われたのかをはっきりと認識することができない」(276)という点にある。喪は喪失が意識的なのに対して、メランコリーは無意識的である。喪の場合には、愛する対象を失ったとき、その対象に向けられていた性的な心的エネルギー、すなわちリビドー*2は、時間をかけて撤収され、やがてまた別の対象に向けられることになる。喪失した対象がはっきりとわかっているため、リビドーをそれとは別のものへと向けることが可能であり、その過程が正常な哀悼の作業となる。しかしメランコリーはそもそも何を失ったのかがわからないために、リビドーをうまく他の対象に移し替えるということが困難なのだ。
   ではメランコリーにおいて、行き場を失ったリビドーはどこへ向かうのだろうか。リビドーは他の対象へと移行するのではなく、自我のなかに引き戻され、そこで放棄した対象を自己に同一化させるのに用いられる。このように、外部の対象にリビドーが向かっている状態(=対象備給)が放棄されるような同一化は、ナルシシズム的同一化と呼ばれている。
 フロイトは「ナルシシズムの導入にむけて」(1914年)において、一次ナルシシズムと二次ナルシシズムを定義している。一次ナルシシズムは、自他の区別がついていない原初的な状態を指し、この状態ではリビドーは自我に内部に滞留している。二次ナルシシズムは、一度リビドーが対象に向かった後に、再び自我にリビドーが向かう状態である。つまりナルシシズムとは、リビドーが自我に向いている状態を指す。「喪とメランコリー」において、このナルシシズム的同一化が「退行」と呼ばれている箇所があるが、それは、ナルシシズムが他者を愛の対象として選択する段階以前の時点に存在しているという意味である。このようにメランコリー的な同一化によって、対象への愛は、より原初的な自己愛へと変化するのだ*3。またこのナルシシズム的同一化は、口唇期、あるいは「食人的な段階」に属するということも提示されている*4フロイトは、リビドーの源泉となる身体器官が成⻑の発達段階によって変化していくという理論を示した。リビドー発達論は、口唇期→肛門期→男根期(エディプス期)→潜伏期→性器期(異性愛的な性器の結合)というように一連の発達段階によって構成されるが、ナルシシズムはそのうちの最初の段階、口唇期にあたる。この段階では、吸乳行為に伴う口腔と口唇の刺激を通して、子供が母親に対して自他未分化的な愛着を示す。
 ただしメランコリーに陥った者は、このように愛する対象を自我へと引き受けるが、その対象へは、愛情と憎しみの両価的(アンビヴァレント)な感情がはたらいている。そのため、同一化によって自我に引き入れられた対象に対しては、リビドー的な愛着だけでなく、批判的な感情が向けられる。フロイトは、その例として、「自分の夫が無能な女性(自分)と一緒になったことを嘆く妻」を挙げている。彼女は自分を非難しているようにみえるが、実は、夫を無能だと訴えているのである。「自我と愛する人との間の葛藤〔Konflikt〕は、自我批判
と同一化によって変化した自我の内的分裂〔Zwiespalt〕へと転換された」*5(281)。本来外へ向くはずの攻撃性が、自身へと向くために「内的分裂」が生じる。それゆえ自尊感情が低下し、自責の病となるのである。このようにメランコリーが生じるには、対象の喪失、両価性、自我へのリビドーの退行という三つの条件がある。自己のうちにあって自己を攻撃する部分は、「喪とメランコリー」においては、「特別な審級」、あるいは「批判的審級」、「良心」とよばれている。このような、自己のうちにあって自己に批判的な審級の名称と内容が、フロイトの著作の中で変遷していくことになる。

 

1−2. ある批判的審級

 フロイトは「自我とエス」(1923年)において、以前に提出したメランコリーの概念が、自我や超自我の形成に関わるものだとしている。つまり、そこでメランコリーはある特定の病理を宿したひとが陥る状況ではなく、個人の心的構造一般にかかわるメカニズムとして捉え直されたのである。

何らかの強制ないし必然の結果、この種の性対象が断念されねばならなくなった場合には、その代わりに、往々にして自我変容という事態が出来することになる。それは、メランコリーの場合に見られるように、その対象を自我のうちに打ち立てる操作とでも言わねばならない。むろん、この代替作業については、詳しい事情はまだわかっていない。もしかしたら、自我は、口唇期の機制へのある種の退行ともいえるこの取り込みを通して、対象の断念を用意ないしは可能にしているのかもしれない。あるいは、そもそもこの同一化が、エスにその対象を断念させるための条件となっているのかもしれない。ともあれ、この出来事は特に早期の成⻑段階において頻発するもので、したがって、こう考えることも可能かもしれない。すなわち、自我の性格は、かつて断念された対象備給の沈澱したものであって、そこにはこうした対象選択の歴史が刻みつけられている、と。(十八/24)

 

 他者を愛すること、またそれを断念することによって自我は変化する。喪失した他者を自我に同一化させることで、自我の性格には変容が生じるのである。バトラーはこのことを、ジェンダー的な性格の変容として記述し直そうとしている。
 なんらかの制約で対象を失わなければならなかった主体がその対象を取り込む過程において生じる自己の変容について、フロイトエス、自我、超自我という心的機構の図式をもちいて説明する。エスとは、欲動(生の欲動と死の欲動)の場であり、「自我と地続きでありながら、無意識的な振舞いをする」心的なものである(十八/18)。生の欲動とは、自己の生命を維持する方向へむかうエネルギーのことで、反対に死の欲動は、生命を死滅させる方向へとむかうエネルギーのことだ。エスはこの二つの欲動の「貯蔵庫」となっている。自我は、エスが外界からの影響を変容したものであり、「激情をはらんだエスとは反対に、理性や分別と呼べるものの代理をしている」(19)。このようなエスと自我の関係は、自由に振る舞う馬とそれを制御する騎手の関係に喩えられる。ただし、この騎手=自我は、「よそから借りてきた力」でもってエスを制御する。その力が超自我である。超自我は、社会的な道徳を体現するという形で外界の影響を代理し、その規範を守るように自我へと命令する。すなわち、超自我は支配的な振る舞いをする部分である。個体の中では、エス・自我・超自我のそれぞれがバランスをとることで、欲求と良心の調整をおこなうのである。
 メランコリーを通じた他者の内在化による自己の内的分裂は、自己を懲罰的に責める感情を引き起こすところに特徴があった。そのような、自己のうちにあって自己を懲罰する部分に、「自我とエス」では超自我という名を与えられている。超自我は「死の欲動の一種の集積場」となり、自我を死へと向かわせる力をもつ。メランコリーに陥る者においては、「自我理想〔=超自我〕が、特別の厳格さをあらわにし、自我に対してしばしば残酷なまでに猛り狂う」(十八/50)。つまり超自我が強すぎることがメランコリーの成立条件なのだ。しかし、そこまで厳格ではない程度の力をもった超自我はすべての人がもつ審級である。この超自我の攻撃性は何に由来するのだろうか。
 フロイトは、「トーテムとタブー」(1913年)においてこの攻撃性の起源を、原父殺害の神話に帰して説明している。原父殺害の神話とは、部族のなかで女性たちを性的に独占した暴力的な原父を、部族を追放された兄弟たちが一緒になって殺害し、その肉を食べたというものだ。兄弟たちは、みずからの性的な欲望と権力への欲求を邪魔する父のことを憎んでいた。しかし殺害したのち食人という行為によって父へと体内化ないし同一化すると、それまで押さえつけられていた情愛の動きが顕れる(十二/184)。つまり、息子たちのうちでは父への憎しみと羨望のような愛情が一体となってあるのだ。前節で述べたように、メランコリーに陥った者は、もともと対象に対して愛と憎しみのアンビヴァレントな感情を抱いている。そしてこの神話においても、父に対するアンビヴァレンツがあることが強調されている。後年、フロイトは「文化の中の居心地悪さ」(1930年)において改めて原父殺害の神話を取り上げ、この息子たちのアンビヴァレンツを超自我の起源としている。

この後悔〔=父を殺害したことに対する息子たちの後悔〕は、父に対する原初的な感情の両価性(アンビヴァレンツ)の結果であった。息子たちは父を憎んでいたが、また愛してもいた。憎しみが攻撃性によって満足させられると、行為に対する後悔というかたちで愛が前面に現れ、この愛が父との同一化を通して超自我を樹立し、あたかも父に向けてなされた攻撃の行いに対する懲罰のためとでも言うように、超自我に父親の権力を与え、こうした行為がふたたび繰り返されるのを防ぐための制限を設けたのだった。父への攻撃傾向はその後の世代でも繰り返し現れたので、罪責感もまた存在し続け、そのつど抑え込まれて超自我に移された攻撃性によって、新たに強められていった。(二〇/146-147)

 このように、息子たちの父へのアンビヴァレンツな感情が同一化の動機となり、そして父親への同一化が超自我の成立の契機となっている。また、超自我の攻撃性は、原初的な憎しみの感情を満足させるものである一方、超自我の存在によってさらに強められていくものでもある。フロイト自身も書いているように、超自我の攻撃性には二つの源泉がある。もともと自己がもっている憎しみの感情と、原父の権力が内面化されることによる攻撃性である。この二つが協働することで超自我の攻撃性は強まっていくのである。

 

1−3. エディプスコンプレクス

 フロイトによれば、超自我は自我がまだ脆弱だったころに生じた最初の同一化と、エディプスコンプレクスの産物である。ここでは「自我とエス」に即して、エディプスコンプレクスの図式を確認しよう。エディプスコンプレクスは、男児・女児と表・裏で、四つにパターン化されているが、エディプスの神話も原父殺害の神話も父と息子の物語であり、超自我の発生においては男児主体がモデルとされている。
 男児における表エディプスコンプレクスは、母(異性の親)を愛し、父(同性の親)を憎む近親相姦的な欲望と、父から罰せられることを恐れる不安(=去勢不安)の複合的な心的現実から生じる。まず男児は養育者・保護者である母親の乳房に愛着を示す(=依託型対象選択)。その一方で、男児は原初的な同一化を通じて父親に同一化している。この関係はしばらく並行するが、やがて母親に対する性的欲望が強くなり、この欲望に対して父親は障害となる。男児は母を奪い合うライバルとしての父を排除し、母親にとっての父親のポジションにつきたいという願望を持つ。その後、男児は父親からの報復、すなわち去勢を恐れる。そしてその報復から身を守るため、男児は父への同一化をいっそう強固なものとし、父の法=命令である近親姦の禁止を内面化する。父親を模範とし、その位置に同一化することで、男児はエディプスコンプレクスを解消するのだ。

対象備給は、断念されて、同一化に取って代わられる。自我のなかに取り込まれた父ないし両親の権威は、そこに超自我の核を形成し、この超自我が、父から厳格さを借りてきて、父の命じる近親相姦禁止を永遠のものとして樹立し、それによってリビドー的対象備給の回帰から自我を安全に保つ。(十八/306)

 母への愛を断念し、権威としての父親へ同一化することが、超自我成立の核となり、自我のなかで近親姦の禁止を命じる部分となるのだ*6。ここで一つの齟齬が生じていることがわかる。すなわち、男児のエディプスコンプレクスにおけて超自我を契機づける父への同一化は、母を奪いあうライバルとしての父への同一化であって、メランコリーを特徴づける喪失した対象への同一化とは異なる。男児の場合、近親姦の禁止によって失った対象は母なのだから、エディプスコンプレクスにおいてもメランコリーのメカニズムが働くとすれば、男児は母に同一化するはずである。男児は父に同一化(エディプス的同一化)するのか、母に同一化(メランコリー的同一化)するのか。この「喪とメランコリー」と「自我とエス」での「同一化」の微妙なずれが、バトラーのメランコリー的ジェンダーの理論において重要である。
 ただしこの矛盾、母あるいは父のどちらかの性に同一化するという前提のもとで、男児のメランコリー的な母への同一化とエディプスコンプレクスの解消に伴う父への同一化は両立し得ないという矛盾については、フロイト自身も気がついていた。そこでフロイトは、あらゆる対象選択に先立つ原初的な同一化とその個人が本来的に備えている気質が、どちらの性的ポジションに同一化するのかを根拠づけるとする仮説を立てた。原初的な同一化とは、前節で述べたように、原父殺害の神話に発した父への無媒介的な同一化である。ただし「自我とエス」でフロイトは、この同一化を本文中では「太古の時期の父親との同一化」と述べておきながら、註では「もう少し慎重な言い方をすれば、両親との同一化」であると留保を加えている。この後には「というのも、性の区別、すなわちペニスの欠落というものをはっきりと知る以前には、父親と母親は異なった価値づけされていないからである」と続くが、「叙述を簡単にするため、父親との同一化のみに話を限る」とされる(十八/26-27)。特に、男児においては原初的な父への同一化が、エディプスコンプレクスにおける父への同一化を強く根拠づけている。一方でフロイトは、男児の場合にもその個体が女性的気質をもっていれば、母への同一化(つまり裏コンプレクス)が生じる場合もあると述べており、結局のところ「もともと子供がもっていた両性性」に依拠してエディプスコンプレクスが生じるとしている(29)。
 このようにフロイトは、男児の場合にも女児の場合にも父−同一化と母−同一化の可能性がありえるとしているが、それを決定する素因に曖昧さを残している。バトラーのフロイト批判は、この論理の因果関係にこそ向けられるのである。

 

第二章へ

 

*1:フロイト「喪とメランコリー」、伊藤正博訳、『フロイト全集』、岩波書店、十四巻、273-293頁。以下、フロイトの著作からの引用はすべて『フロイト全集』からおこない、本文中に「巻数/頁数」を示す。巻数が前の文脈から明らかな場合には、頁数のみを示す。ただし「喪とメランコリー」は、十川幸司訳(『メタサイコロジー論』、講談社学術文庫、2018年、131-153頁)も参照する。

*2:本稿ではlibidoをリビドーと統一して表記する。フロイトは、リビドーを「性欲動が心の生活において力動論的に表出されたもの」(十八/156)と定義している。また別の論稿では、「規則的かつ法則的に男性的本性を有」(六/280)すると述べる。

*3:このようにメランコリーにおいては、対象愛ではなく自己愛が中心のため、「転移」がおこりにくく、精神分析では治療できないというのが現在の一般的な見方である。Cf.内海健ラカン理論から「うつ病」を考える」『I.R.S.ジャック・ラカン研究』No.11、日本ラカン協会、2013年、2-15頁

*4:食人的な体内化と、同一化のつながりについては、のちに詳述する。

*5:Zwiespaltの訳語としては、Konfliktとの違いを示すために十川訳の「内的分裂」を用いた。

*6:このように、男児のエディプスコンプレクスが去勢コンプレクスで終結するのに対し、女児の場合は去勢コンプレクスの後にエディプスコンプレクスが生じるという順序の逆転がある。女児の去勢コンプレクスにおいては、男性が持っているペニスを自分は持っていないこと、また母親も持っていないことを発見し、いわゆるペニス羨望が生じる。そして、ペニスを持つものとしての父親、あるいは父親の性質を引き継ぐ異性へと欲望が向けられる。このように去勢コンプレクスがエディプスコンプレクス(異性の親への近親姦的欲望)をうむ契機となる。そしてコンプレクスが解消すると、女性はペニスの代理である子供を欲するようになるのである。Cf.フロイト「エディプスコンプレクスの没落」太寿堂真訳、十八巻、301-309頁(1924年