レヴィナスの議論のほとんどすべての決定的な点において、「別の仕方で」という意味の可能性ないしは構築は、「あたかも〜のように」にもとづいている。「あたかも〜のように」は、懐疑論における問いかけや言語の多義的本性がそうであるように、意味の開けであり、哲学思想それ自体の内部での「啓示」のひとつの様相である。レヴィナスにおける「あたかも〜のように」は、ベンヤミンが存在論なしに意味と関係の星座=布置を構築しようと試みたことに通じている。つまり、「あたかも〜のように」は、ユートピアを垣間見る能力もしくは歴史を修復する能力なのである。レヴィナスにおける鍵構造を成すものとしての「あたかも〜のように」は、レヴィナスの思想を、ベンヤミン的な意味で、「アレゴリー的なもの」たらしめる。「あたかも〜のように」は、その対象を破壊し、裸に剝き、断片化し、意味と表象、真理とその内在的現出の滑らかな連続性に割り込んで、それを破壊するようなアレゴリー的解釈における「別の意味」と同じである。
読むのにすごい時間かけちゃった気がするけど、この一節が読めただけでまあ良かったかなという気もする。本当に何の気なしにつけたこのブログタイトルが伏線みたいになっている。アレゴリーはよくわからない比喩だから。
私たちが、起源にある一連の要求や禁令にアクセスするプロセスを翻訳として理解するのなら、このアクセスは、オリジナルなものの時間と場所に歴史的に回帰することでは実現しない。いずれにしても歴史的な回帰は不可能なのだが。むしろ逆で、翻訳が私たちに利用可能なものにしてくれるもの、現時点において翻訳が引き出し照らし出してくれるものに、私たちは向かうしかない。そうであるのなら起源の喪失は、ある種の「要求」が言語や時間を経由して受け継がれ存在し続けるための条件となる。生き残るものは、かくして、破壊されたものであるとともに今なお息づいているものである。翻訳の破壊的次元と啓発的次元とが、いまだ活動しているもの、いまだ輝きを失っていないものとなり、そしてこのことは、翻訳が、現在にも関連性をもつ宗教的資源であることを意味する。もしこれがアカデミックな議論としてのみ理解されるとするなら、こう付け加えてもよいだろう、人はベンヤミンの翻訳論を通してのみ、レヴィナス的な要求を理解できると——
ジュディス・バトラー『分かれ道』、岸まどか、大橋洋一訳、青土社、2019年、30頁
廃墟や破壊された断片について語ることはメランコリーに陥ることとちかいけれど、バトラーの、それでも希望を語ろうとする姿勢が好き。