2019-09-11(母娘/メランコリー/死)

 

津島佑子の『寵児』と竹村和子の『愛について』を並行して読んでいると、いやでも母娘という関係について考えてしまう。

 

フロイトのメランコリー理論をバトラーが読みかえ、さらにそれを読みかえた竹村によれば、娘は母からの分離、喪失を、「母」の体内化によって解決するらしい。体内化とはつまりは母になるということなのだけれど、理論としてはわかるけれども、あまりにやりきれない残酷なことではないか?  

メランコリーは、愛した対象を忘れ去る操作である。だがその結果として体内化された対象はべつの衣を着て、(矮小化された)愛の対象として、再登場してくる。母への愛は忘却せねばならず、しかし娘は、魂の次元で母につねに惹かれつづける。メランコリーは抑鬱的な心情を生みだすものである——喪失の漠然とした自覚はあっても、「何を失ったかが定かではない」ために(Freud)。そして、その全体を希求しながら部分しか与えられない愛もまた、抑鬱的な心情を生みだす。娘が経験する二重の禁止、二重の抑鬱。しかしこれこそ娘の性自認【セクシュアル・アイデンティフィケーション】の成長を測るパロメーターである。娘の母への愛が深ければ深いほど、そしてその愛を近親姦の禁止によって抑圧=忘却すればするほど、娘のメランコリーは深く強く、娘は得体の知れぬ抑圧、その原因も出口もわからない抑鬱に、暗く曖昧に沈み込むことになる。《法》の言語は、それに晴れやかな「成熟」のラベルをはる。いやおそらく「成熟」という合法性を与えなければ崩壊してしまうほどの危うい平衡状態が、身体性を含めた母への愛を忘れ去り「母」の体内化をおこなう娘の位置であるのだろう。

 

『寵児』では想像妊娠が描かれる。想像妊娠とは娘のメランコリーの失敗といえるかもしれない。母として「成熟」できなかった高子の痛々しさにいい意味で共感できないような、つめたい筆致が好もしかった。

とにかく、あなたは夏野ちゃんの保護者なんだから、自分の保護者を必要とするようなことをしたら、今更、おかしいわ。誰も、あなたの保護者にはなれないのよ。

山戸結希の「離ればなれの花々へ」も、かつての娘としての母について語っていた気がするのだけれど、忘れてしまった。

母娘に関する論は興味深いけれど、つらいのであまり深入りしたくない。

 

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6歳くらい年上のだらしなく脂肪をつけ、ボーダーの服を着た男が、ある人について「死んでしまえばいいと思っている」と怒っていた。帰りの電車で、細い脚に似合わない白いごつごつしたサンダルを履き、茶色い髪を長くして、爪にピンクの石をつけた女の子がほとんど叫んでるみたいな声で電話していた。「りくちゃんの好きなところ三つ言うねー。まず電話に出てくれるところでしょ、  うん、だってほかの男はみんな出てくれないもん。ねー死んじゃえばいいのに。」

うん、そうだね、みんな死んじゃえばいいよね。自分にいらない人はみんなみんな死んじゃえば平和になるのにね。

 

わたしは誰かから「死んじゃえばいいのに」って思われているかもしれないし、自分でも死を願っていると思うけれども、わたしほど死から遠くぬくぬくと生きている人間もいないだろう。

この間友人に「死にたいと思ったことある?」って聞いたら、驚いたように目を見開いて「あるの?」と聞き返された。