2020-08-22(子供時代/コメット/ズー)

——それは初めてのことだったの、あなたがこんなふうに言葉に捕らわれたのは?
——それが以前にもあったかどうか、思い出せない。でも、これ以後も、人に襲いかかり人を閉じ込める言葉の外へと、怯えて逃げだしたことが何度もあったわ。
——幸福という言葉でさえ、それがすぐ近くにあり、定着しそうになると、あなたは遠ざけようとした……。違う、これではない、こうした類いの言葉ではない、こうした言葉は私を怖がらせる、私はそんな言葉なしですませたい、そんな言葉は近づかないでほしい、どこにも触れないでほしい……ここには、私のなかには、その言葉に見合うものは何もない。

 

ナタリー・サロート『子供時代』、湯原かの子訳

子供のとき確かに感じていたことは、あとになってようやく、言葉によって意味づけすることができる。とくに子供にとっては家庭と学校が世界のすべてで、そこから逃れるには物語の世界に入るしかない。ルリユール叢書は初めて手にとったけれど、コンパクトな装幀がとても好きで揃えて本棚に並べたくなる。

 

 

名前がたいへんかわいいコメット・ブッククラブに入会した。コメットといえば、たしかロンがお下がりで持ってたしょぼい箒のコメット…と書きかけ、何号だっけ?と思って調べたら、コメット260号はマルフォイの初期の箒でした。ロンが持ってたのは〈流れ星〉。コメット・クラブに入ると図書目録が届いて、何を注文しようかわくわくで眺めている。本屋で本を選ぶのも好きだし、家でネットでポチッとするのも好き(しかしこれは動作が簡単すぎて若干の背徳感がともなう)だけど、カタログを見て注文するっていうのは実はやったことがないかもしれない。へんにレビューとか帯の宣伝とかそういう情報がないのも良い。でもこれ、品切れの表示とかないけどぜんぶ頼めるんだろうか。

  

 

●濱野ちひろ『聖なるズー』
 愛情はどこからが暴力か、意志の疎通と言葉を使えることの関係、完全な対等性はあり得るか、ズーたちを調査する中で、著者はセクシュアリティそのものの困難さに戸惑いながらも、しかしとても誠実な態度で人間や動物と対話してゆく。

「アンチがやってくるんじゃないかという恐怖心はあったよ。だけど、人目につくことが怖いというのはなかったな」
数年前のデモを思い出して、ミヒャエルはいった。性暴力やドメスティック・バイオレンスに反対するパレードで泣いてしまった私とは大違いだ。
「なぜ怖くなかったの?」
私は尋ねた。
「慣れたんだよ、そういう恐怖には」
その回答を聞いて、私は悲しくなった。ミヒャエルは不思議だという顔をして尋ねてきた。
「なんできみが悲しがるの?」
「偏見や好奇のまなざしにさらされる恐ろしさに、あなたが慣れてしまったことが悲しいんだよ」
「どうして?それは強さだよ。恐怖や悲しみが人生にはあること、そしてそれはやってきては去っていくことをあらかじめ知っていれば、もうそんなものには振り回されないですむじゃないか」

 松浦理英子と対談していたはずなのでそちらも読んでみる。

 

伴名練編集の『日本SFの臨界点 怪奇篇』に載っていた「雪女」がとても面白かった。著者の石黒達昌という名前に見覚えあるなと思って、八本脚の蝶を検索かけたら、やはり奥歯はこの人の作品を大好きだと言っていた。ついでに高橋たか子でも検索をかけたら、彼女について思っていたよりたくさん書いていて、なかでも「でも宗教はもっともらしすぎます。そこに安住したら高橋たか子になってしまう」(2002年12月20日)と言っていたことに引っ掛かった。ヴェイユの『神を待ちのぞむ』も刊行されたことだし、そろそろこのあたりのことをもう少し真剣に考えても良いかもしれない。