2021-12-18(メランコリー/ジェンダー)

卒業論文を提出した。
テーマ自体は一年以上前からずっと変わっていなくて、最初からこういうものが書きたいというヴィジョンがなんとなくあったけれど、それを秩序立てた論文の体裁にするということが難しくてそれなりに苦しかった。でもなんとか書きたいことが書けてよかった。ものすごく丁寧に添削をし、助言をしてくれる先生が現れなかったらたぶん書けなかっただろうと思う。大学で書いてきたレポートは本当に読まれているのか?と思うことも多くて、文章レベルの添削なんてこれまでほとんど全くうけられなかったので、卒論でそういう体験ができたことは本当に良かったし、こういう体験ができるならば大学院に行ってもいいかもしれないなあと思った。
ジュディス・バトラーにおけるジェンダー・メランコリーの系譜学」という題目で、ざっくりいえばバトラーにおけるメランコリーの概念を拾って、バトラーが精神分析フロイトラカンアブラハム&トローク)をどう受け取ってどう批判したのかということを書いた。フェミニズムクィアスタディーズを知りたいならまずバトラーは基本!とよく言われているけれども、精神分析を忌避していたらバトラーの理論は半分もわからない(それなのにあまり論じられない)という実感があり、精神分析が重要だということはわかるけれどどう重要かを理解して書きたいという動機があった。
第一章フロイトのメランコリー論(喪とメランコリー、超自我の問題、エディプスコンプレクス)、第二章バトラーのフロイト批判(ジェンダー・トラブル2-3あたりの議論、パフォーマティヴィティの説明)、第三章バトラーのメランコリー論の展開(ラカンの議論(問題=物質となる身体の第二、三章の議論)、体内化(アブラハム&トローク)とアレゴリー(すこしベンヤミンの話)について、バトラーの倫理論的転回、哀悼可能性、アンティゴネーについて、竹村のバトラー批判など)とざっくりこのようなことを書いた。文字数の割に書きたい内容が多く最初は「アイデアに言葉が追いついていない」と言われていて、完成稿も依然そうだとは思うのだが、でもとくに第三章の議論ができたので概ね満足している。アブラハム&トロークの議論はほとんどだれもしていないと思うし、バトラーがメランコリー(および哀悼可能性)の概念を中心にしながら「倫理論的転回」をおこなったことと、その議論のあやうさ(竹村が『境界を撹乱する』の「暴力、その後」という論文で指摘している重要な論点)などが書けたことは良かった。
わたしはあまり自分のことをクィアと呼ぶに値しないと思っていて、そのような人がバトラーを論じていいのかという迷いはずっとあった。大学一年の時からずっとなんとなく気になっていて、私が書けることがあると思えたのがバトラー、というだけだったし、大学院で同テーマを扱うとなればできないことはない(バトラーが参照している議論は未邦訳のものもたくさんあるのでそれを拾えればよりよくなる気もする)けれど、そんなに私がやる価値があるとは思えない。でもメランコリーは自責の病で、超自我のつよい状態(=社会的な規範性を強く身体化している)を生きている自覚はあるから、それなりの切迫した問題意識はあったと思う。

書き方については試行錯誤の連続で、最後は己の怠惰さを呪い続けた。時間&気分の管理としては、停滞している時は一日の文字数ノルマを決めて無理やり書くこと、論文に関わることに全く触れない日をつくらないこと、机に向かっている時間を計測すること、などがコツだったが、あまり頑張れなかったというのが本当のところだ。書く方法としては、関連の論文や書籍の内容をB6サイズのルーズリーフにメモする、書くべきトピックや文章構成のメモの付箋をつくるなどしたが、とくにこれがよかった!という方法はなかった。たぶん私はアイデア出しとかは得意だけどそれをひとにわかるように論理構成するというのはあまりできなくて、そこをかなり先生に頼ってしまった。アウトライナーは使いこなせなかったので、紙にこまかくトピック分けして書き出してあれこれ入れ替えるしかないのかもしれない。論文を書く機会はなさそうだけれど、このブログで公開できるような自由研究はし続けたいと思っている。ひとにわかるように説明するのは大変だけれど、結局それくらいできるようにしないと理解できたことにならないというのは真理なのだろう。