ジュディス・バトラーにおけるジェンダー・メランコリーの系譜学①

目次

●前書き

第一章  フロイトのメランコリー論

 1−1 喪とメランコリー
 1−2 ある批判的審級
 1−3 エディプスコンプレクス

第二章  バトラーのフロイト批判

 2−1 法の遡及的効果としての「気質」
 2−2 同性愛の予めの排除
 2−3 パフォーマティヴなジェンダー

第三章  バトラーのメランコリー論の展開

 3−1 幻想的同一化
 3−2 隠喩と身体
 3−3 暴力とメランコリー

 

  私のうちに他人がある。そのことが意識されるのはおそらく、私の欲求を自分で規制するような心の動きがおこるときだ。たとえば、ウーマン・リブの運動家である田中美津はこのような体験を語っている。

リブを運動化して間もない頃、それまであぐらをかいていたくせに、好きな男が入ってくる気配を察して、それを正座に変えてしまったことがあった。あぐら革命的、正座反動的みたいな偏見から己れを嘆く訳ではないが、しかし、楽でかいていたあぐらを正座に変えてしまった裏には、男から、女らしいと想われたいあたしがまぎれもなくいたのだ。その時、もし、意識的にあぐらか、正座かを己れに問えば、あぐらのままでいいと答えるあたしがいたと思う。しかしそれは本音ではない。その時のあたしの本音とは、あぐらを正座に変えてしまった、そのとり乱しの中にある*1


 他人から押し付けられる女らしさに抗うというフェミニストとしての考えをもっているにもかかわらず、女らしいと思われたいために無意識にあぐらを正座に変えてしまう。そのようなとり乱しが生じると、私は引き裂かれていることがわかる。自分を縛りつける社会規範をかくも内面化、身体化した私たちは、ときに社会を殺すより自分を殺したほうが早いと思うかもしれない。私は私のうちにある他人に殺されそうになる、それがメランコリーの脅威なのだ。
本稿は、ジュディス・バトラーにおける「ジェンダー・メランコリー」の理論を系譜学的にたどり、その内容と変遷を明らかにするものである。バトラーは「ジェンダー・メランコリー」(gender melancholia、あるいはmelancholy gender)という、「ジェンダーを一種のメランコリーとして、あるいはメランコリーの諸効果の一つとして」*2(PP171)捉える理論を練り上げている。これは主に、精神分析創始者であるジークムント・フロイトの「喪とメランコリー」という論文に拠っている。フロイトによれば、「喪」はその喪失した対象が明らかになっているのに対して、「メランコリー」は何を失っているのかということが明らかでないために、ある種の深いうつ状態に陥るものである。バトラーのジェンダー・メランコリーとは、近親姦と同性愛の禁止(=社会的掟)によって引き起こされた対象の喪失が、ジェンダーアイデンティティ(=心的なもの)を構成するということを、精神分析の諸著作を批判的に読解しつつ理論化したものである。それは現代のジェンダー論に大きく影響を与えているにもかかわらず、メランコリーの概念に注目してバトラーのジェンダー論を論じているものはあまり多くない。
 バトラーの理論は、とくにフェミニズムクィアスタディーズの分野において、この二十年ほどさかんに論じられてきた。その論点として代表的なのは、パフォーマティヴィティ(行為遂行性)であり、バトラーは初期の『ジェンダー・トラブル』(1990年)から最近の『アセンブリ』(2015年)まで、まさにパフォーマティヴに、意味を少しずつ変えながらこの概念を使用してきた。パフォーマティヴィティとは、ジェンダー規範をはじめとしたさまざまな権力体制のなかにおいて、その規範に抗っていく力の運動のことであり、確かにバトラーのジェンダー理論の中核となっている。一方で、なぜバトラーはメランコリーにこだわったのか。メランコリーの概念は、バトラーが読んできた哲学者・精神分析家・理論家たちの著作の結節点であり、バトラーの戦略的理論の原動力でありながら、その理論の瑕疵ともなりうるのである。いわば、バトラー自身の内でのとり乱しでもあり、そこに重要な論点が多く含まれている。
 まずメランコリーといってすぐに想起されるであろう、病理との関係について簡単に確認しておきたい。本稿でメランコリーと呼ばれるものと、現代における「うつ病」は等しいものではない。しかしまったく関係のない言葉でもない。うつ病とおなじく、メランコリーもまた社会と個人が関係する中で罹る病理だが、そもそも「病」とは歴史的な概念である、ということを念頭に置かなければならない。メランコリーの語源にあたるメランコリア(μελαγχολία)は、ギリシア語で黒い(μέλας)胆汁(χολή)という意味の合成語である。ヒポクラテスの体液病理説では、黒胆汁・血液・粘液・⻩胆汁の四つの性質に分類されたうちの、黒胆汁質とメランコリーが結びつけられていた*3
 現代でも、人間の性質による区別と病理が不当に結び付けられた例がある。エイズと同性愛者だ。一九八〇年代、エイズという病理は同性愛嫌悪的な言説になり、同性愛者が社会から排除される構造と深く結びついてきた。バトラーの著作はつねに、この頃のエイズの流行と「アクト・アップ」*4をはじめとした同性愛者たちの活動のことを忘れていない。メランコリーは、そのように社会から排除され公的に哀悼されなかった者たちを、いかに社会のなかで承認し直すことができるかという問題を提起する。メランコリーは、喪の哀悼が行えなかった者たちを自己のうちに沈殿物として残存させる作用のことだ。それは、自己と他者、個人と社会、身体と言語のゆらぎをも抱え込む。バトラーはこう述べる。

私はただ、哀悼されず哀悼不可能な喪失に関するフロイトの思考と、多大な困難を伴うことなしに同性愛的愛着の喪失を哀悼できない文化の中で暮らす苦境との間に、何らかの生産的な収束をなすと思われるものを示唆したい。(PP178)

 本稿の議論の流れとしては、まず第一章で、フロイト精神分析理論をメランコリーの機構を中心にして概説する。喪とメランコリーの区別、他者との関係が自己の性格に変容をもたらす同一化のはたらき、さらにエディプスコンプレクスにおいてどのように性差が規定されているかについて論じる。つぎに第二章で、バトラーのフロイト批判の論旨を追う。精神分析の理論に根強く残る同性愛排除的な言説を批判しながら、「自然」としてみなされる解剖学的性(セックス)と、文化的に構築された性(ジェンダー)の切り分けの困難さについて述べる。さらに、異性愛主義的な言説におけるそのような区別を批判する戦略として、言語行為論を一つの源流とする概念であるジェンダー・パフォーマティヴィティについて概観する。そして第三章では、バトラーのメランコリー論の展開をたどる。ラカンアブラハム&トロークといったフロイト以降の精神分析家たちが構築した理論について、バトラーは何を受容し、何を批判したのか。メランコリーの概念を繋ぎ目として、身体と言語、そのあいだにはたらく同一化と隠喩の作用について論じる。最終節では、これまでセクシュアリティについて論じてきたバトラーが、近年国際的な政治問題についても積極的に論じるようになっていることに触れ、そこでもメランコリー、および哀悼可能性が政治の重要な原動力となっていることを明らかにする。
 本論のタイトルは、「系譜学」の名を冠している。系譜学とは、ミシェル・フーコーによれば歴史のなかでいつのまにか起源として捏造されたり、連続的で整合的な物語として解釈されたりしたものに抗するような学問のあり方である*5。バトラーは精神分析の物語に対してどのように批判を加え、どのように自らの議論を展開させたのか。ここではバトラーが参照している元のテクストにできるだけあたり、物語の一貫性に挑戦することを目指す。先行する諸テクストの読解を通じて、現代に生きるものとしての思考を強く打ち出しているバトラーの理論の、その一端が明らかになれば本論文の目標は達成されたことになるだろう。

 

つづき

*1:田中美津「わかってもらおうと思うは乞食の心」『いのちの女たちへとり乱しウーマン・リブ論』、パンドラ、2001年、69-70頁

*2:
ジュディス・バトラー『権力の心的な生』、佐藤嘉幸+清水知子訳、新版、月曜社、2019年。以下、略号PPと邦訳の頁数を文中に示す。

*3:
メランコリーの歴史を概観すると、古代ではヒポクラテスの体液病理説における黑胆汁のイメージがある一方、アリストテレスの『問題集』における偉人との結びつき(メランコリーは最初から両義的なイメージとともにあったといえよう)があった。中世ではデューラーの銅版画『メランコリアI』(1514年)に代表されるような土星=サトゥルヌスと、アレゴリー化の問題が生じる。そして二十世紀になり、フロイトよって、より科学的に病理としてのメランコリーが論じられる。また、ヴァルター・ベンヤミンには『ドイツ悲劇の根源』に代表されるメランコリーについての著作があり、そこでは歴史の方法論としてのメランコリーが論じられる。メランコリーについての著作は数多あるが、たとえば中世において共同体における魔女の排除にメランコリーが根拠づけされたことについて論じているのが、黒川正剛『魔女とメランコリー』(新評論、2012年)である。また、歴史のうちでとくに左翼運動(バトラーへの言及もある)とそこに取り憑くメランコリーについて論じたのが、エンツォ・トラヴェルソ『左翼のメランコリー隠された伝統の力一九世紀〜二一世紀』(宇京賴三訳、法政大学出版局、2018年)である。いわく、「メランコリーは、闘争と希望、ユートピアと革命と不可分であり、その弁証法的裏地を成すのである。メランコリーは左翼の「感情の構造」の一部である。これは、その批判理論と戦略的思考を刺激し、いぶきと想を与える。要するに、完全に左翼文化に属するのである」(236頁)。

*4:
アクトアップ(AIDSCoalitiontoUnleashPower)とは、1987年ニューヨークに設立されたエイズ患者の支援団体。「ダイ・イン」(道路などの公的空間で一⻫に伏せる)などのパフォーマンス的抗議をおこなった。

*5:
Cf.ミシェル・フーコーニーチェ・系譜学・歴史」、伊藤晃訳、『フーコー・コレクション3言説・表象』、ちくま学芸文庫、2006年、349-390頁