2022-12-04(勝手に逃げろ/冬/見逃し)

人付き合いについて考えるところの多い日々だった。妙な具合に外向的な気分になっており、人に話しかけられたり話しかけたりすることを厭わなくなっている。突然かかってくる電話は相変わらず苦手だけど、夜に時間を約束して話すことの独特な心地よさがある。イデオロギーに回収されないロマンチックラブの可能性を信じたいし、ロマンチックラブではなくても人間たちは仲良くなれるということを信じたい。また人間全員嫌いのモードがやってくることもあるだろうし、こういう自分の心持ちのサイクルをある程度俯瞰で捉えられるようになったと思う。冬は大好きだけど、寒さや日照時間のせいで気分が落ち込むこともあることを念頭に置いておかなければならない。

 

卒論も載せ終わったことだしもっと雑に頻度をあげて日記を書いていきたい。なにを読んでも見てもとくに何も感じられないということが続いているが、何も感じていないということを書いていく。きっと書いたらなにか感じたことになるんじゃないかと思う。

先月はシネマメンバーズに入って、ゴダール『右側に気をつけろ』『ウィークエンド』『パッション』『勝手に逃げろ/人生』『中国女』『はなればなれに』、ロメールの四季四部作をみた。ゴダールロメールもだいたい有名どころはみたな〜という実績が欲しいだけかもしれないと感じるくらい、『冬物語』のロマンチックさ以外に特になんの印象も残っていない。かなしい。平倉圭の『ゴダール的方法』は、ゴダールの映像と音とが編集という作業によっていかに特異に同期/非同期しているかを詳細に示している。

人間の視-聴覚には必然的な限界があり、誰もそれを免れることはできない。聞きなれないアラビア語=外国語だったからではない。世界は本質的には無限の外国語として現れている。何が「翻訳」されるべきなのかは事前には確定されない。聴き取られるべき声は、当の本人にとっても、事が起こる前には確定できない。そして事が起きたときには、すべてが取り返しがつかないのだ。だが何を聴き取ればいいか分からないとき、いったい私たちはどうやって耳を傾ければいいのか。聴くべき「別」の音声はどこから流れてくるのか。出来事のいまだ聴かれざる声と接続するにはどうしたらいいのか。〔…〕いかにして個々の記憶は、みずからに固有の映像をもつのか。私たちは画面に明滅し続ける九つの映像すべてを同時に見ることはできず、記憶しておくこともできない。むしろ「同時にすべてを見ることができない」という私たちの身体の認知限界こそが、観客にとっての「時間」を構成している。それゆえ、記憶を編み直し、時間を組み立てなおすことは、映画を見るー聴く身体を作り直すことに直結する。(174-5頁)

やっぱりこうした視聴覚の問題を、日常的な存在であるVtuberの問題として考えてしまう。3Dモデルの映像をみていて、たとえばわざわざキャプチャされないからそこに映っていない水の存在を、かれらかのじょらたちが飲んでいるという事実によって私たちはいとも簡単に信じる。

今日はラカン協会のシンポジウムがあって聞いていた。めあての清水知子の発表は再確認の内容で、卒論をいま読むとやっぱり文章がかなり足りてないとは思うが、まあ似たような話をしていた。怠惰から『非暴力の力』を参照せずに書いたけど、昨日書店で立ち読みしたらフロイトの話をわりとしていることを知った。でもたぶんそんなに異なったことは言っていないはず(これから確認する)。清水さんの話でエリザベス・グロスの話題が最後に少し出ており、やっぱりvolatile bodiesなどちゃんと読むべきか…と思った。PDFがネットにおちてたらよかったんだけど、おちてなさそうだしまず入手手段を考えなければならない。becoming undoneはkindleで出ていた。私が過去にグロスの話題をツイッターで出したことをきっかけにフォローしたという人がおり、そういうこともあるんだな、と思った。インターネットの良さ。

 

スプラトゥーンの話をここでほとんどしたことがなかったが、発売当初からすでに300時間くらいプレイしており、おもにこれのせいで思考が滞っていた節がある(でも後悔はしない)。最近出たもみじもいいけどわかばシューターが結局最適解なのではと思っています。サーモンランはでんせつ200くらいが限界っぽいかも。