2021-07-29(制作へ/多宇宙)

ぼくらは、当たり前のことだけれど、小説をひたすら巧みに練習しているだけでは、自ら死に向かう気持ちを、うまくくつがえすことができない。

『いぬのせなか座1号』の、感動的ですらある座談会1の冒頭近くにおかれた文章。これは、一月二十三日に『旅する練習』を読んで書いた、練習をしてすごすことは生き延びることである、ということと対立してしまう。でも、

矛盾するふたつの文章が並べられたとき、それらの裏側に、両者をつないでいる媒質がある、と。その媒質と、「私が私であること」は、近く対象が蝶番となることによって、重なる。知覚不可能でありながら、想起のなかで知覚につきまとってきていることを決して否定できない距離。

 

小説は、多宇宙のかたちづくる魂に向かって、行為する。なんのために?それは、「新たな距離」を、わずかでも操作できるようになるためです。生まれた瞬間の私と、死ぬ直前の私は、この多宇宙モデルだと、もしかしたら一秒後の私同士よりも、密集した距離のなかにいるかもしれない。銀河数個分しか離れていないかもしれない。けれど、なぜか、あまりに遠い。ぜんぜん飛び越えられそうにない。ましてや死んだあの人といま生きているらしいぼくとのあいだの距離なんて!そこでの距離は、魂のそれとして、メートルとも、また、線的な時間とも、別に測定されるのだろう。そこで用いられるべき単位が、「新たな距離」と呼ばれる概念の、ひとつの意味です。

 

小説を読んでいるとき、私はどこにいるのか。

 

今日読んだ橋本陽介の『ナラトロジー入門』には、
・日本語は物語世界の内部に語りの位置を移動させ、そこにいる人物に成り代わって語ることがよくみられる
・日本語で書く場合、私たちは物語世界の中に身を置いて物語を語っていくことが多い。従って、三人称小説であっても、語りの位置が物語世界の中に入り込みやすい
と書いてあった。本当にそうなのか。だとしたらなぜなのか。主語を明示しなくても文章が成立するから?たぶん語りの位置が中に入り込みやすいということは、読みの位置も中に入りやすいということだ。

 

昨日の夜に一息で読んだ(そういう読み方をするのは珍しい、し、適切だとは思わない)諏訪哲史の『アサッテの人』の、叔父の手記のなかに

この世界のすべてが、もう既に書かれてしまったもので、いまさら自分になにができるだろう。できるのはそれを読むことだけだ。

と書いてある。読み手であり続けるのも、案外気合のいることで、たぶん私たちはいつのまにか巻き込まれてしまう。『アサッテの人』は、語り手の私が叔父のようになってしまって終わるのかと思って読み進めていたが、そうはならなかった。

 

物語の登場人物になりきっていた。
読み手であることを忘れていた。
もう何年も前に、この物語を読むすべを知ろうと決めたのに。

もちろん二階堂奥歯はこの世界の一登場人物に過ぎない。
しかし、そのような二階堂奥歯が、「私」であるということ、その事実によってこの物語は読まれ始めた。
そして、世界という物語は読まれることによって立ち現れるのだ。

読むことが書くことである物語。
頁をめくることが次の頁を生み出すことになる物語。

一登場人物である二階堂奥歯が物語を動かすことはほとんどできない。
でも「私」には、その物語を読むこと、読みとること、読んで解釈することができる。

読むことを忘れていた。
読みとることを。紡ぎ出すことを。
世界を。この物語を。

美しさを読みとることによってはじめてこの物語は美しいものとして立ち現れる。
そのような「読み」は常に可能なわけではない。だから、だけど。
読み手であることを忘れてはいけない。覚えておきなさい。

すぐ忘れる二階堂奥歯へ。

2002年9月26日