2021-01-23(練習/生きる/亜美)

したがって、問いに応答するゲームとしての詩作は、自己表現というより自身のプレイヤーとしての能力を試し鍛える「練習」のようなものである。もっとも、詩作を「練習」と見なすといっても、それはもちろんヴァレリーが自身の詩の質に関して無頓着であったということを意味するわけではない。上の引用にあるように「練習」として詩を作るとは「即興に抗う」ものでなければならず、一歩一歩、一語一語、語を置きつつそれを条件と照らしあわせるという、そのつどそのつどの判断が要求される作業である。詩を「装置」として完成させなければならない以上、ヴァレリーはその装置としての完璧さを求めていたし、だからこそなかなか詩を完成させられないこともしばしばだった。ここで「練習」とはあくまで自己表現との対義語として、むしろ自身が試されるような行為を指すとみなすべきだろう。
 みずからの行為を「練習」とみなすこと、つまり自分の書いた語を、自分の実存と結びついた必然的な表現とはみなさないことは、逆に偶然思いついた表現をあたかも自分が選んだ語であるかのように積極的に引き受けていくことにもつながる。[…]プレイヤーとして振る舞うかぎり、個人的な記憶と密接に結びついた語であろうと、反対に喚起力の弱い語であろうと、詩人はあらゆる語をただの駒として、自分から距離をとって扱う。偶然思いついた語であっても、それをひとつの条件として「在るもの」として引き受けなければならない。そうであってこそ、「練習」としての詩作の価値は増すだろう。


伊藤亜紗ヴァレリー 芸術と身体の哲学』、講談社学術文庫、137-139頁

リフティングをするサッカー少女の亜美と風景をちっちゃいノートに書き留める小説家の「練習の旅」を描いた、乗代雄介『旅する練習』のためにあるような文章だったので思わず長く引用している。

「そういう生き方をしないと死ぬから、カワウはみんなそうやって生きられる」そう言うことで溢れた感慨が「うらやましいな」と口をついた。
「人間は無理?サッカーをするために生まれてきたみたいとかよく言うじゃん」
「やらなくても死なないから」
「小説を書くのもそう?死なない?」
「死なない」
そうでなかったら、つまり書かなければ死んでしまうとバカらしい気負いでなく自然に受け入れられたら、カワウのようになれるかも知れなかった。

 一年前の日記には彼の小説を読んでもとくにぴんときていない(それもそのはず、それ以前の阿佐美景子の物語を読まずにいきなり『最高の任務』を読んでしまっていたから)様子の私が書かれているが、今ではすっかり熱心な読者といってもいい。「本番」のある音楽の習い事をずっとしていたから、一回きりの本番のために毎日の練習があることを、同じく母の母にそう言われてきた母は私に教えた。楽器をやらされているという意識はなかなか払拭されなかったが、毎日決まった量の宿題をする公文の教室は自分にあっていると感じていて、期限ぎりぎりまでレポートが書けない今となっては、素直に練習こそが生きることなのだと思える。練習に生きることは、その完成、あるいは本番に生死を賭けないということであり、生き延びるための健全な方法だ。
そういう意味では、「推しは命にかかわるからね」と言い、

とにかくあたしは身を削って注ぎ込むしかない、と思った。推すことはあたしの生きる手立てだった。業だった。最後のライブは今あたしが持つすべてをささげようと決めた。

これほど入れ込んでしまう、宇佐見りん『推し、燃ゆ』のあたしはかなり危ういと言っていいだろう。一度死に、「余生」を過ごすあたしがそれでもどうやって生きていくのか(けろりとまた新たな推しを見つける、ということもありうるかもしれないが)みてみたい。