2020-05-15(言説/経験/大江と村上)

精神分析理論がその中で決定的な役割を担ったこの広い反人間主義的な構想は、フェミニズムの理論にとっても意味と効果を持っている。〔…〕この構想はまた、フェミニストたちが、生きられた経験という無批判な概念に自分たちの有効性を置こうとする主張に用心すべきであるということも意味している。というのは生きられた経験は、もはやそれ自身認識されない社会的諸権力の一つの複合的構成物だからである。


フェミニズム精神分析事典』「主体」の項(エリザベス・グロス

フェミニズム現象学』という本が来月出るみたいですが、最近のフェミニズムクィアスタディーズの流れとして、それまで「言説的なもの」に偏っていたことの反省としてそれぞれの生きられた経験を見直そうというのがあって、情動理論や現象学はおそらくそこに位置づけられる。情動理論は、スピノザaffectus→ドゥルーズaffectの流れのあの怪しげな「強度」が鍵になったりするみたいだけど、その妥当性はいかほどのものなのでしょう、とちょっとこの流れには懐疑的ですが、まあもう少し内容を検討したいところ。江川隆男の『スピノザ『エチカ』講義』も今日入手したので、まずはスピノザの身体−情動をちゃんと知りたい。最近はレヴィナスを読んだり、なんだか哲学哲学してきてしまったなという感じである。〈愛知〉(philosophy)ではなく〈嫌知〉から出発したいものです。

 

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大森静佳の第一歌集『てのひらを燃やす』を再読した。
「他人だから一体化はできない。以前はそう諦めることで透明になっていく詩情」をうたっていた、と『sister on a water』vol2 で本人が言っていましたが、確かに、諦めている歌が多い。冒頭の連作「硝子の駒」から

尊さと遠さは同じことだけど川べりに群生のオナモミ
美しいものを静かに拒みつつぺんぺん草を踏んでゆく土手
水切りの石を選んで届かない言葉かアポリネールの石は
途切れない小雨のような喫茶店会おうとしなければ会えないのだと
これが最後と思わないまま来るだろう最後は 濡れてゆく石灯籠

 

 

あと、やっぱり「みずうみ」の出てくる歌もいくつか出てきて、このワードは本当になぜ短歌頻出なのだろう。「みずから」とも似ているよね。

 

 

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大江健三郎小澤征爾の対談『同じ年に生まれて』(2000年に収録)と、村上春樹小澤征爾の対談『小澤征爾さんと、音楽について話をする』(2010−2011年に収録)をちょっと読み比べてみた。
ちなみに大江と小沢は1935年、村上は1949年生まれ。

まず村上との方の対談は、村上の自宅で彼の所持するレコードをかけながら行われている。それだからか、誰々の演奏はこうで〜とか、指揮はどうで〜と、固有名詞を介した会話がなされている。村上は自分でも言っているように、いち音楽ファンでありレコード収集家(そういう人はあまり好きではないと小澤は言っている)なので、ミーハーぽい感じ。村上は前書きで、自分たちは結構似てるって言ってるけど、そうか?
対して、大江の方は、もちろん大江光の存在があって、それだけにより近いところで話しているという感じがする。二人とも教育者でありたいという話が面白かった。


いちばん対比的だなとおもったのは、音楽と文学を重ね合わせて語る時で、

新しい書き手が出てきて、この人は残るか、あるいは遠からず消えていくかというのは、その人の書く文章にリズム感があるかどうかで、だいたい見分けられます。[…]小説を書いていて、そこにリズムがないと、次の文章は出てきません。すると物語も前に進まない。

このように村上はリズムを重視し、

音楽は、和音なら和音という垂直のものがあって、その表現を、横への音の動きの中においてやるものだと。それは文学でもまさに同じことが言えるんですね。文学では、和音のかわりにメタファーと言いますけれど、暗喩ですね。

大江はハーモニーとメロディを重視する。

それが小説に実際どうあらわれているかというところまでは言えませんが(大江の小説は全然読んでいないし)、この対比は面白い。三要素全て大事とは言わないのね。

 

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大学もバイトもオンラインで、zoomというアプリが機能しないと世界が立ち行かなくなる、という状況に驚愕していますが、土日は画面を見ずに過ごしたい。