2023-04-07(チャパーエフ/模倣された幻影)

四月に入って仕事があるかと思いきや、おおむね暇な一週間だったので、さいきん読んだ本のことでも。
チャパーエフと空虚/ぺレーヴィン:年末あたりに『巨匠とマルガリータ』を読んだとSNSにあげたところ、ぺレーヴィンもいいよ!とすすめてもらった。おなじみ、やくしまるえつこ選書リストにはいっていたので気になってはいた。たしかに現実と虚構の織り混ぜ具合が似ていて、魔術師的な人物が出てくるところと、ユーモアで政治批判をするところも似ている。ロシアの村上春樹!と見返しなどにもでかでかと書いてあるのだが、これが村上春樹くらい売れるロシアってすごくない?と思う。わけわからん日本文化の屋敷みたいなところに行って、さんざん酒を飲んでいい気分になるが、よくわからないまま相手が切腹するから介添人をしてくれ!という流れになって必死に逃げ出そうとするも門番に阻まれる、みたいな本当に悪い夢としかいいようのない場面がいっぱいあって楽しい。あと、ロシア語でベーグルが娼婦の隠語的に使われることを知った。今週はよく夢をみた。
〈責任〉の生成/國分功一郎、熊谷晋一郎:このあいだ『ケアの倫理とエンパワメント』を読んだ時に、中動態の話がちらっと出てきて、そういえばこんな本話題だった(2020年刊行)なあ、と思い図書館で借りてきた。國分の中動態本は私は2019年に読んだらしいが全く何も覚えていない。ケアとか中動態とか、なんとなく良さげなマジックワードっぽいものに対する警戒心があるのだが、「中動態は救いではない」(148頁)と釘をさしているところがあり、著者もさすがにそこまで考えてないわけではないのだと思い直した。ASDの人は、そうでない人が適度に物事をカテゴリー化して処理するのに対して、〈この〉性が強く感じられてしまうためにうまく対処できなくなるというのは、そうなんでしょうねと納得できるところである。アレントの『精神の生活』を読みたい。そこでは意志の概念の起源を、パウロの「ローマ人への手紙」の律法のくだり(つまりキリスト教哲学)としているらしい。この本にはスコトゥスについての記述があるとツイッターで前教えてもらってそれを確認できないでいる。
臈たしアナベル・リイ、総毛立ちつ身まかりつ/大江健三郎:あまり順序気にせず手に入ったものから読んだ結果、水死→万延元年→取り替え子→アナベル・リイの順に読んでいるが、こうすると自然に水死を読み返したくなってくる。大江がいかに同じことを書き直すことで生きてきたのか、ということ自体が小説に書かれている。サクラさんの幼少期の性的外傷がテーマでもあり、フェミニズム的ということができるが、大江の小説で女性がなにか抵抗を示す時、演劇としてであって(声を発しても書くことはない、そしてそれは息子の光・アカリも同様)、それが書く〈私〉とは別のレイヤーとして存在しているということもまた確か。ある一人のが書いた小説としては、そうならざるを得ないということを示している点では、正しいのだが、私たちが小説を読むときの扱いとしては難しい。そろそろ工藤庸子や尾崎真理子の書いたものを読むか。
フィギュールⅢ/ジュネットジュネットの好きな文学上の概念の区分、命名には全く興味が湧かないのだが(それが便利だからといって使っている人は、たとえばプルースト読んだ上で使ってますか?と思う)、「プルーストにおける換喩」を読んでおきたかったので読んだ。1960年代ごろのフランスの文芸批評の熱の入りようは、今からするとみんな文学に対して一生懸命でいいね・・と知らないノスタルジーを覚えてしまう。
ルネ・シャール詩集/野村喜和夫訳書:とにかくかっこいい。後ろについている評伝も勉強になる。そこでよく参照されていた西永良成『激情と神秘』を入手したのでそちらも読む。

「美しい建物と予感」

ぼくは聴く ぼくの歩みにつれて
死んだ海がすすみゆくのを その波は頭上を越え

こどもとは 荒々しい遊歩防波堤
おとなとは 模倣された幻影

純粋な眼が 森のなかで
泣きながら 住まうべき顔を探している