2023-05-06(ポンヌフ/一晩中/読んだ本)

日が落ちているのに明るくて夜明けみたい、とか話しながら満月に近い夜の湖にかかる橋を歩いていて、世界がこれで終わったらいいのにと『ポンヌフの恋人』を思い出しながら思っていた。四月は後半から思いがけず強制出社させられ、しかしそこに全く合理性がないためにストレスすぎて鬱々とし、勝手に在宅にして(こういうそこまで支障のなさそうな感じのちょっとしたズルでなんとかやり過ごしてきた人生だったと、高校のときたまに保健室で眠っていたのを思い出す)、母親や彼氏からよくケアされ、結局さいしょに予定されていた出社日の半分くらいで済みそうだった。出社によるストレスがどれくらい作用したのか、あるいはアケルマンの『一晩中』を隣で見たことがどれくらい作用したのか、恋の終わりを想像してそれならばいっそ積極的に破壊するかあるいは死んだ方が良いなという(何度か通ったことはあるが普段は忘れてしまっている)思考に辿り着き、危なかったこともあった。こういうことを繰り返してやがて疲れ呆れられて見捨てられるのだろうと、はっきりと見捨てられた経験はないのにその不安だけを抱えている。しかし、靴擦れして痛いとトゥートすれば絆創膏を買ってきてくれ、低血糖ぽくなってちょっと具合悪くなってたらその対策として次に会うときにはグミを持ってきてくれ、これが愛でなかったらなんだろう。今年のテーマは自立で、付き合う前から依存しない恋愛関係を目指したいなどと話していたが、たぶん既に無理だろうし、会っている時だけが生でありそれ以外は苦痛でしかないというように感じる。しかし現実的にずっと会っていることはできないため、気を紛らわすために本を読んだり食べたりすることになる。というわけでまた最近読んだ本のことでも書く。

市川沙央「ハンチバック」:力のある小説だった。一人称小説を読むことはその語り手の目を借りることで、その目がぼんやりと自意識が薄くて鈍いと私は苛々して読めないということがままあるのだが(いまぱっと思い浮かべるのは川上未映子の『すべて真夜中の恋人たち』とか千葉雅也の『デッドライン』とか)、これはそうした鈍い人とは真逆の人の目の小説だ。

野溝七生子曼珠沙華の」ツイキャスで音読した(30分以上かかった)。野溝七生子はここにも何度か書いている通り、とても好きな作家で、短編だとやはりこれが最も好きである。小林美代子とか、家父長制のきつい日本社会でまともであった結果狂女とみなされる系の話は、幻想の括りにしておいては勿体無いしもっと読まれていい。

大江健三郎『芽むしり仔撃ち』:キャリア初期の中編だがあまりにも小説としての形式的な完成度が高く、こうしたものを書いてしまってからそれでも書き続けて、小説を解体しつつ作り直し『水死』のようなところにたどり着いたのは、やはりあまりにも重要で特異な作家だったのだなと思う。少年たちの村への閉じ込めから解放(追放)までをきれいに書き切っていて、ちょうど最近出た村上春樹の『街とその不確かな壁』とその原型となった『世界の終りと〜』と、閉鎖空間系小説として比較したらなんか大学の期末レポートみたいなの出来上がるのでは、と思ったけど、『街と〜』は図書館の予約200人分くらいを待ってから読むしその頃には忘れていそう。『世界の終り〜』はaudibleで再読(聴)した。プロット自体は面白いと感じるけど、大筋にはそこまで関係ないところで小説の豊かさを演出するものがすべて女性関係に終始するので、単純にまたそれ?と思ってしまう。大江から逸れたけど、いま『晩年様式集』を読んでいるし、いずれ全作品読むだろうと思う。

『分析フェミニズム基本論文集』:清水晶子が「フェミニズムの主体は女性である」というところからやはり考えた方がいいのでは的なことを言って、青本柚紀がそれに反論していて、「女性」ということで何を指すか、だれが含まれていないかを考えるべきみたいな、もう忘れてしまったがともかくそのようなやりとりhttps://docs.google.com/document/d/1Nt6pbH5J3Bfld0-vm9cih-kqW9Ou3kgZawduAbZfiTI/mobilebasic をぼんやりと見ていた時、私は「フェミニズムの主体は〇〇であるという文の作り方がそもそも誤っている/このあたりの話は分析系だと議論が進みやすいとのかと思うが、私はあんまりここに興味がない/バトラーのみに依拠しているから起こる議論が多すぎる」などとツイートしていた。それでこの本を読んでみても、このツイートをやっぱりそうだと補強するような感想になってしまった。上記の論争?については第一章と二章を読めば、何が問題となっているかがわかると思う。二章のキャスリン・ジェンキンズ「改良して包摂する ジェンダーアイデンティティと女性という概念」では、まさにフェミニズムの担い手として「女性」といったときにいかにトランス女性が周縁化されてしまっているか、が問題として扱われていて、ジェンキンズは「女性」という語を階級の意味では使わず、ジェンダーアイデンティティの意味に限定して使うべきだと主張する。そして女性のジェンダーアイデンティティとは「生物学的生殖において女の役割を果たす証拠とみなされる身体的特徴を備えていることに基づいて従属させられている人が、そういう人に特有の社会的・物質的現実を切り抜けていく指針となるように、内的な「地図」が形成されている、ということ」(68頁)であり、女性としての規範を受け入れているかどうかではなく、その規範が「自分と関連していると捉えるか」どうかに力点がおかれる。この定義によって主観的要素も客観的要素も考慮でき、トランス女性の現実を反映しやすい。
分析フェミニズムの議論はかなり重要だし、この二章以外でもなんだかツイッターで見る議論ともつかない何かに対する処方箋として有効な観点が多いのでみんな読んだ方がいいけど、私としてはやっぱりそんなに興味がなく知りたいのはもっと根本的な身体と言語の関係だなと思った。ちなみにこの本に関する思い出として、sに初めて会った時に、本屋で若い女性が「重要そうな本みつけた!」とこの本を手に取って連れ合いの女性に話しかけており、私たちはふたりでほうと思ってその女性が離れたあと手に取ってみたということがあった。

アネマリー・モル『ケアのロジック——選択は患者のためになるか』:ケア論流行っているらしいし一通り知ってみるかという心持ちのもと、sの書いているものがそのあたりに近いところで関連書籍をいくつか持っていてちょうどよかったので、借りて読んだ。読んでると糖尿病が怖くなってくる(私はどう考えても甘いもの食べすぎだし血糖値のコントロールがうまくいっていないだろうというのは感覚的にあるので本当に怖い)が、糖尿病のような永続的なケアを必要とする病気に対しては、患者の意志に任せられる選択のロジックではなく包括的なケアのロジックが有効ですよね、という話。ケア論は私が冒頭で書いていたような自立/依存の関係に対して、根本的に人は誰かや何かに依存しているものという前提に立って見方を提示するもので、その重要性はわかるのだが、こういう医療の現場での具体的な話はともかく、特に文芸批評あたりで「ケア」と言ったときのぼんやりとしたなんか良さそうなものという域をでない話にはあまり面白みを感じていない。

岡本裕一朗『ヘーゲル現代思想の臨界』:これはツイッターで見かけた評判通り、ヘーゲルが何を言っていたかとその後にどう解釈(曲解)されたかが丁寧に書かれていて勉強になった。ポストモダニズムの「差異の承認」にヘーゲルの承認論が用いられるのはおかしい(なぜならヘーゲルは共同性や統一性を志向する意味でしか承認を用いてないから)、など「ヘーゲルはそんなこと言ってない」的な誤用を教えてくれる。GWだし何か大物をということで『精神現象学』を読んでいるが、序文を読んだら割と満足してしまい上巻の真ん中ほどで飽きている。今のところそこまでわけわからないということもなく、むしろなんかずっと同じようなこと言っているなという飽きである。媒介とか媒質といったときに、基本的にはまず神と人間の媒介であるキリストのことが念頭にあるのだということが、つい抜け落ちてしまうことがある。ではユダヤ系の思想で媒質ってなんでしょう、ということはベンヤミンとかを読んでいて思うこと。またちゃんと読んで書きたいが(ちゃんと読んだ本ほどここに書いていないのだが)スーザン・A・ハンデルマンがそこらへんのことを書いていて、私はこの人の書くことにとても興味がある(ここまで私はさんざん他の本に対して興味を惹かれないと書いてきたけど、興味のある本の存在もありますよ)。(https://kayahiyu.hatenablog.com/entry/2020/08/27/225629)

工藤顕太『ラカンと哲学者たち』:ウェブ連載をまとめたものなので一章ずつが短くさくっと読める。精神分析の問題圏と有効性がわかりやすく示されていて、良い本だと思う。

水沢なお『美しいからだよ』最果タヒサブカル要素を薄めて文学要素(この雑な対立を許して)を濃くしたみたいな感じがする。まあこういうのどちらかと言えば好きなのだけど、何となく甘い自己陶酔の感じの表現に対して、それでいいのだっけとは思う。松浦理英子はかなり昔のインタビューで、どういう官能性を求めていますか?という質問に「月明かりの下のナイフの光沢のような硬質なぬめり。傷だらけの皮膚のぎざぎざ。不協和音。焦げつき。繊維のよじれ、引きつり。垢。」と答え、さらに求めていない官能性とは「生温かい液体。月見酒の酔い。バイクによる暴走。大食美食。新体操的アクロバット。腐る寸前の果実。優雅な曲線。こういう感じで書けば褒められるんでしょうけど」と言っていて、ああなんて良い回答と思うのだけど、「こういう感じ」で書かれて褒められているものは確かにたくさんあるし、私の好むものとしても前者のようなものである。耽美だけどどこか醒めているもの。

 

それにしてもこれ書くのにたぶん三時間くらいかかっている気がするのだけど、この浅さで何か書くならその時間で新たなものを読んだ方がいいのではないかとどうしても思ってしまい、しかしもう少し深く書くならあと五倍くらい時間が必要でその労力を割けないので、本読むことがやっぱり時間潰し以上の何かにはならない。