2020-02-02(作者は死なない/両性具有)

 

 


急になんの制約もない空白の時間に放り出されると逆に何をしたらいいのか分からなくなる、ということは往々にしてある。

 


小説を読む上でつい考えてしまうのが、なぜとても好きなものととても嫌いなものが分かれてしまうのだろう、なぜ女性作家の小説の方を好ましく思うときが多いのだろうということだ。

以前はもっと素朴に、わたしは女だから女の書く小説がよくわかるんだと思っていたけれど、さすがに「作者の死」とかいうからには、書き手の性別とはそこまで関係ないのだろう。とはいえ…。

ヴァージニア・ウルフは〈偉大な作家は両性具有〉というコールリッジの言葉をひきながら、自分の性別を意識して書くのは致命的とまで言う(『自分ひとりの部屋』)。男から女へと変身し、詩を書いて成功するオーランドーはまさにウルフの理想。

金井美恵子も「居丈高にならず、へりくだりもせず、文章行為をすること、いわば言うのは簡単なことなのだが、中性的な不在の中心を持つ文章行為。文章を書くという行為が、物語るという行為にくらべて、そもそも、文化的に男性的なものなのだが、とすれば、身体的に女性である書き手だって、いくらでも文章のなかで擬似マウンティングを行うだろうし、いくらでも、男性的に論理的にふるまうことが可能なのだ。(略)陳腐なようだが、言語の両性具有的なゆれというかぶれを、今、ここにある言葉のなかで、どう見つくろって使用するか、という、ささやかな主題を、小説家は、具体的に展開する以外にないのだろう。」という(『おばさんのディスクール』)。金井美恵子の小説では、「溶け合って、区別がつかなくなる」というモチーフが(水とともに)用いられたり、人称のゆれによって両性具有的な文章を書くというような試みが行われているように思う。

女性として書く、男性として書くことが作家にとって致命的になるということであれば、両性具有として書くしかない、のだろうか?

松浦理英子の両性具有に対する考え方はそれとはちょっと違っていて、「貧しさのにおいがする」というのでそれはそれで面白い(『優しい去勢のために』)し、個であることを引き受けるような強さのある松浦の小説でもその考えは表れているように思う。いずれにせよ、書くことと性別を考える上で、両性具有という概念が持ち出されるのは面白いと思う。

 


というようなことを一旦まとめて書いたのだが、まだまだ整理しきれていない。

小説を読むときに観点となるのがいくつかあると思うけれど、人称、話法(直接とか自由間接とか)が構造としては大きいところで、あとは多用されるモチーフ(水とか色とか服とか)をみるとか。いまいちまだ、どのように小説を語れるかということがわからない。

 


いま読んでるのは、マリー・ンディアイ『三人の逞しい女』、皆川博子『結ぶ』、リディア・デイヴィス『ほとんど記憶のない女』、リュス・イリガライ『ひとつではない女の性』など。そもそも女性しか読んでないのではというのは大いにある。

 


日本の小説には今まで変な人間が出てくるような小説があまりなかったのではないか、いうことを今村夏子『むらさきのスカートの女』を読んで思った。「妖怪」とかは出てきても、バートルビーとかモロイとかそういう人間なんだけど、やばめのヤツみたいなのはあんまりいないような。知らないだけかもしれないけど。

 


ま、そういうことを考えつつ休み中はばりばりと読む。