2020-09-11(ずっとお城で/みえない)

だれかがくすくす笑って、ほかのだれかが「シッ」とたしなめる。あたしはふり向かない。女たちののっぺりした灰色の顔と悪意に満ちた目なんか見なくても、背後に存在を感じるだけでじゅうぶんだった。みんな死んじゃえばいいのにとあたしは思い、それを大声で言いたくてたまらなかった。コンスタンスは言う。「気にしているところを見せてはだめよ」それから「注意をはらったりしたら、あの人たち、もっとたちが悪くなるわ」——たぶんそれは当たっているのだろう。だけどあたしはやっぱり、みんな死んじゃえばいいのにと思う。いつかの朝、食料品店に入っていくと、だれもかれも(エルバート夫妻と子供たちまで)苦痛に泣き叫びながら転がっていて、死にかけていたならすてきなのに。そしたらあたしはその人たちの身体を乗り越えて、自分で食品を取るだろう。好きなものを棚から取って、家まで帰る。ひょっとすると、転がってるミセス・ドネルを蹴飛ばしてやるかも。こんなことを考えるとき、やましい気持ちは少しも起こらない。ただ、ほんとうにそうなればいいのにと願うばかりだ。

 

シャーリー・ジャクスン『ずっとお城で暮らしてる』、市田泉訳

 

世界を呪っている人がでてくる小説のことを好きになってしまう。ベルンハルトとかね。この本はもちろん例のブックリスト(前の日記参照)に追加。シスターフッドって言葉がよく使われるようになったけど、私がその言葉を聞いて想像するのはこういうものだ、あたしたち姉妹以外は全員敵。教室の窓側のあの子は絶対わたしの言葉が通じる、みたいなのをシスターフッドとは呼べない気がする。

 

再来年からの自分がどうなっているかの想像がまったくつかない。ここまでごくストレートに歩んできてしまっただけに、踏み外したらどうしよう、逆にここらへんで一度立ち止まったほうがいいのだろうか、就活なんてできるのか、はやく家をでたい、学問の世界にもうちょっと留まってみたい。本当は読んだほうがいいものを放り出して逃げるように物語ばかり読んでいる。学会とかがオンラインで一般公開されるようになって、いくつか覗いてみたけれど大して面白くなさそうというのが正直なところで、そういうことがわかったのはよかったことだと思う。せっかく良い本をたくさんもっている図書館のある大学にいるはずなのに、閲覧室はこのまま永遠に使えない気がしてくる。はやく自分のお城(たとえワンルームでも)をもって、慎ましくひとりで本を読んでおやつが食べられたら、もう人生それでいいのではないだろうか。

 

ですから僕は、現代文学は基本的に幻想小説だといっていいと思いますね。特に日本では、小説とは虚構であるという点をはっきり自覚したものを幻想小説と呼ぶべきだと思うんです。それは本来、小説の定義でもある、つまりじぶんがフィクションであることに鈍感にも気がつかない文学風土があるわけですよ。それに対して、自分がフィクションである、書かれたものがフィクションである、とはっきり意識するのが小説というジャンルだと思うし、それを幻想小説と読んでもいい。


幻想文学講義 「幻想文学」インタビュー集成』所収の、奥泉光のインタビューより

 

「とりあえず、わたしはこの手紙を書くのに、一度書き上げ廃棄している、二度目を書き上げ、廃棄している。三度目も書き上げ、廃棄している。記憶に頼り、同じものを繰り返そうとするわけだがうまくいかない。その度ごとに違った文言が登場してくる。これは意外な盲点だ。書く行為というものが真実存在するのなら、いつでも同じものが出力されてくるはずだろうと、わたしは漠然と前提していた。そこのチェックが甘かったのは大きな不覚だ」
常にランダムに切り替わっているキーボードみたいに、風に吹かれて並びを変える紙の上の文字みたいに、叔父は手紙を繰り返し書く。
「何度でも同じ形に書き直されるしかない小説をつくるにはどうしたら良い」


円城塔『これはペンです』