2020-09-16(読むこと/責任)

 

『三月は深き紅の淵を』が素晴らしい作品だというのは、ここにいる我々や、ほんの少数の人間の共同幻想かもしれない。読書というのは本来個人的なものですから、これはいたしかたない。第一、我々は自分がちょっとばかし本を読んでいると自惚れているかもしれないが、これだってとんでもない幻想です。人間が一生に読める本は微々たるものだし、そのことは本屋に行けばよーく判るでしょう。私はこんなに読めない本があるのか、といつも本屋に行く度に絶望する。読むことのできない天文学的数字の大量の本の中に、自分の知らない面白さに溢れた本がごまんとあると考えると、心中穏やかじゃないですね。

 

いいものを読むことは書くことよ。うんといい小説を読むとね、行間の奥の方に、自分がいつか書くはずのもう一つの小説が見えるような気がすることってない?それが見えると、あたし、ああ、あたしも読みながら書いてるんだなあって思う。逆に、そういう小説が透けて見える小説が、あたしにとってはいい小説なのよね

 


両方とも、恩田陸『三月は深き紅の淵を』から。恩田陸の小説は小学生くらいからおりにふれて読んできたのに、なぜか二年前くらいに、『光の帝国』『蒲公英草紙』を手放してしまった、明確な記憶はないけれどたぶんそう。自分のお小遣いで買ったものだったはずなのに、なぜだろう。もうこれから本は絶対的な必要に迫られない限り手放したくない。

 


私は2000年生まれなので、11歳のときに震災があって、12歳から20歳までのあいだ安倍晋三が首相である日本に住んでいることになる。だから、よくわからない、と言ってしまっては不勉強だと言われるだろうか。私がフォローしている非常に狭い範囲のsnsでは安倍を支持している人なんていなくても、世間には支持している人がたくさんいて、たまに覗いてみる高校の同期とかのツイッターを見る限りではふつうに支持してると思う、もちろんみんなそうってわけじゃない。でもじゃあ具体的に誰がどういう政策をすれば今の生活がもっとよくなっていくのかわからないし、これから状況がよくなるとは思えない。大きな歴史のなかでも、いまはそこそこ不幸な時代と言えてしまうのかもしれない。でも就職出来なかったら、それが不況のせいでも私は私の自己責任だと思ってしまうだろう。責任という言葉がよくわからない、責任感があると通知表に書かれてきてそれは褒められてると思ってたけど、自己責任論っていうのは批判されるべきもので、でも他人に対しては責任を負うべきらしくて、私の責任感とやらは一体誰に対してのものなんだろう。望まれた役をまっとうするということ?なにもかもわからないが、社会はどんどん悪い方に転がっていて、しかしそのなかで私の生まれた家が経済的には恵まれている方だということはわかる。

 


TL(ここがわたしの社会)の人の多くがラブリーサマーちゃんの新譜を聴いているみたいなので、わたしも聴いている。

 


さいきん立て続けに読んでる『桜庭一樹読書日記』シリーズの巻末対談で、昔は「これはオレしか読んでない!聴いてない!」みたいなものを持てて幸せだったね、という記述があって、それは本当にそうだろう。みんなが読んでると逆に読みたくないみたいなひん曲がりかたをしているので、たとえば未だにルシア・ベルリンが読めてなくて、そういう無駄に他者がわからない昔が羨ましくなってしまう。スマホのない時代に学生だったら…という夢想をしたことのあるひとは少なからずいるだろう。インターネットがない時代に疫病が流行るという可能世界のことをかんがえる。