2020-02-07(誕生/春になったら)

 

 


とうとう二十歳になってしまった。


今年も目白のエーグルドゥースのケーキを自分で買いに行って食べる。しかし食べだすと憂鬱になってくる。誕生日が楽しみだったときもあるはずなのに、年齢を重ねることの恐ろしさなのか、去年と今年はめちゃくちゃになった。日常から離れた祝い事(とされること)はあまり好きではないが、とくに写真を撮られるのが本当に嫌で人生でいちばん苦手なことかもしれない。ブランショに勝るとも劣らないのでは?それでまた泣いて夜は鬱に入り込んでしまった。2歳くらいから変わってない。しかし物が手に入るのは嬉しい。スックの口紅。あとなんか高い服でも買おうかな。

 

 

 

マリー・ンディアイ『三人の逞しい女』、メルヴィル「漂流船」、カナファーニー『ハイファに戻って/太陽の男たち』を立て続けに読んだ。ぬくぬくケーキ食べて泣いてこんな狭い世界でぐずぐずしてる自分はなんて平和ボケしてるのだろうと思う。岡真里『記憶/物語』を読みつつ表象の暴力について考えるが、ここで抽象的に語ってもしょうがない。

本当は3〜7日にかけて読んだ本それぞれにコメントしたいのだけれど、いつのまにか次の日になってしまう。

 


とりあえずさっき読み終えた梨木香歩『春になったら苺を摘みに』がとても良い随筆だったので、引用してお茶を濁しておく。

 

他人に何を期待しようというのだろう。生まれつき自分に他者が奉仕すべき何かの特権があると考える方がおかしい。男性の場合でもそれは同じだと思う(だから私がそのとき女性に自分と同じような考えを「期待した」こともまたおかしいのだけど)。

英国に帰るとよくこの手の騎士道に由来する「甘やかし」に遭遇し、そのたびそれを心地よく思う自分と、「コレヲ トウゼント オモッテハ イケマセン」と訓戒を垂れる自分とが葛藤するのを感じていた。

私にとって理想的なクウェーカーの生活とは、その後者の自分が激しく求めている、無駄なものをすべて削ぎ落とし、ただ内なる神とのコンタクトにのみ焦点を当てる生活だった。

しかしそういうことが現実生活において可能なのだろうか。だとしたらどういう形で?[…]

観念的な言葉遊びはもうたくさんだった。文字の内側に入り込んで体験したかった。本など読むこともなかった働き通しのドリスの生活と、ストイックな修行僧の生活。

それは、個人的な経験として、どう異なっているのか。

日常を深く生き抜く、ということは、そもそもどこまで可能なのか。