2020-02-10(バロック/ライプニッツ )

 

出るつもりだった本番にはやっぱり出られなかったので、ひたすらひきこもり本を読む日が続く。しかし何となく漫然と読んでいるだけなのかもしれないという恐怖が付き纏うので何らかのメモを残しておく。

 

坂部恵『モデルニテ・バロック』(哲学書房、2005年)
 ドゥルーズと音楽を関連づけたものを書いたときに、ライプニッツと同時期のバロック音楽のつながりに着目する観点が面白いと思ったので、もう少し詳しく知りたいと思って、「バロック 哲学」で図書館の検索システムに引っかかったのがこれだった。わたしは鈴木泉の(初期)ドゥルーズ読解を非常に参考にしていて、彼の論文を色々と読んでいたのだけれど、たしか河出からでている『メルロ=ポンティ』に、坂部恵について書いていたので、それで名前は知っていた。期待していたような音楽とのつながりは書かれていなかったが、バロック的哲学のアプローチについては書かれていて、やっぱりライプニッツとあとはベンヤミンを読んだ方が良さそうだった。
あとこれもドゥルーズつながりで、リトルネロのところに登場する、ドミニック・フェルナンデスという人のバロック論『天使の饗宴』も少し読んだのだが、こちらも今のところは彫刻や絵画メイン。

 

エドワード・ケーシー『場所の運命』(新曜社、2009年)
 これはジェンダー論の先生(『福音と世界』一月号に久しぶりに論考を載せていた人である。授業はドラァグ・クイーンの動画ばかり見せられた、あまり行かなかったけど)に、「エリザベス・グロス関連で日本語で読めるものありますか?」と雑な質問をしたところ、勧めてくれた本。600ページ超えの二段組の鈍器である。ちなみにエリザベス・グロスは、最後のイリガライ論のところに注に出てくるだけで論じられてはいない。イリガライの称揚する、流体とか粘液性の液体とかに引き付けて、ライプニッツの「流動性は根本的な条件である」(『人間悟性神論』)という言葉が引用されていた。ここでもライプニッツライプニッツの日本の研究者には女性が比較的多い気がするなあと漠然と思っていたけれど、あながち偶然でもないような…

 

●『ライプニッツを学ぶ人のために』(世界思想社、2009年)
 というわけで、あちこちでライプニッツが出てくるので読んでいる、があまり面白くないというか、あまり理解できてない。これは論文集みたいなもの。米山優「ライプニッツの美学」では、音楽との関連が書かれていたのだけれど、ドゥルーズライプニッツ解釈とはことごとく違っていた。まず、「バロック」の時代定義がぶれているような気がした。「美術史でいう古典主義とロマン主義の間に位置する」とされていて、古典主義をルネサンスとすればたぶん誤りでなはいのだろうけれど、音楽ではバロック→古典派→ロマン主義だとし、ライプニッツは音楽の例は出してるけれど(アルノーとの手紙)絵画の例は出しているのだろうか?まあこの場合、古典主義とルネサンスの名称が乱れていることが原因で、そんなに問題ではないかも。和声(ハーモニー)中心ではなく多声(ポリフォニー)中心の音楽とライプニッツ的美学を結びつけるということには、まったく同意できないが。それにしても、ライプニッツが出してくるコンサートの例はとても不思議。オーケストラやコーラスのそれぞれの音源(=モナド)は互いに直接聞くことができないにもかかわらず、調和するということ。その場合調和を聞くことができるのは誰なのか?聴衆?指揮者?神?

 

●キャサリン・M・ヴァレンテ『パリンプセスト』(東京創元社。2019年)
 まだ第三部の途中だけれど、すこぶる面白い。好きなタイプの幻想文学。あと訳者の井辻朱美は、歌人集団「かばん」にも関わっている人らしい。

 

●リュス・イリガライ『ひとつではない女の性』(勁草書房、1987年)
 精神分析がいかに男主体の言語構築であるかということ。女の欲望を「ペニス羨望」などということをイリガライは(今イリガライって打ったら宇野邦一って変換されてびっくりした、なんでやねん)批判するわけだけど、ラカンが女の欲望を説明するときに、ベルニーニの聖テレサを見ればよろしい(たしか『アンコール』の表紙にも使われていた)っていうことに、「ローマへ?そんな遠くへ?ごらんになる?ひとつの彫像を?聖女の?男が彫った?」とめちゃくちゃキレているところが面白かった。そうなるよね。精神分析にはあまり深入りしたくないのだけれど、完全に避けるということもできず。

 

まだしばらくはライプニッツ、イリガライのあたりを読む。『モロイ』読み始めたのに止まっている。ほんの一年前にはこんな哲学や思想の本を一日中読んでいることになるとは思いもしなかった。