2021-05-08(受け身/塔/多世界)


5/7

濱口竜介『PASSION』をみた。誕生日のテーブルからもうアップの切り返しで写される関係がぴりぴりしすぎていて笑ってしまう。よく笑ってしまう映画だった。濱口竜介の映画の人物のサイコパスモードのとき、結構笑ってみてしまう(重心ワークショップとか)んだけど、反応として正しいのかな。

学校から帰ってきて明らかに疲れているのにトモヤ(漢字忘れた)はその表情を見ようともしなくて、パスタ作ってて、後ろにぴとってするけど「どうしたの?」っていうだけで、振り向いてくれないって思って離れて、でも一応ついてきてくれて、不安でたまらないから「ずっと一緒にいたい」って言ったら、「それは無理かもな」って冷静に言われてしまう感じ… そしてどうにもならないから押し倒すけど、トモヤはああパスタって思ってる、なんてよくわかるのだろう。カクカクと不安定なクローズアップ。

上映後のトークショーで濱口は、会話偏重になってしまうことへのエクスキューズとして、走る場面やフリスビーなどの身体運動を撮ってしまったと言っていた。たしかに男女の関係をキス一辺倒で終わらせているようなところがある。どこまでも自分の性別と恋愛、異性愛システムを意識させられる映画であって、『ハッピーアワー』のときも思ったけれど、見るときのコンディションをえらぶ。『寝ても覚めても』をもう一度見直してもいいかもしれない。

 


5/8
『PASSION』のことを引き続き考える。たかこのように生きるのが本当は楽なのだ。嫌われたくない、という受動的な原理で生きてしまうことのちいささ。
THE NOVEMBERSのHallelujahの、ただ遠くへ、あなたを愛したい、いこうよ、の三曲を繰り返し聴いている。

きのう大学図書館から借りてきた吉原幸子『オンディーヌ』をよむ。

 

「塔」

あの人たちにとって
愛とは満ち足りることなのに

わたしにとって
それは 決して満ち足りないと
気づくことなのだった

〈安心しきった顔〉
を みにくいと
片っぱしから あなたは崩す
  ——崩れるまへの かすかなゆらぎを
  おそれを いつもなぎはらふやうに——
あなたは正しいのだ きっと
塔ができたとき わたしに
すべては 終りなのだから

ああ こんなにしたしいものたちと
うまくいってしまふのはいや
陽ざしだとか 音楽だとか 海だとか
安心して
愛さなくなってしまふのは苦しい

崩れてゆく幻 こそが
ふたたび わたしを捉へはじめる
ふたたび
わたしは 叫びはじめる

 

この率直な感傷と自己愛。

 

エヴァンゲリオンのQをみる。廃墟になったNERVの造形がきれい。シンジのように誰かを信じることで自分の存在意義をたしかめようとすると、その分裏切られた時のダメージが大きい。
世界を何度でも、気に入るまで反復するということを虚構のなかでやること。以前ツイートしたことだが、私がドゥルーズの書き方を好きなのは、小説や映画の虚構世界と、私たちが生きる世界を同じ世界として捉えているからだ。

鈴木泉:現実世界もその一つであるさまざまな可能世界は、相互に矛盾しないけれども、両立可能ではない。だから、カエサルルビコン河を渡った世界と渡らなかった世界などが無数にあって、その中で完全性の量が最も高い世界を神が選んだ、という話になるわけです。しかし、それはライプニッツが体現しているバロックの話であって、ホワイトヘッドが体現しているネオ・バロックでは、非共可能的な世界が「同じ世界 le même monde」を構成する、とドゥルーズは言う。では、その「同じ世界」というのはいったい何なのか。どれだけ読んでも、きちんとした説明が与えられているとは思えません。
しかも、そこでドゥルーズが出してくる具体例はといえば、ドゥルーズ読者にはおなじみのジェームズ・ジョイスボルヘスモーリス・ルブラン、そしてゴンブローヴィッチといった作家たちの虚構世界です。そうして、われわれは現実世界において他の共可能的世界にいる場合もいない場合もあるということでしかないように思えるけれども、実際は「同じ世界」を構成する無数の非共可能的世界のどこにでも現れることができる、という途方もない議論が展開される。それをドゥルーズは「継ぎはぎだらけの同じ世界」と呼ぶのですが、これは言ってみれば書き割りの虚構世界です。夢の中の世界と言ってもいい。[…] 非共可能的な世界が、「同じ世界」を構成しているなら、もはや現実世界を指定することはできないので、その場合の無数の非共可能的な世界というのは可能世界ですらない、ということです。

 

『思想』2014年4月号の座談会「虚軸としてのスピノザ1」