ドゥルーズと音楽

※学部二年の冬に提出したレポートの転載です。

 

ハミングは音の響きとして繰り返される。リトルネロ、夢というものが意識が回収しきれずにいる綻んだ苦しみをすっぽりと覆い尽くすものであるのと変わらずに、ことばで縫合しきることのない境界をさすり続ける。語られうることばとはすべて暴力的な音楽であって、針の先が肌理を突き破らなければ傷口を縫い合わせることができないように、そのように絶え間ない不快感を不快感で歌いなおすかのように、書き、語る。

                      ——八柳李花*1

 

リトルネロと音楽

 ドゥルーズには絵画や文学などと違って音楽についての単著がない。にもかかわらず、ドゥルーズ哲学の中核にある概念のうちのいくつかが、音楽的モチーフを用いることによって説明されており、唯一まとまった音楽論といえる『千のプラトー』におけるリトルネロ論は、哲学と芸術の接続点となる概念としてドゥルーズじしんが重要としている(PP 276)。本稿ではドゥルーズ(&ガタリ)が音楽について語るいくつかの箇所に注目していくが、まずはリトルネロについて簡単にみておこう*2
 リトルネロ(ritournelle)は、イタリア語の”ritorno”や”ritornare”に由来する。子供が暗闇で心を落ち着かせるために打ち鳴らす手の音、「タララ、ラララ」といったささやかな鼻歌、あるいはプルーストの描くヴァントゥイユの小楽節、モーツァルトのキラキラ星変奏曲の冒頭、これらはすべてリトルネロであるとされる。小鳥が歌を歌うとき、小鳥はみずからのテリトリーを示し、そこへ他の個体が侵入することを防ぐ。あるいは家でラジオやテレビをつけると、そこには音の壁があらわれ、音が大きすぎると近所から苦情がくる。リトルネロとは、まず「テリトリーを示すものであり、領土性のアレンジメント」(MP中320)である。
 リトルネロと音楽は区別されなければならない。「音楽とは、リトルネロを脱領土化することによって成り立つ」(MP 293)ものである。つまり、リトルネロは本質的に安心感をもたらすような〈生まれ故郷〉に関係する領土性をもつが、それを脱領土化して「宇宙的リトルネロ」にするのが音楽である。ただ、リトルネロは音楽にのみあるわけではなく、色彩のリトルネロ、視覚のリトルネロといったものもありうる。しかしリトルネロはとりわけ音にかかわるようだ(MP 395)。それは音が見えないものであり、「人間だけの特権ではない」(MP 312)というドゥルーズ独特の非人間主義にかなうからである。


ネオ・バロックと不調和的調和

 ドゥルーズは『襞』においてライプニッツの〈調和〉と同時代のバロック音楽との間のアナロジーに注目する。そこでバロック音楽の作曲家としてドゥルーズの念頭にあるのは、バッハではなくラモーである。それは、バッハが水平的メロディーにおける対位法(=点のシステム*3)をフーガという形で結実させたのに対し、ラモーが垂直的和声をメロディーよりも上位において定式化したからである(ちなみに平均律クラヴィーア曲集の第一巻と『和声論』が出たのは同年である)。ただし、バッハとラモーを旋律/和声というかたちで対立させるのは、あまりにも図式的であり適当ではない。バッハは(純正律でなく)平均律によって対位法を結実させたのだから、和声的観点もむろんもっているのである*4
さて、モナドは同じ世界をことなった仕方で表現するが、ここで重要なのはそれぞれのモナドどうしがどのように関係するかである。

あらゆるモナドは、もれなく同じ世界を表現するのである。この世界はそれを表現するもろもろのモナドの外には実在しないのだから、モナド同士はじかに接続されてはおらず、たがいの間に水平的な関係をもたず、世界内的な関係をもたない。そうではなく同じ〈表現されるもの〉をもつかぎり、モナドは間接的な調和的関係をもつのである(P 142)

 ライプニッツが用いるコンサートの比喩では、オーケストラのメンバーやコーラスの歌い手たちは、それぞれの音源=モナドを互いに見ることも聞くこともできないにもかかわらず、「それぞれじぶんの音符をたよりにするだけでじゅうぶん完全に全体が一致している*5」ことが示される。ドゥルーズに言わせれば「完全に協和する」(P 141,229)ということである*6。それは、それぞれのモナドが水平的−直接的に連結するのではなく、垂直的−間接的に調和するということである。「旋律はすべて和声に由来する」(ラモー*7)というわけだ。
 窓をもたないモナドは、内的で十分な表現の自発性と、共通の〈表現されるもの〉をあらかじめもつ。その点において調和は予定調和なのである(P 232)。マルブランシュの機会原因論が水平的メロディーの多声音楽や対位法に喩えられるのに対し、ライプニッツは垂直的調和を取り出すが、その調和はつねに予定されているという点でバロック的であるとされる(P 222)。
 そしてドゥルーズライプニッツを批判し、乗り越えようとしているのはまさにその点である。つまり、調和が予定されていること、「同一の世界に出現したもろもろの不調和は暴力的なものでありえても、調和において解決される」(P 143)という点である。不協和音が協和音へと解決されることはバロック音楽の一つの特徴*8であり、そのような解決=収束が音楽の進行を促しているとも言えるが、ドゥルーズが肯定するのは不調和を暴力的なままに保つこと、いわば「ネオ・バロック」(P 144)なのである。『差異と反復』の特に第三章においては、表象=再現前化の経験的次元で、共通感覚と良識のもとに、諸能力が認識対象に向かって協働することが批判される。そうではなくて、それぞれの能力が「不調和的調和」(DR上388)をおこしながらはたらくことが真の「思考」である。この不調和的調和という表現こそが「ネオ・バロック」に他ならないだろう。「不調和的〈理念〉のシンフォニー」(DR上390)がそこでは奏でられるのだ。
 鈴木泉の指摘するように*9リトルネロは『差異と反復』における発生の媒介者としての「暗き先触れ」のラインに位置する概念である。暗き先触れは見えないということが同時に示され(DR上320)、諸セリーに齟齬や不調和をきたすものである。一方リトルネロは語源が永遠回帰と関係し、アレンジメントからアレンジメントへの「中継の成分」(MP 347)であることからもこれは妥当であろう。ただし暗き先触れは、言語モデルが念頭におかれ、構造主義的ともいえる「システム」を駆動させるものであるとされるのに対して、リトルネロは音楽モデルであり、そこに「システム」はない(MP 402)という違いは大きい*10


音楽の憎しみ

 女性が女性になる、あるいは子供が子供になるといった誤解を招きやすいドゥルーズガタリ独特の表現は、声という音楽機械について語るとき、より明確になるだろう。それは「音楽表現が女性への生成変化、子供への生成変化、動物への生成変化と不可分の関係にあり、これが音楽表現の内容をなしている」(MP 290)からである。
 声は通常、生得的なものであると考えられている。まず性別があり、それに即して女の声/男の声というものが存在するということである。しかし、声を習得するということもまたありうる。子供が子供の声で歌うには、音楽学校での課程を修めなければならないし*11、あるいは去勢手術によって子供の声になることもある。ただしここでいう子供(あるいは女性)に〈なる〉ということは、決して模倣ではないということに注意しなければならない。まず初めになるべき子供・女性の声が存在し、それを模倣するのではなく、なるべき声じたいも変化し、脱領土化されなければならないということである。「子供への生成変化の中で声が脱領土化するだけでなく、声が子供になると同時に、子供のほうもまた脱領土化され、どこから生まれたかもわからないまま生成変化をとげる」(MP 301)という二重の運動があるのだ。カストラート、あるいはカウンター・テナーの声は、男女二元的制度の配分を超えた(両性具有に回帰するのでは決してない*12)ものなのである。 ロマン主義の時代の作曲家、とくにヴェルディワーグナーのオペラを指して、ドミニック・フェルナンデスは、男/女の声の二分化(ドゥルーズに言わせれば再領土化)が資本主義の要請によっておこなわれたとして否定的評価をくだす*13ドゥルーズロマン主義音楽と男女の声の再領土化の繋がりについては賛同しているが、楽器の発展が声の二分化を促したとするフェルナンデスを批判し、楽器の発展は「声をもはや他の楽器に等しい一つの楽器」=機械にしたという。ドゥルーズロマン主義音楽を全否定するわけでもないし、失われた自然的な声へ回帰しようとするわけでもない。声をもはや自然的でない「機械」としてみなすことで、さらに「男女両性のあいだをすりぬけ、潜在的な差異に入っていく」ような、「分子状の子供」や「分子状の女性」への生成変化を捉えることができるのである(MP 310)。
 また、声と楽器の関係は、土地と人民の問題へも接続される。主体化されて「感情」をもつ個人の声と、主体化されざる「情動群」としての楽器は相互に関係するが、それが、土地=〈一なる全体〉の力なのか、人民=〈一なる群衆〉の力なのかによって、役割は変化するのである。ロマン主義の音楽は一般に、聴衆が一部の貴族から中産階級へとひろがった時代のものであり、民族主義的であると考えられることが多いのにもかかわらず、ドゥルーズガタリは「ロマン主義にいちばん欠けているものは民衆である」(MP 380)という*14ワーグナーの音楽はナチズムに利用されたことや、「国歌」の役割を考えてみれば明らかなように、音楽は集団の画一化を促すようなものである*15。あるいは、テレビや街中で流れるコマーシャルの音楽は聞く人に消費を促し、流行を作り出す*16。音楽は潜在的ファシズムである(MP 291,298,396)。そのような危険な暴力性をもったリトルネロを、リトルネロじしんがもつ力によって、原初へと回帰するような形ではなく、「宇宙的に」解放すること。音楽史哲学史を重ね合わせるような形で思考するドゥルーズ&ガタリは、「複数の思考を総合するシンセサイザーとして」(MP 387)哲学を実践しようとするのである。 

 

本稿中では、ドゥルーズ(&ガタリ)の著作を、以下の略号で表記する。
DR:『差異と反復』上下巻、財津理訳、河出文庫、二〇〇七年
MP:『千のプラトー』上中下巻、宇野邦一他訳、河出文庫、二〇一〇年。なお本稿中での引用はすべて中巻からであるため、ページ数のみを示している。
P:『襞——ライプニッツバロック宇野邦一訳、河出書房新社、一九九八年
PP:『記号と事件』宮林寛訳、河出文庫、二〇〇七年

*1:八柳李花「Hadean soirée comme le paradis perdu 音楽と憎しみ**」『Cliché』、七月堂、二〇一六年、二七頁。

*2:リトルネロの概略については、鈴木泉「リトルネロ/リフの哲学」(『現代思想青土社、二〇〇八年十二月)を参照。

*3:「対位法はただ様々な線の上で、点の間の一対一対応を確固としたものにすぎなかった」(P 233)

*4:Cf.フェリックス・ガタリ『機械状無意識』高岡幸一訳、法政大学出版局、一九九〇年、七〇頁。

*5:G・Wライプニッツ形而上学序説/ライプニッツ−アルノー書簡』橋本由美子訳、平凡社ライブラリー、二〇一三年、九五頁。

*6:ただしここで、ライプニッツは「オーケストラ」や「コーラス」のコンサートを想定しているにもかかわらず、ドゥルーズは暗にプルーストを引用(『失われた時を求めて スワン家の方へⅡ』鈴木道彦訳、集英社文庫、二〇〇六年、三五五頁あたり)してコンサートの例を考えている。プルーストは「ソナタ」を描写したのであり、厳密にいえばヴァイオリンとピアノの編成のソナタは、バロック期よりもやや後の古典派時代のものである。「バロックと古典主義のあいだに明白な境界線を引くことができなかった」(MP 375)からかもしれない。

*7:D・J・グラウト『西洋音楽史』服部幸三、戸口幸策訳、音楽之友社、一九六六年、四九一頁。

*8:バロック期の楽曲では、ピカルディ終止と呼ばれる、全体の調性がマイナー(短調)の曲をメジャーの和音で終わらせるという技法がよく用いられる。

*9:鈴木泉「スティルとリトルネロ——メルロ=ポンティとドゥルーズ」『思想』岩波書店、二〇〇八年十一月(No.1015)、二六九頁。

*10:このことはガタリのインタビュー(「意味の生成をもたらすのは構造ではないから。それは今も述べたような様々な構成要素が侵入すること、それ自体なんだ。音楽の領域ではまったく明らかなことだ」)からも明らかである。Cf.フェリックス・ガタリリトルネロ宇野邦一松本潤一郎訳、みすず書房、二〇一四年、一三四頁。

*11:この例は『千のプラトー』にはないが、一九七七年のヴァンセンヌでの講義「音楽について」(『批評空間』Ⅱ期、太田出版、一九九八年七月、八八頁)において登場する。

*12:ドゥルーズは、カストラートやカウンター・テナーといった男女二元論の枠組みに当てはまらない脱領土化的存在について、ドミニック・フェルナンデスの著作から着想を得ているが、フェルナンデスがアンドロギュノスの神話に重ねている点を批判している(MP 301)。

*13:ドミニク・フェルナンデス「料理 万歳!」浅田彰+水嶋一憲訳(『チューダーの薔薇』より抄訳、『GS』冬樹社、一九八四年十一月(vol.2)、四五六頁)。

*14:「欠けている人民」論である。Cf.堀千晶「『シネマ』の政治——「感覚−運動的な共産主義」の終焉をめぐって」『ドゥルーズ21世紀』、河出書房新社、二〇一九年、二四六−二六九頁。

*15:Cf.パスカルキニャール『音楽の憎しみ』博多かおる訳、水声社、二〇一九年、八六、一七五頁。

*16:ガタリのいう「資本主義的リトルネロ」である。Cf.フェリックス・ガタリ『機械状無意識』前掲書、一一四−一二三頁。