2021-09-27(他人の言葉/ありえなさ)

なにぶんいちばん厄介なのは、他人の言葉で語るという恐ろしさをはっきりと自覚していないので、その振りがかなり大振りなことです。僕が当時漠として抱えていた「不快」は、このあたりに存していたのかもしれません。つまり、なぜこんな風に書くことしかできないのか。それが認められてしまうのか。僕をいちばん苦しめていたのは、引用と模倣と隠蔽だらけの文章を見抜く術自体が、はっきり言って「ない」ということだったのでしょう。誰も、他我をわかることなどできないのです。全ての影響を隠蔽すればいくらでも可能だということ。影響に気づきもせず、まかり通って、それが「個性」と呼ばれているのが、どうにも居心地が悪かったのです。

 

乗代雄介『ミック・エイヴォリーのアンダーパンツ』、452頁

 


本当のことを書く、というのが私のやりたいことだ。本当のことというのはもちろん、現実/虚構の区別にかかわらず、私の魂に裏切りのない言葉で書くということ。そういう文章はそう多いわけではない。脇坂真弥『人間の生のありえなさ』は、そういう文章である。…と書き始めて、そういえば書評のサイトがあったことを思い出し、そこに以下の文章を書きました。書きたいと思う本があれば、ほかにも書いてみようと思う。

 

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 みずからの魂に裏切りのない言葉で書かれている文章はそう多いわけではない。どこかに虚飾が、都合の良い解釈と欺瞞とが紛れ込んでいることがあり、それは時に書き手の弱さの隠蔽やごまかしとなる。
 脇坂真弥『人間の生の〈ありえなさ〉』は、本当のことを書く強さをもった文章である。田中美津、アルコール依存者の自助グループ〈AA〉、シモーヌ・ヴェイユという一見ばらばらな題材は、筆者の自らのあり方に基づいた強い問題意識によって、必然性をもって俎上にあげられている。
 本書を貫く大きなテーマが、「私という偶然」のあり方、そしてそれぞれが偶然性を被った「私」である「他者」といかに出会うことができるか、ということである。私はどのような性別で、どのような親の元に、どのような身体のかたちをもって、どういう出来事にあって、生きているのか。そのすべてが偶然性に満ちていて、私がコントロールできる範囲を大きく超えてしまう(そのような偶然性に抗い、制御することとしての「生命操作」の倫理については、第二章第二節でとりあげられている。近年の「反出生主義」への応答にもなるだろう)。
 そして、「なぜこの私がこのような不幸を被らなければならないのか」、そのような世の不条理に対する苦しみに徹底的に向かい合い、「とり乱す」とき、〈他者〉への出会いと応答が可能になる。この不幸のなかで答えのない「なぜ」に拘り続けることこそ、本当のことを書く強さにほかならない。

https://www.honzuki.jp/book/301940/review/267315/

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やっぱり田中美津の女の矛盾=「とり乱し」は、現在の実感できる戸惑いとして、よくわかる。

いくら頭で「こんな規範などどうでもいい」と考えていても、身体が無意識にそれを裏切る。この強烈な規範は女に「かのように」深く身体化・自然化されているため、女であるかぎり、その人は事実上この規範の内部でこの規範に拘束されて生きることを強いられる。規範に背いて追放されること自体がこの規範の内部で起こるのであって、追放された当人は決して規範の外に出たわけではない。(75)

 

しかし、かけがえのない私がたまたまの私でもあったというこの底なしの偶然性の自覚は、単なる無力な自覚ではない。「私はほかでもありえたが、なぜか今たまたまこのようにある」という自分を貫くこの新しく深い自覚は、自分を閉じ込めた八方塞がりの世界そのものを丸ごと相対化する力を持っているからである。この自覚は、自分を閉じ込めている「現在」が複数の可能性の中でたまたま実現したひとつの枝にすぎないことを彼女に教える。それ以外の可能性は死に、ただひとつの可能性がたまたま生き残って自分の「今」となった。自業自得の必然的な痛みとして感じられていた罪悪感とそれを生じさせている世界は、より大きな全体から見ればひとつの偶然の産物でしかなかったのだ。(78)