2023-01-16(石切場/本当の事)

「それでは、きみのいわゆる本当の事をいった人間は、まったく出口なしというわけかい?」とたじろいで僕は折衷案を提出した。「しかし作家はどうだろう。作家のうちには彼らの小説をつうじて、本当の事をいった後、なおも生きのびた者たちがいるのじゃないか?」
「作家か?確かに連中が、まさに本当の事に近いことをいって、しかも撲り殺されもせず、気狂いにもならずに、生きのびることはあるかもしれない。連中は、フィクションの枠組でもって他人を騙しおおす。しかし、フィクションの枠組をかぶせれば、どのように恐しいことも危険なことも、破廉恥なことも、自分の身柄は安全なままでいってしまえるということ自体が、作家の仕事を本質的に弱くしているんだ。すくなくとも、作家自身にはどんなに切実な本当の事をいうときにも、自分はフィクションの形において、どのようなことでもいってしまえる人間だという意識があって、かれは自分のいうことすべての毒に、あらかじめ免疫になっているんだよ。それは結局、読者にもつたわって、フィクションの枠組のなかでかたられていることには、直接、赤裸の魂にぐさりとくることは存在しないと見くびられてしまうことになるんだ。そういう風に考えてみると、文章になって印刷されたものの中には、おれの想像している種類の本当の事は存在しない。せいぜい、本当の事をいおうか、と真暗闇に跳びこむ身ぶりをしてみせるのに出会うくらいだ」

大江健三郎万延元年のフットボール』、講談社文芸文庫、259頁

 

いま取り掛かっている文章を書くにあたって、いろいろ参照してみている。やっぱりベンヤミンの書いてることは凄いという確信と、山本浩貴(署名は山本浩貴+hとなっているのだが、便宜的にこう記す。ただこの+hがかれの影のように存在しているが肉声を持った一人の人間であるということを私はいつも忘れないようにしていたい気持ちがある)が大江論を書いていたのが私と同じ年齢の時だと気がついてちょっと愕然とした。かれの「こう書いたら世界がこう見えている魂をつくることができる」論は、プルーストについてももちろんいうことができる。

つまりは場面の選択と転換をになう言語配置は、生きものと、そのつどの配置を根拠づける社会的・物理的規則とのあいだの拮抗として文章所持者をつくり、さらにそのような文章所持者の群れとしての言語配置の場を、周囲を巻き込むようにして一語に収束・圧縮させる機能をはたすのが喩である。その喩が、私の二重性のようなものをともなってしまうことに関しては、『言語にとって美とはなにか』において喩というものが、自己表出を極端におしすすめるために指示表出としての関係をたどることが不可能になってしまうような性質をもちながら、同時に、その成立には《感覚的な意識が、言語表出に場所を、いわば空間性をあたえなければならない》ため、自己表出のなかに、指示性を帯びた(現実世界の)私をひとつの空間として封じ込める必要が出てくるものとして考えられていることから、理解できる。すなわち喩は書く私と書かれる私の二重性を生み出す中心核となるわけだが〔……〕

『いぬのせなか座1号』、55頁

この喩の用い方なんかはまさに、というところ。ドゥルーズは『失われた時を求めて』の語り手を蜘蛛だと喝破していたわけだが、まあテキストと〈私〉の配置(星座)的なことを考えれば、あながち突飛なことでもないのだろう。

ある時期にわれわれが見たある物、われわれが読んだある本は、われわれのまわりにあったものにだけいつまでもむすびついているわけではなく、当時のわれわれがあった状態にも忠実にむすびついている。それがふたたびわれわれの手にもどるのは、もはや当時のわれわれの感受性、または当時のわれわれ自身によってでしかありえない。私が図書室にはいって、他の思考をつづけていても、『フランソワ・ル・シャンピ』をふたたび手にとると、ただちに私のなかに一人の少年が立ちあがり、私の位置にとってかわる。そんな少年だけが、ただひとり、『フランソワ・ル・シャンピ』という表題を読む権利をもっている、そしてそのときの庭の天気とおなじ印象、土地や生活についてそのころ抱いていた夢とおなじ夢、あすへのおなじ苦悩とともに、そのとき読んだ通りに、彼はそれを読むのだ。私がもしちがったときのある事物をふたたび目に見るとしたら、そのとき立ちあがるのは、また一人の年少者であるだろう。きょうの私自身は、見すてられた一つの石切場にすぎず、その私自身はこう思いこんでいる、この石切場にころがっているものは、みんな似たりよったりであり、同一調子のものばかりだと。ところが、そこから、一つ一つの回想が、まるでギリシアの彫刻家のように、無数の像を切りだすのだ。私はいおう、——われわれがふたたび見る一つ一つの事物が、無数の像を切りだす、と。

失われた時を求めて井上究一郎訳、ちくま文庫、10巻、347-348頁

たぶんここで言っている本を読むということは小説を書くということについても同様に言える。私にも何か言いたいことがあるはずなのに引用して満足してしまう。

ところで友人と呼ぶにはやや特殊な距離にあると互いに思っている人と、本を選びあって読むということをしているのだが、ジェンダーに対して少なからず問題意識のある二人であるのに選んだ本がわりと男の子性/女の子性の強く出るようなものだった気がしている。私があなたにとってどういう人になり、あなたが私にとってどういう人になるかということを改変する力が本にはあるためになかなかあやうい試みであり、しかし言葉で人と関係することについてよく考えもする日々だ。本当のことをちゃんと語らなければならない義務を感じるとその人は書いていたが、はたして本当のことを語ったあとに出口なしということにはならないだろうか。

わたしは鈴子を変形したい。同時にわたし自身も変形したい。わたしたちが今とは別の物語を生きられるように。

松浦理英子『裏ヴァージョン』