2023年9月の日記

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9/1 Fri

出社、といっても午後の比較的電車に人の少ない時間に移動しているため負担は少ない。同期らに会ったがなんだかひっきりなしに喋っており、うるさい。赤見かるびがうるさいなあって言った例のシーンがあったが、あんな感じでうるさいと感じる時にうるさいなあと言って周りを萎縮させることがままあった。いまはその場を離れることで対処している。バフティヤル・フドイナザーロフ『ルナ・パパ』大傑作だった。冒頭の馬爆走シーンからしてすべてが全力で動いており、兄のナスレディンが氷の中の魚を見ている時に「彼にとってはすべてが生きているのよ」というセリフがあったが、まさにそのような映画であった。全てが動いていると言えば、このあいだの『君たちはどう生きるか』を連想し、飛行機や動物の使い方にも共通点を見出せそうだったが、フドイナザーロフの映画は妊娠させられた主人公の女性とその兄(知的障害者)という立場の弱い者の描き方が残酷でありながら優しくて、何度か涙ぐんだ。劇的な場面しかなく全く飽きない映画だった。(AKBの野菜シスターズみたいな)収穫アンサンブル?で踊る場面、踏み外して崖から滑り落ちてゆく場面、男を探して父と兄が舞台に押しかけてどんちゃんやる場面、医者があっという間に死ぬ場面、列車に身投げしようとして結婚することになる場面、魔女の家で釜茹でされそうになるが助け出される場面、牛が降ってくる場面、そして飛ぶ屋根……

9/2 Sat

祖母の四十九日の納骨に行った。一番暑い時間帯だったのでじりじりしながらお経を聞く。今風の墓石がぎっしり区画に並んでいるようなところだったが、墓石のデザインとして〇〇家と大きい文字で彫るのではなく、「穏」「道」「静寂」「ありがとう」「愛と夢」などと書いてあるのもあり、相いれない感性……と思うが、幸いにも私の家族にはそういう感性はない。年号だと何年なのかわからなくなるというので西暦表記にしてあったし、朝日新聞をとっていたし、祖父母は割にリベラルな考えを持っていて、他の親戚らもなにか嫌な感じのことを言ったりする人もおらず、幸運なことだなあと思う。堀千晶『ドゥルーズ思考の生態学』の合評会を聞いた。わりと哲学寄りの話に終始したのがちょっと残念で、小説や政治の話をもっと聞きたかったのに…と思った。鈴木泉や江川隆男など堀さんより上の世代の哲学専門の人らの発言が、スピノザの名を使いながらシェリングを強く読み込むことに反発していて、私はシェリングを使う意図が、発生の問題を導入すること、ひいては政治論へと発展させていく意図があると思っているから、七章以降の話をもっと引き出してほしかったという気がする。というか、そのような哲学のマチズモ的やり方を解体するような意図があったはずなのだから届いてないのか?とやや悲しくもなった。存在論セクシュアリティの問題を読み、ドゥルーズ&ガタリは「幾何学的精神を有するスピノザを、明白に女性的なものとして読んでいる」(344)らしいから、江川氏の批判はスピノザを男性的なものへと連れ戻すような身振りだったと言えるかもしれないが(とはいえ、スピノザドゥルーズの読解のどこまでがあってるか、属性に規定され切らない力能の存在が書かれているかというのは要検討)。あらためて、七章あたりを読んでみたがやはり小説、美術作品への言及が楽しく、アルベルチーヌが語り手の前から完全に消え去ってしまうことを、男性の所有の破綻だというところなど(561)、いいねと大学の講義を思い出しながら思うのだった。

9/3 Sun

sと猫カフェに行った。狭い空間に15匹くらいの猫と人間らが詰め合わされており、ほこりのせいなのか猫アレルギーになったのかわからないが、くしゃみが出て目が痒くなった。猫アレルギーだったらとても悲しい。大きくふわふわのやまだ小さい細っこいのなどいた。韓国料理を食べたい!と数日前から思っていたのでsが行ったことのあるお店でサムギョプサルを食べる。とても美味しい。肉というよりキムチやらコチュジャンやらナムルやらが好き。量があり、かなり満腹になった。なんだかんだとまたふらふら歩き、サブカル大学生がやってそうなことビンゴをつくるなどして遊ぶ。毎日毎日しゃべっているがそういうくだらないことをしゃべっているため、意外と話題がつきないものである。帰りの電車で前の席に高校の同級生が座っていたが、隣の人と喋っていたこともあり気づいてもらえず、降りぎわに手をトントンして気がついてもらう。周りの人をよく見ているからか、街中で知り合いを見つけたとき、たいてい私だけ気がついていて、誰かに見つかることはない。

9/4 Mon

いま日記が流行ってるのは虚構の価値が相対的に下がっているから、という言説をネットで見て、それはそうだなと思う一方で、カフカとか小川洋子とか日記から小説を作っていった人もいるし、私は他人の日記を小説を読むように読んでいる気もするから、まあそんなに気を落とす?ようなことでもないなと思った。やっぱりツイートの短さと形式では書かれないことも多いし、人々がそれぞれブログなりを書いてくれるのは読むものが増えて嬉しい。一方で、公開日記で書き即公開するのと、長い時間手元で文章をこねこねすることに違いはあるので、読み手の問題というよりは書き手の問題で、でもまあ小説を書く人は書くし、書かない人は書かない…… 大学の演習でも文フリでもこんなに小説を書きたい人がいるのかよ、と思った。そこでいう「小説」のなかみが、虚構度の低いものや「当事者性」の高いものが読まれやすくなっているといえば、そうかもしれない。フラナガンの『グールド魚類画帖』を読み始めたものの、あまりノリきれずちょっと悲しい。

9/5 Tue

頭がずきずきする。夜ほとんど泣き通しだったため。コードギアスを最後までみた。脚本のよくできた作品で見てよかった。なんとなく本が読めない状態なので、須賀敦子の『ユルスナールの靴』を手に取るとするすると読める。今読める本を探り当てられると嬉しい。それ繋がりで『ハドリアヌス帝の回想』もよめればよかったが、こちらは数頁で散ってしまった。

9/6 Wed

右目が悪いのに伴ってか、右の鼻だけが圧迫感があり、気持ち悪い。

9/7 Thu

オラフ・オラフソン『ヴァレンタインズ』を読む。こういうすぐに忘れそうだが読んでいる間は確かに良い類の海外作家の短編集は、たまに読むと小説は良いものだなと思う。アニメを多少見るようになり、長編小説はむしろアニメに代替可能で、短編小説の方が小説形式として意味があるような気がする。オラフ・オラフソンというのは不思議な名前だが、アイスランドでは姓を用いず、父の名+息子(娘)をつけるらしく、つまりオラフソンはオラフの息子である。じゃあせめて名前はオラフでなくてよかったのでは…と思うが。

9/8 Fri

雨で急に半袖だと肌寒い。糸井重里のことは嫌いだが、ほぼ日手帳使ってみたいという長年の憧れを捨てきれず、ほぼ日weeksを買った。お言葉は邪魔なので英語版を。ロバート・アルトマン『雨にぬれた鋪道』を見た。悲鳴と音楽で怖さを出している感じがした。内から外の青年を見ているときの窓、内に引き入れてからのバスルームのガラス、リビングにある歪んで映るガラスブロック、三面の鏡、逃げ出す窓など、見ることと欲望という映画のど真ん中のテーマだから、そうしたガラスや鏡の使い方が際立ってよかった。

9/9 Sat

sが私のためにラムレーズンチーズケーキを作ってくれて、それを食べさせるためにsの家まで車で送り迎えしてくれて、大変甘やかされている(この〇〇してくれて…がすっかり広末涼子構文となった)。ラムレーズンが大好物なので、たっぷり入っていてラムが強くて美味しかった。sの家の猫は、家族にも一部にしか懐いていないほど人見知りで、私を見るととても怯えた目をしていた。名前を呼ぶと、「なんで名前知ってるの?誰?」みたいな顔をする。かわいそうだけれどちょっとだけ触らせてもらって、あとは姿を見せなかった。

9/10 Sun

『かか』の冒頭は、経血が湯船のなかを舞う様子が金魚のようだと思うところから始まるが、他にも何かで同様に浴槽に金魚が…という描写を見かけたことがある気がするのだが、思い出せないでいた。金井美恵子の『噂の娘』を開くと、「ぽっこりと子供の体型のようにふくらんだみぞおちのところに、フリルのようにひらひらした尾びれとひれのあるイチゴのような形の金魚に似たアズキ色のアザのある、あまり化粧をしていない見習い美容師」がいて、かのじょがお湯の中で身体をゆすって動くと、「金魚はヒレを揺さぶって泳ぐように見える」という箇所があり、私はここのことを覚えていたのだろうか? sとほぼ常時通話を繋いでいると、自分の境界線が揺らぐというか超自我のように(エスのくせにね)作用しているような気がして、ちょっと危ういかもしれないと思う。

9/11 Mon

相変わらずお腹が痛く、散漫に本を読んでいる。難消化性デキストリン入りの青汁を飲んで腸内環境改善を図ろうとしているが果たして…。

9/12 Tue

プログラミング研修が脳への程よい負荷となり楽しい。習ったことを会社のパソコンではなく自分のパソコンにまとめるうえで、notionが良いかと思ったのだが、他の設定やらをして遊んでいたらなんだか時間がかかってしまい、肝心の内容が疎かになるという、定期テストのノートまとめあるあるみたいな事象が起こった。

9/13 Wed

日記、完全に飽きた……。日記だけでなくすべてに飽きて倦んでおり、私の人生ってつまらなすぎる。インスタントな承認欲求に身を任せたツケなのかもしれない。

9/14 Thu

夕方に寝てお風呂で『姑獲鳥の夏』を読んだらちょっと回復した。フィクションだけを信じている。

9/15 Fri

コンプリート欲が昔からあるので、〇〇シリーズ全部読むまで死ねない!と思えるのはよいこと、だと思う。白水社のエクスリブリスと百鬼夜行シリーズは全部読むと決めました。蓮實重彦の新作小説が出るというので、そういえば積んでいた『伯爵夫人』を読み、噂には聞いていたもののエロ描写に次ぐエロ描写で呆れつつも不快にはならず、私もおみお玉を捻って気絶させてあげたいものだわと思う。ばふりばふりという回転扉は小さい頃に、たぶんどこかのホテルでこわごわと初めて使い以来たまに夢に出るモチーフなのだった。

9/16 Sat

早起きして皮膚科に行くも、美容皮膚科じゃないと多分治らないみたいな感じで言われ、悲しくなる。で、さっそく別の美容皮膚科に行ってみると、とりあえずホームケアとしてピーリング洗顔を勧められたので買った。治療をやるとしたら、ノーリスというのがいいと言われたが、一回2万円かあ治る保証もないのにと考えてしまう。こういう美容は沼なのでちょっと怖い。この肌荒れは中学生のときの悪癖に起因しているため、本当にタイムマシンがあればその頃の自分に辞めさせたい、これが人生の悩みの1/3くらいを占めている。かわいい服を着るようになって、服は可愛いのに着てる人は…と体型や顔がさらに気になるようになってしまい、たぶんあんまりよくはない。摂食障害だけは気をつけたく、青汁・コルセット・筋膜ローラーでなんとかしたい。とはいえ、体重だけでいえばここ数年で最も軽くなっており、顔にしろ体にしろ「気にしない」が最もよい効果をもたらす。病院二件の待ち時間でブッツァーティ『神を見た犬』を読み切り、長野まゆみ『夏期休暇』もあと少しというところまで読んだ。池袋に行き、リニューアルオープンしたAmavelでワンピ2着と鞄を買う。ノベルティのパンダ耳のついたルームウェア目当ての買い物で、まあ重たい。このあと色々回ったので完全に順番を誤った。ルミネで地雷量産系のブランドをいくつかみる。ミニスカはいて意外といけるかも?と思ったけど買わなかった。そもそも今日は冬物コートを探すのが一番の目的で、色々きてみるも結果的にどれもしっくりこず、なんでこんなクソ暑いのに私はコートを?といらいらしていた。はやく長袖ワンピースを着れる気候になってください…。BABY THE STARS SHINE BRIGHT(フルで書くと改めてすごい名前のブランド)で、黒白のベビードールJSKを注文。11〜12月の入荷なので、それまでは生きなければならない。サイズ感を見たかったので色違いのベージュのチェックのを試着し、あまり選ばない色だけど結構いけるかもと可能性を見る。BABYはロリィタのおそらく一番有名ブランドで、買ったものはオーソドックスな(今では懐古に分類されるような)デザインなので、これで正真正銘ロリィタ感がある。ゴスロリから入ってだいぶ甘めの方にも拡大しつつあり、欲しいものの範囲も拡大している。本当に物欲で生きていると日々思う。新宿に移動。ここでもコートを見るも、やはりしっくりこない。また別のBABYの店舗を覗くと、巻バラドールワンピが置いてあり、通販ではとっくになかったのでまだあるんだ?と思ってうっかりと試着して、まんまと欲しくなってしまった。さいきん白雪姫乃ちゃんが着ていたのが最高(→◾️)だったこともある。しかし6.6万円の値は買い物はわりと即決派の私でも尻込みし、一晩考えよう…と店を後にする。ATMで6万円おろしてみて、うーんと思うも、重い荷物による疲労も限界で判断力もないため、帰路へ。それにしても日が沈むのは早くなっているのに暑すぎる。

9/17 Sun

エドワード・ヤンの恋愛時代』みた。女の顔がみんな強くてよかった。ただ座席が前すぎてせっかくの構図があまりわからず。今日も張り切ってお買い物に行くも、人が多すぎて思うように身動きが取れない。星箱worksで店員さんが西洋人形魔法のワンピ黒着ていて、可愛い!と思い私も赤を試着する。昨日も書いたように色ものもいける気がしているのでうっかり買いそう。私は人形です、という強くて可愛い服だった。昨日着た巻きバラドールの半分の値段だと思うと安い。結局下着1万円分だけ買い、帰宅。sが体調悪そうで今日会えず電話もできないと言われたから、寂しくて死にそうになり結局電話してもらった。

9/18 Mon

暑すぎて8月と書いてしまった。年内に引っ越すぞ!ということで、何からやったいいのかわからないのでとりあえず不動産屋さんを訪ねてみる。本格的に探し回るのは10月からで良いと判断。いいところが見つかってから入居までわりとスピードが求められることがわかった。sについてきてもらったけど、説明する人がたまにsに話題を振るのが面白かった。たぶんだけど、私は社会人二年目には見られてなかった。あとはいつも通りに古本屋と喫茶店に行き、夜ご飯。ウィティッグの『子供の領分』が2000円で綺麗に手に入ったのがよかった。私はいま胃の容量が全然ないため、回転寿司に行ったけど二人で2000円もいかなかった。初めて回転寿司で寿司以外のものを食べた。特に対人関係において先の見通しなどが考えられず、つねに今日で終わりみたいな気持ちでいる。

9/19 Tue

なんか躁転したのか?と思うほど、家にいるのが落ち着かず、三連休は全て外に出ていたし今日も図書館に行く。そういえばと思い出し予約した本があるので、また明日か明後日かにも行くと思う。

9/20 Wed

今日も図書館。長袖のワンピを下ろしてみたが、暑い。足を数箇所虫に刺されていた。

9/21 Thu

狂骨の夢』を読んで、ABAPのお勉強して、いい感じのブログを読んでいたら一日が終わっていた。相変わらず食後にお腹が痛くてかなしい。一日一食+おやつくらいが適量っぽい。荒川修作について調べたいのにその時間が取れない。

色々読んだもの

https://not-miso-inside.netlify.app/blog/book-review-3/

 https://megamouth.hateblo.jp

https://scrapbox.io/sno2wman/

 https://mercury-orbit-b2c.notion.site/6d4c4dbeb9b5417f854af4922b154c04?v=f9674202437a4256b99267a831bce7a1

9/22 Fri

紙のノートは検索性×、notionなどのデジタルノートは一覧性×というデメリットで、結局いろんなサービスを中途半端に使っている状況。『狂骨の夢』ではフロイトがコケにされていたが、まあ現代でフロイトみたいなエセ科学を真面目に取り合っている方がおかしい、というのはわかるところではある。でもある文脈において、精神分析を無視するわけにはいかない、ということもあって、どの文脈で無視できてどの文脈で無視できないのかを見極める必要があると思う。

精神分析を患う国|フリー・グーグルトン

9/23 Sat

涼しい!嬉しい!このあいだ買ったamavelのワンピースを着て行ったところ、えらく褒められた。いつもより早めに待ち合わせして、紙博へ。初めて行くのでどれくらい混んでいるのか恐れていたが、まあ混んでいるが身動きが取れないほどではない。マスキングテープ9種、はんこ2種、メモ帳2種ほど買う。こういう細々とした文房具はだいたい一個500〜900円ほどなので気軽に買え、いつのまにか沼にずぶずぶと。何度か通販利用しているお気に入りのお店Krimgenが一番人気で20分くらい並んだ。そのあとフルーツパーラーゴトーへ。記名してから浅草寺の方までぷらぷらする。屋台がいくつか出ていて、もんじゃ焼き揚げなるものを食べる。ゴトーに戻るも、店の前で30分くらいたっていて、近くにいる男女から性の匂いがしないね、などと話す。敬語を使っていたので、マッチングアプリで会ったんじゃない?でもマッチングアプリで初めて会う人があんな格好で来たら嫌だね。迷いに迷った末、本日のパフェの倍の値段する2種のいちじくパフェを食べる。高いなあ…というのは悲しいことに拭えないが、いちじくを食べれてよかった。お腹がいっぱいになり、スカイツリーに向かって歩く。sは初めて間近にスカイツリーを見たらしく、すこし怖がっていた。川はとても匂う。巨人が勝ったら隅田川に飛び込む?と聞いたが、東京ドームからは離れているから飛び込まないらしい。他にsを大いに笑わせる出来事があったのだが、残念ながら書けない。

9/24 Sun

少し部屋を片付けて、荒川修作+マドリン・ギンズに関する情報を収集する。私の対象への興味の持ち方は作品単位か人単位でしかなく、〇〇学とか〇〇主義を切り口にした話があまりピンとこないことが多い。作品や人物について知るなかで、そこで扱われるキーワードを頼りに、他へと繋げていくというやり方しかしてこなかったと思う。ところで天命反転というと、輪るピングドラムのことを連想してしまうのだが、それこそワードレベルでしかない連想なので、もう一度見たい。以下のLWのサイゼリヤというブログを私はよく読んでいるが、このエントリで書かれている、作品を見る→ブログのエントリとして批評・感想を書くというプロセスのことがなんというか身につまされた。「トガタって黒幕やな~」っていうふわっとした感想から、文章としてトガタの役割について描写するときの、思考の深さというか、怠惰だとふわっとした感想で終わってしまうところをもうちょっと考えて文章にしてみることが必要…

https://saize-lw.hatenablog.com/entry/2215940

9/25 Mon

ほぼ日weeksは意外と書き込むスペースがたくさんあるので、今年の分を遡ってせっせと書いている。トモエリバーと愛用のサラサナノの相性があんまりだった(インクの乾きが遅いのでしゃっと滲む)けど、スタイルフィット(シグノ)も所持しているので問題なし。万年筆使いたいところだが、あんまり細く書けないため使っていない。万年筆との相性はMDペーパーが一番いいってわかっているし。

9/26 Tue

精神的にも体調的にも低空。日中微熱があったけど、酒で誤魔化す作戦に出たら成功した。潜在的アル中。ピングドラムを再見しているが、やっぱりすごいアニメ。コードギアスといい、私はアニメに精神のコンディションを割と左右されているのではないか?アニメというジャンルが現実世界そのものの見方をひっくり返せるような力を持ちやすいのは、アニメが一から世界を構築するものだからだと思う。ピングドラムが現実のサリン事件をベースにしているからなおさら、フィクションとしての力を感じる。偽日記がリアルタイムで感想を残しているので、それも読んでいるのだが、すごい批評だなと素朴に感心してしまう。地下鉄なのにスカイメトロという名前であることが、ちょうど真ん中の13話で明かされ、地下の中で宙吊りにされているという不思議な構造が、現実世界(地下鉄サリン事件)と虚構世界(ピングドラム)がぐるっとねじれるようなありようを示している、という指摘。

■ - 偽日記@はてなブログ

9/27 Wed

sが会ってくれた!またもんじゃ焼きを食べる。酔っ払うの楽しいからこっちが本当の人生な気がする。心なしか肌のコンディションが良くなっている。

9/28 Thu

残暑。インボイスで自営業/会社員という対立構造が建てられてしまっているわけだが、たぶん多くの会社員が消極的理由でそうなっているのに対して、自営業フリーランスの人は積極的にそうなったように見える、ところにも根があるような気がしている。ネオリベの果て。

9/29 Fri

早起きして出社、つらい。路上で歌う人に熱心そうな目線やスマホを向けている人が昔より増えたような気がする。これも推し概念の波及?

9/30 Sat

sの希望で新宿御苑の温室へ。まだ日差しに夏を感じる。sheglitのケープワンピを今年初めて着た。半袖のワンピースは結構十分持っている。bubblesのエナメル靴はシースルーソックスにすると痛い。

2023年8月の日記

 

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8/1 Tue

朝からお腹の調子が悪く、さらに昼にカレーを食べたので打撃が加わる。カレーは味はいいのだけれど身体ダメージが強く、わりと苦手な食べ物になりつつある、(←昼時点ではこう書いていた)夜までお腹が壊れたままだったのでもう二度と食べるまい…。『娘の誘惑』でラカンの視覚中心主義の話が出てきたが、そういえばオイディプスが自らの目を潰したということは精神分析において何か言われているのだろうか。『真理と方法』二巻目を読み始める。一巻目(第一部)の二節はガダマーの主張が楽しかったのだが、またお勉強パートになり、やや退屈する。表現と真理の関係。

8/2 Wed

お腹は回復し、安心な素麺を食べる。アレンジレシピがよくSNSで流れてくるが、私はめんつゆ+梅(梅干しか梅おかかの瓶詰め)+生姜のチューブで概ね満足で、たまにめんつゆ+卵黄+ごま油+キムチとかにする。麺は揖保乃糸で、麺つゆは唐船峡かにんべんのもの。sとベイトソン『精神の生態学へ』の読書会をやった。読書会というものに私はあまり意義を感じていないのだが、sがもともとやっていた会を奪ったという経緯があるため……。本自体の面白みもまだよくわからない。データ⇔仮説の往来では仮説が増え続けるだけで、基底的な知へとなかなか至らないので、基底的な知にも根ざすことが重要と序章で述べているが、まだそれがどういうことかはわからない。夜になってまたお腹が悪くなってきたが、これは明らかに食べ過ぎの症状。

8/3 Thu

母と母方の祖父の双方から理不尽に叱られ、最終的に失望されるというよくわからないが嫌な感じだけははっきりとある夢を見て目覚め、5時ごろである。おそらく歯軋りのせいで上顎が痛い。sを起こすと、sは私の夢を見ていたと言う。交換日記を書くために『冬の夜ひとりの旅人が』を少しめくっていたらいい感じのところがあり、tumblrを久しぶりに更新した。

栞紐 on Tumblr

8/4 Fri

Amazonから本10冊とハリボーのバケツが届く。暑さのせいでくまの形が消え去っている。なんとなく調子が悪く活動ができない。『それは誠』が期待を裏切らない面白さだ。お笑いのことは何もわからないが、よくできたコントを見ているような、『セトウツミ』を読んでいるときの感覚に近いかもしれない。

8/5 Sat

昼からデートの予定だったがどうしても外に出られず、冷房がんがんにして閉め切った部屋でぼーっとしている。出始めた秋冬物の服を眺めて意識を冬に飛ばす。富豪だったら北半球と南半球を行ったり来たりして秋冬のみの世界を生きるのに。たぶん寝不足だったので、四時間くらい昼寝をした。ポケモンスリープが、人間は寝なければいけないという弱点を狙ってポケモンたちが反逆を起こすためのデータ収集目的のものだったらどうだろう。お風呂とベッドで『魍魎の匣』読み終わる。さすがの読み応えで凄い。これで京極夏彦を読んだことのある側の人間になった。笠間直穂子の↓のエッセイがとてもよく、現実世界から一時的に逃避するために読書せずにいられない人がいることを確認できる。私は外から見て普通に学校にも会社にも適応しているのだが、それでも今日みたいに本の中の世界に行っていなければしのげない一日というのがある。

現実はいつも、なにかしら苦しい。本のなかに入ると、自分の体は消えて、自分の日常と重なる要素をもちつつも日常そのものとは異なる、一種の平行世界が体験される。だからわたしに必要なのは、没入できる本だった。現実に軸足を置いて解説する文章ではなく、現実を描写することで別の次元に移し替えるような文章。その次元に入りこみ、しばらくそこで過ごして、戻ってくることで、現実は多少、しのぎやすくなる。

INSCRIPT :笠間直穂子 連載:山影の町から 34 「十代の読書」

8/6 Sun

今日は家を出られた(10分くらい遅刻したけど)のでデート。本屋と古本屋を巡り、また10冊くらい買ってしまう、重い。重いのでデート中は持ってくれている。優しい。前にも行ったカフェでサバランを食べる。ルシアンティーにはいちごジャムがてんこ盛りについていたし、ここのサバランは本当にびしゃびしゃで美味しい。贅沢で官能的。信号待ちでキスしたりかなりべたべたしながら街を歩く。そのくせ街中のカップルにはけちをつけている、こう書くとかなり嫌な感じだ。楽しいからいい。初めて鳥貴族に行ってみる。とろろの鉄板焼きみたいなやつがやたら美味しく、無限に食べられそうだった。花火をしている人々を歌いながら眺め、解散する。世界に二人しかいないみたいに過ごしていたのにまた帰らなくてはならない。青松輝の『4』がかなり良く、電車で読んでいて涙ぐむ。

downyの"無空 live"

8/7 Mon

やりたいことと今できることがどうにも噛み合わず、嫌な感じだ。本を買っているので当たり前なのだが、もう床に積むより他にどうしようもないところまで来ていて、来たるべき引越しの際には本当にどうするのだろう… あんまり不要な本というものはなく、PDF化する気もなく、単行本を文庫本に変換するくらいのことしかできない(そしてそれはむしろお金のかかることだ)。昨夜から喉の下の方がちょっと腫れぼったくいがいがしたような感じがして怖い。大濱普美子を初めて読んでいて、小川洋子小山田浩子吉田知子を足して割ったみたいな感触もするが、けっこうホラーよりの怖さ。夜電話していて、sは私のことを8割猫だと思っているらしいことがわかり、はちねこ!?と驚いた。

8/8 Tue

まじめにちまちまと働いてしまった。酸っぱいものが大好きで、冷麺や坦々麺にお酢をだばだばかけるのだが、素麺に麺つゆ+お酢+ごま油(+卵黄)でだいぶ美味しいことがわかり、昼と夜で二回食べた。『猫の木のある庭』を最後まで読み、ぼんやりしていた。「水面」で落下の感覚を夢で先取りするところに、身体が同期する感じがしたからかもしれない。

8/9 Wed

激しく降ったり止んだりの天気が続くのだろう。おそらくは不安定な気圧のせいでぐったりしている。右目が痛い。『精神の生態学へ』上巻は読み終わり。ベイトソンフロイトを大変気にしているよう。青松輝の『4』は「数字しかわからなくなった恋人に好きだよと囁いたなら 4」という歌からそのタイトルがとられていて、彼自身も穂村弘からの影響は大きいと語っていたが、思っていたよりも「手紙魔まみ」の影響を感じる歌が多い。それで「手紙魔まみ」をあらためてめくっていて、全然覚えていなかったがこんな歌があった。「1や2や3になったが現在は162で落ち着きました」。162といえば身長のことかと思う(まみのイメージからはちょっと高め)が、前半の1や2や3になるとはどういうことなのか一瞬考えてしまう不思議さがある。手紙魔まみの凄さは、読むとまみになってしまうところで、それは穂村弘がまみになっているからだ。僕からみた「君」になってしまう歌より、君を有する「僕」になってしまう歌より、圧倒的な(神様と言ってもいい)まみになってしまう歌がいいのだった。

8/10 Thu

今日も真面目にたくさん働いてしまった。

堀江由衣の"光の海へ"

8/11 Fri

三連休初日。夢見が良くない。『幻獣の書』読み終える。タニス・リーを読むのは初めてだったが、ゴシックロマンス要素と神話的要素の塩梅がよくとても面白かった。訳者の浅羽莢子は名前を見たことがあるなとは思っていたが、ダイアナ・ウィン・ジョーンズの『九年目の魔法』の訳者でもあった。この人の訳したものはすべて面白い可能性がある。53歳の若さで亡くなっていた。昔から作家より翻訳者のことが気になるし憧れている。パオロ・タヴィアーニ『遺灰は語る』をみた。ユーモアがありながら大変美しい映画で、印象深いのは、列車で闇が現れたり消えたりしながらアルザス地方出身のイタリア語がわからない女と元兵士の男のカップルが愛撫を始めるシーンや、短編に切り替わる前の、海がひらけてカラーになるシーン。インターネットのレビューを見ていると、短篇の『釘』は前半と関連あるの?難しい…わからない…というのがそこそこあって驚く(君たちはどう生きるかでもそう思った)が、少年の突然の暴力性の発露の影に移民だったという事情は示されていたはずで、それは1936年のイタリアで死んだピランデッロが世界や人間や戦争をどう見ていたかということを寓話的に描いてもいるだろう。移民つながりでゼーバルト『移民たち』を少し読む。

翻訳者の矛盾 | 浅羽莢子のFine, Peace!

8/12 Sut

デートの日。ユーロスペースジャック・ロジエ『メーヌ・オセアン』をみる。面白くてよく笑ってしまった。運動と連鎖という映画の醍醐味がよくわかるいい映画だった。原宿に移動して、十年ぶりくらいの竹下通りを少し歩き、カフェでレーズン入りスコーンとオレンジキュラソー入りココアを頼む。ココアはとてもたっぷり入っていて美味しい。sが頼んでいたアップルタルトも一口もらう。隣の30代後半〜40代くらいの女性二人組が、推しのジャニーズについて延々と話しており、つい聞き耳をたてる。生身の人間の仕事に自分の人生を仮託するタイプの推し方は大変だねえと私たちは話す。ラフォーレで服など見て、指輪を一つ買う。今日着ていたジャガード二段フリルのワンピースは家の周りだとやや浮くが、渋谷原宿だと全く浮かないし物足りないくらいである。青山ブックセンターも覗く。たまたま違国日記の原画が展示してあった。歩いているとまた渋谷に戻ったのでファミレスでご飯を食べる。胃腸が不安な感じなので、サラダとオニオングラタンスープにしておいたが充分な量だった。ライムとレモングラスの飲み物が、ルームスプレーの味がすると言ったら、それあなた日記に書くでしょうと言われたので、今書いている。たくさん歩いたので足が疲れ、メディキュットをはいて壁に足を立てかけてむくみを取り、sが髪を乾かし終わって電話がかかってくるのを待っている。

8/13 Sun

部屋の片付けをし、ごろごろしていた。『移民たち』読み終わる。開発環境で作ったプログラムなどを本番環境に反映させることを移送(transport)というので仕事で馴染みのある単語になったが、ゼーバルトの本で出てくる移送とはユダヤ人が強制収容所に送られることに他ならず、たとえば「わたしの人生はすべて、すみずみに至るまで、両親の移送によって決定してしまった」というような文章が出てくる。寝る前にはケイト・ザンブレノの『ヒロインズ』をぱらぱらめくっていた。買ったときから大事な本だとわかっていて、時折めくっているが読み通してはいない。狂気の妻の表象といえば、私が最初に触れたのは江國香織の『きらきらひかる』だった。

8/14 Mon

労働の気持ちがつらいし気候で身体が不調な気がする。ヘアビューロンが欲しいとずっと思ってるけどそろそろ買ってもいいだろうか…

8/15 Tue

会社員生活で初めて寝坊した。目覚まし時計をセットし忘れみたいだった。でも9:30からの会議には間に合っていたのでセーフ。ジーン・リースの「サルガッソーの広い海」を読んだ。『ヒロインズ』でもちょうどジーン・リースに触れている箇所を読んでいた(池澤夏樹の解説が微妙だったので、ヒロインズを読むことを勧めたい…)。『ジェイン・エア』で狂気の人として他者から烙印を押されたに過ぎなかったバーサの声を取り戻すこと。あとは、経験されたこととそれを語るときに生じる歪みを、小説の技法としてうまくやっていると思った。ユベルマンの最初の本はシャルコーのサルペトリエールでのヒステリー研究についてで、読まなければと思っていたことを思い出した。

「なぜ私に生きたいと思わせようとしたの?どうして私にそんなことをしたの?」 「僕がそう願ったからさ。それだけじゃたりないのか?」 「いいえ、充分よ。でも、あなたがそう願わなくなる日がくるとしたら。その時はどうすればいいの?私が気づかないうちに、あなたがこの幸せを取り去ってしまったら?」 「そしてぼくの幸せもなくすのか?そんなばかなことをするやつがいるかい?」 「私は幸せに慣れていないのよ」彼女は言った。「だから怖くなるの」 「怖がることはないよ。怖くても、それを口に出しちゃいけない」 「わかっているわ。でも自分ではどうしようもないの」 「どうすれば安心できるんだい?」彼女はそれには答えなかったが、ある晩こう囁いた。「もし私が死ねたら。今、こんなに幸せなうちに。それをやってくれる?私を殺さなくていいのよ。ただ死ねと言ってくれれば死ぬわ。信じないの?やってみて、死ねと言って、そして私が死ぬのを見守って」 「それじゃ死ね!死ね!」ぼくは彼女が死ぬのを何度も見守った。彼女のではなく、ぼくのやり方で。日射しのもとで、日陰で、月光のなかで、蝋燭の明かりのもとで。家にだれもいない長い昼下がりに。連れは太陽だけだった。僕らはそれさえも締め出した。それがどうして悪い?彼女はすぐにぼくと同じように愛の行為と呼ばれるものに熱中した——時間がたつにつれて我を忘れておぼれていった。(345)

 

8/16 Wed

ロズニツァ『アウステルリッツ』、ポランスキー『水の中のナイフ』をみた。『ヒロインズ』に出てきたカヴァンの『あなたは誰?』と、『違国日記』最終巻も読んだ。違国日記は途中やや気持ちが離れたが、まあこういう作品があるのはいいことだというところに落ち着いた。

8/17 Thu

通話を繋げられる限りずっと繋いでいるので死にたくなる暇があんまりなくてありがたく思う。今のサーモンランは、ムニエールでトライストリンガー、オーバーフロッシャー、クワッドホッパー、ワイパーでやりやすかったので過去最高のでんせつ240までやった。あとは『カンポ・サント』や『夏期休暇』や『造形思考』をぱらぱら読んでいた。クレーのやり方はパターンを抽出するという点で、ベイトソンに似ているかもしれないと思う(勘)。

8/18 Fri

ここでの日記も一ヶ月ほど続いたが飽きてきてしまった。生理の存在によって否応なく周期性を意識させられるが、体調や気分の波と完全に付合するかと言えばそうでもなく、症状的には過敏性腸症候群という診断名がつくのだろうが自律神経やらストレスやらが原因だから根本的に治らない。U-NEXTでレンタルしたバーバラ・ローデンの『ワンダ』大変よかった。ずっと所在がなく男に頼る以外の何もできなくていつも泣きそうなぎりぎり感が切実で、これが監督とキャストが同じという私映画になっているから、陳腐にならずむしろ作品としてよくできたものだった。

8/19 Sut

あまりにも暑い。産婦人科で診察して薬を受け取る。入院・出産までできるところなのでちょうど生まれたばかりの子供を抱えて退院する人がいて、おめでとうございますと見送られていていた。生殖を望む人と既にした人と望まない人が同一空間にいることがいつも面白くややグロテスクに感じる。付き添っている夫も割と多い。滝口悠生『やがて忘れる過程の途中』、気軽に読めて楽しい感じの本はありがたい。しばらくもんじゃ焼きが食べたい!と騒いでいたが、今日食べたので満足した。もんじゃ焼きは店でしか食べれないし代替不可能な料理だと思う。sが中国の女スパイみたいな格好だったので、わ〜仕事終わりのスパイが休憩で大衆食堂にきてもんじゃ焼いてる〜と囃し立てながら焼いてもらっていた。sは嬉々として私にご飯を取り分けたりなにかと世話焼してくれるので、私は委ねきってすべてを任せている。

8/20 Sun

山尾悠子は二百冊くらいしか本を持っておらず、常に厳選して要らないと思えば売り払ってしまうのだと知り、私も今は無理でも老後は是非ともそうしたいものだと思った。今は1200冊くらい持っていて日々増えるので、到底無理なようにも思えるが。今日だって百均で使わないであろうシールやマステをこまごまと買ったりしていて、ミニマリストの対極である。

8/21 Mon

仕事で早起き。早く絶対に起きなければと思うと眠りが浅くなり、あんまり寝た気がしない。手帳界隈と勝手に呼んでいる人たちのSNSで手帳活用例(インスタで#ほぼ日手帳や#手帳の中身などで検索するとわかりやすい)を見るのが昔から好きで、インターネットを見始めたのもそれがきっかけかもしれないのだが、私はべつに既製品をコラージュしたような見栄えのよいページが作りたいのではなく、書きたいことや残しておきたいことをノートにまとめてうっとりしたいだけで、しかし根っからの面倒くさがりで美的センスがあるわけでもないため、自分の満足するやり方が掴めず、時折道具を買い揃えてノートを書いては飽きて放置するということをもう10年くらい断続的にやっている。今また書きたい波が来ており、inspic(スマホから手軽に印刷できる簡易プリンター)を買った。1.5万くらいしたので今回はすぐ飽きるわけにはいかない。カメラを向けられるのは苦手だが、写真の記憶力はよいので、いろいろ撮って残しておきたくなっている。五彩緋夏さんが亡くなってしまった。ときおりメイク動画を見ていたのでとても悲しい。

8/22 Tue

生理と気圧のパンチを食らっていて起きたときから心身の調子が悪いが、容赦無く仕事が降りかかってきたのでちまちまとやっていた。それだけ。

8/23 Wed

そこそこ切羽詰まった仕事がいっぱいきて嫌になっていた。プーランクのFigure Humaineをお風呂で歌ってたら少し元気が出てきた。脳内で再現できる曲が多ければ多いほどいいのでまた合唱をやりたい気持ちはある。

テネブレの"Figure Humaine - Bientot"

8/24 Thu

午後から出社し、新しく配属されたところの懇親会に出てみた。とはいえ普段の仕事で全然関わらない人たちなので、むしろ気楽に隅っこで人々の話を聞いていた。茅野として生きてる時間が長いし、会社で名字で呼ばれることのほうがなんだか違和感があり、そっちが仮の人格であるという感覚になりつつある。もう退職するような年齢の男性にクールビューティなどと評されたりして、これまでもわりとよくそういう感じで言われてきたが、これ年取ったらただ愛想の悪いとっつきにくいおばさん、になるんだろうなあと考えていた。入社以来、事務作業に次ぐ事務作業で楽ではあるがさすがにもうちょっと頭使いたいと思っているのだが、直属の人に話が通じる気配がなく、このままなら転職か…と考えはじめていたが、直属じゃない人は案じてくれていたようで、いろいろ掛け合いさえすれば転職しなくて済む気がする。それにしても趣味や休日に何してるか聞かれた時の正解が用意できなくて、ずっと困って曖昧に笑ってやり過ごしていた。

8/25 Fri

社交の疲れが出て家にいても外に出てもダメな気がしていたが、sとご飯食べてよくなった。トムヤムクンをいっぱい飲み、グァバジュースを飲み、お腹がたぽたぽになって、少し歩いた。いつも月の後半にかけて本が読めなくなっている気がするのだが、生理周期と関係ある?

8/26 Sut

家の中で手のひらほどの子猫が見つかり、必死に動物病院まで連れて行く夢、中学の時の音楽教師が実はちょっとずつ狙った人に毒をもっていて、それはある作品をもとにして行なっているのでは…?と推理し次の狙っている人を守ろうとする夢、などディティールがちゃんとあってストーリーも破綻していない夢を連続でみた。子猫は何度ももう死んでいるのではないか?と思いながら四角い箱に入れて運んだが、動物病院がダンス教室の上にあり、そのダンス教室は人が溢れかえっていてなかなか辿り着けず、しかも雨が降っていて、でもなぜか私の日傘(実際に使っているもの)が盗られてしまい、猫の方を預けつつ人ごみの中で日傘を取り返そうとするというような一幕もあった。カヴァンの『あなたは誰?』には、うだるような暑さと制限された世界で思考が止まってしまい、何を言われても自分のことのように感じられないような感覚がよく書かれていた。

8/27 Sun

また古本屋で色々と買い、荷物が重たい。雑多に色々と読むせいで欲しい本が多岐にわたっているため、買う本が多い。お祭りで人が多く、目当ての甘味処が臨時休みで心が折れ、別のところであんみつを食べたけど割と美味しくお腹が満たされた。sとバチェラー5をやんややんや言いながら見ていた。アマプラは早送りできないため最後まで見るには割と体力が要る。バチェラーの男が恋愛の相手を探すというより、家族となる人を見つけるみたいなスタンスで、家族家族うるさいなあと思う。sはというと、舞台となっているメキシコ特有の植生に最も興味を抱いており、男性が一人の女性を選ぶのが構図的に良くないと根本的なことを言っていた。

8/28 Mon

有給をとったので、平日昼間の雰囲気を満喫する。昨日の夜からやや涼しいかと思われたが、結局暑い。彼氏のたばこケースにパンダのシールを貼った。

一日の出来事のなかには日記にしか書けない事柄がたくさんある。日記に書かなければもう書き留められることはない事柄を、日記は言葉で留め置くことができる。一方で、日記には書けない事柄もある。時間が経って、多くの出来事が消え失せたあとで、その日をどうにか取り戻そうと願うように記される言葉は、日記とは別のかたちで出来事を記録する。そして小説は、そういう言葉で書かれるものだと思う。だから、ある一日を、ある出来事を、日記に書いてしまったら、もうそのことは小説のようには書けないような気がする。/滝口悠生『やがて忘れる過程の途中』283頁

8/29 Tue

『新潮』の日記号で、大森靖子の箇所を読んで、毎日大森靖子でいるというのはこういうことなのかと思う。高校からの友人と、小学校からなんと大学まで同じの友人とご飯を食べた。二人とも今月コロナになったらしく、よく咳き込んでいた。高校までの友人らとは会えばだいたい近況を話して、数年後結婚とかなのかね、みたいな話をする。結婚式に呼んでね!と言っておく。私が一人で出かけるとだいたい帰る時間にsは電話待機してくれていて、最寄駅に着くとすぐかける。今日もそうで、優しいなあいい声だなあと思い、友人というものは大事だがsがいればあとはどうでもいいやと思う。

8/30 Wed

特に書くことがないため、読んでよかった記事でも貼っておく。

【批評の座標 第9回】オブジェと円環的時間――澁澤龍彦論(七草繭子)|人文書院

23/8/29 「入間人間の手口がだいぶわかってきた」って何やねん - LWのサイゼリヤ

ソウルへ:旅中のメモ|河野咲子

成田先生感傷日記(8/18〜8/24)|匿名潟嬢姫

「失われた時を求めて」 対話的創造のほうへ 1/4 - オルフェウスの歌

日記というもの(日記)|丸田洋渡

8/31 Thu

インボイス制度のシステム改修があちこちで進んでいるのを日々見ているので、今から署名集めても止まらないだろうなあ…と思ってしまう。池袋西武のストライキも、アテネフランセストライキも、ネットでただ傍観する人になってしまう。『コードギアス 反逆のルルーシュ』25話まで一気見した。主人公が頭がよい作品が好きだ。

 

2023年7月の日記

※notionで書いていたものの転載

antique-bicycle-5ae.notion.site

7/14 Fri

仕事が比較的少なく、計4時間くらいで与えられたものを終えた。これは河野咲子さんの「走り書き日記」を読んで私もやりたい!と始められた。Notionに書く形式は丸パクリしている。いつも何かに触発されて中断していた日記を再開するが、またたぶん中断がある。図書館で『存在の耐えられない軽さ』を借りてきて、第三部まで読む。文はテンポのよい進みでわりと乾いた感じがするが、出てくる女が情念系のところがいい。クンデラが一昨日亡くなって、はじめて読んでみている。今下のゴミ箱ボタンにうっかり手が触れ、ここまでの文がぱっと消えて驚いた。おもにりゅうちぇるが自殺してしまったことと、ジブリの新作の話題で持ちきりのツイッターにまた疲れている。「お前が殺した」という言い方をする人を何人か見たが、(誹謗中傷はもちろんしてはいけないが)ではあなたはまったく死に寄与しなかったのか、なぜそう言い切れるのか、などと思ってしまう。ぺこちゃんたちが離婚するという発表をしたとき、すこし反感をもったのは、トランスであるかどうかなど関係なしに、あんなに仲の良さそうで完璧に見えるカップルにも、終わりが訪れることが私は悲しかったのではないか、と後付けで考えている。ジブリの方は一応近所の映画館の座席の埋まり具合を眺めるものの、見なかった。来週平日のどこかで見てみようか。自分はもう死んでいるのだと言表するという症状がでる、コタール症候群のことを知る。

走り書き日記、第2期(更新中)|河野咲子

7/15 Sat

テレザが技師との情事を始める前、丘で処刑志願者たちのもとに行き(トマーシュに丘に行けと言われ)、彼女も望みさえすれば処刑されるという場面がある。結局それは「あたしの意志じゃない」として見逃される。意志など関係なしに起こる恋と革命の小説のなかで、この場面は特別な印象を与えた。

sが家まで車で迎えにきてくれて、おうちに遊びに行った。猫はもともと部屋にいて最初ちょっと触らせてくれたけど、すぐどこかへ消えてしまった。とくに何をしたわけでもないのに時間が本当にあっという間に過ぎて帰りたくなかった。バーミヤンでお腹いっぱい食べた。初めて会った日に私たちは映画を見てすぐ解散したので、お腹の空いたsは一人でこのバーミヤンに来たらしい。そんなふうに最初の頃はお菓子しか食べてなさそうと言われたものだったが、好みの偏りはある(今日食べた酸辣湯麺は酸っぱいし麺類なのでかなり好き)もののわりとなんでも食べるという認識になったみたいだった。寂しい帰りたくないと言って、結局家までまた車で送ってくれた。家族の車が苦手で、もう4,5年くらいタクシーとバス以外の車に乗っていなかったけど、とくに酔わずおしゃべりしながら楽しく帰る。車に乗らないとみえない風景があって、外を眺めながら、昔見た、あるいは映画で見た車からの風景の記憶の話をした。

7/16 Sun

なんだか一日眠い。この日記の存在をツイッターでお知らせしたが、なぜかURLがantique bicycleだった。フランス語と英語のつづりが混ざっていて見た目にもよいし、古風な自転車と訳したときにも響きがよくて気に入った。

スタロバンスキー『透明と障害』の「誤解」の章を読む。ジャン=ジャック・ルソーはなんだかとても生きづらそうな人間である。かれは他者に理解されたいけど自分の望むような姿で理解されないことに苦しみ、書いて自らの望むように表現しながら身を隠す。その一方で、書いた言語によっても誤解が生じるため、相手の前にわっと縋るというような言語以前の身振りによって自己を表現しようとする。しかしそうした身振りのシーニュは、透明(誤解のない状態)が不可能であることを示すに過ぎない。また、「偶発的徴候」というプルーストを喚起させずにはいられないシーニュの類型があるが、植物などの自然物が示すシーニュは結局かれがその意味を判断するしかない。

常套的な人間の交流以上のものを求めたがために、かれは交流の不在に苦しむことをよぎなくされたのではないだろうか。かれに世界を告知するかわりに、そして他人の魂を明らかにするかわりに、かれ自身の不安を送り返し、かれ自身の過去に連れ戻すような徴候の網目にかれはとらわれてしまったのではないだろうか。こうしたことが、事実ルソーにとっては徴候の力だったのである。すなわち、徴候とは、かれを世界に近づけるかわりに、(ナルシスにとって鏡面がそうであったように)自我が魔術のように自己自身の反映の奴隷と化してしまう道具だったのである。(269)

スタロバンスキーの書き方は、ルソーの書いたものを忠実に解しながら読みとして創造的であり、とても面白いしこういうものを目指すべきなのだと、大学で言っていた教員がいた。Histoire du traitement de la mélancolie という著作も読みたい。

夜sとスペースを開いてしゃべった。スペースは誰が聞いてるかわかってしまうから、入りづらくてたぶんキャスより人が来なかったし、いつもの電話の感じで喋っただけだった。自分の声が好きではないのに、喋っているのを聞きたいというへんな欲望があるため、今度は録音する。

7/17 Mon

サマーエンジェルというすももがおいしい。母方の祖母が亡くなった。ずっと入院していて私は会っておらず、あまり実感はない。祖母とは食べ物の好みが近いので、このすもももたぶん好きなのではないかと思う。

sと『君たちはどう生きるか』を見た。説教くさいタイトルだなという印象で、中身も思ってたより説教くさかった。私はポニョの方が好きである。説教くささというのは作品の完結性が高かったということではないかと思っている。伝えたいことと書きたいことを全て詰め込みました!感が読み取れて、石を持って帰るというささやかな変容しかない。あとは、出てくる人間がすべて主人公の家族(婆たちも家にいるという意味では家族)でそれ以外のものが鳥だったので、男/女/動物という区別(序列)が、青鷺の存在はあれど、強かったような気がする。トトロやポニョは子どもが見てわくわくできる(移入できる)ように作られていて、対して風立ちぬは大人向けに作られていて、そしてこの作品は米津玄師やあいみょんを起用するというところからしても、いまの「若者」向けなのではないか(だから説教ぽいと感じて冷めてしまう)と思う。それはそれとして、目が疲れるほどに次から次へといろんなものが動く。最初の空襲(※サイレンなどの描写から反射的に空襲による炎かと思ってしまったが、正しくは火事でした)のシーンはもとより、夏子が車から降りるシーンや婆たちの移動、タブーの空間の白い紙のような何か、わらわら、そして鳥たち(なぜ青鷺とペリカンとインコに置き換えるのだ…というのはありつつ)の動きがすごいというだけで凄いアニメと言っていいのだろう。ところどころハリポタみたいだな(炎を媒介に暖炉を移動、回って崩落する階段、キングスクロス駅のようなはじまりの空間)と感じたが、アリスなどのこちら/あちらを行き来するファンタジー作品の象徴的なモチーフを使い倒すような気概だったのか。真夏の日に満員の映画館で人々がポップコーンを食べるしゃくしゃくという音を聞きながら(作品の音に言及するひとはこのポップコーン音に邪魔されなかったのだろうか…)、大作家のおそらく最後の作品をみる、という経験、はそうないのでよかったと思う。

7/18 Tue

わりとのんびり(時間的にというよりやったことのある作業なので負荷が少ないという意味でのんびり)仕事。でもなにかが確実に消耗してしまう。たぶん外気と冷房で体温調節がうまくいっていないのだけど、36.7〜37度くらいのちょっと高い体温が続いている。惚気でしかない話だが、sはとくに店で向かい合っている時などに、なんでこんなにかわいいの?と首を傾げていてそれがいかにも恋でおかしくなっている人のようで面白い。あと、素麺中毒者の私に感化されて結構な頻度で素麺を食べているのがおかしくてかわいい。彼が元カノから貰ったらしい愛用の万年筆を、それを愛用しているという事実が耐えがたくて私は売らせたのだが、手に馴染んだ筆記具を手放させるというのはなかなか酷なようで(耐え難いことに変わりはないが)すこし悪かったかもしれない、と万年筆に関するブログを読んで思った。しかし恋愛関係における私の権力の強さと加害性には自分でもうんざりするところがある。

神秘化、という言葉は、意味が一般に流通していないような独特の語法や語用をすることで、その意味を理解できる人が限られており、そしてわからない人から見たときにその語を発明したらしい人が権威のようにみえる状態さすのだと思っている。「精神分析はエディプスコンプレクスや自我/超自我エスなどの独特の語で神秘化されている」というような具合に。なぜこのことを考えたのか、発端となるテキストがあるのだが、まだちゃんと読めてないので読んでから書く。相変わらず散逸的で断片的な感覚しかなくて、この日記はそれらを統合する助けになるだろうか、とわずかな期待のもとに書いている。

7/19 Wed

芥川賞が「ハンチバック」に決まっていて、他候補を読んでいないがまあそうだろうなという感じだ。乗代雄介をはやく芥川賞の軛から解放してあげてほしい… そしてもうちょっと長めのものを書いてほしい。交換日記で過去の散々だったバイトの話を書いたら力尽きた。

7/20 Thu

ベッドの上には8冊くらいの本が散らばっていて、寝っ転がりながらそれらを次々にとっては次々に放り出している。お風呂での読書の集中度合いが100だとすると、部屋で読むのは30〜60くらいだ。空いている電車の座席が70〜80くらい。『火』『小説作法』『真理と方法Ⅰ』『青い麦』『迷宮遊覧飛行』『カフカ全集 日記』などを眺めている。ポケモンユナイトをまた始めてしまい、ニンフィア、ワタシラガ、サーナイトで連勝する。冷房はもういつからつけっぱなしなのかわからない。軽井沢でやっている荒川修作の展示を見た方が良い気がしているのだが、なかなか腰を上げられないでいる。

青葉市子の音楽は遠くへ連れて行ってくれるという点で、幻想文学と呼ばれる小説の一群と似たような効果を私にもたらす。「アダンの風」が出たとき、井辻朱美の「〈かくてわれらは死せるなり〉水のごとき風に目覚めて他生の記憶は」という短歌を連想したのだった。海辺の葬列、アンディーヴと眠って、妖精の手招きなどを神奈川県立音楽堂で聴いた。中高生の夏休みに毎年複数回行ったホールは、最近改修が行われ、席がよかったこともあり大変響きがよかった。かのじょは自然なようでいて音のコントロールが隅々まで行き届いているので、身体が馴染むと同時に緊張する。しかし昨日Plastic Treeが「痣花」をリリースしたので気持ちがそちらに引っ張られ、行き帰りはプラばかり聴いてた。

2020-12-13(風/他生の記憶) - よくわからない比喩

7/21 Fri

祖母の葬儀で早起きして車に乗る。とても眠い。『富士日記』の中巻をぱらぱら読む。カニ入り炊き込みご飯などが美味しそう。決められた段取りに従って時刻通りに次々と儀式が行われ、あっというまに骨になってしまった。祖父の家に行くと、壁にかかった年間のカレンダーの7/16にサインペンで黒黒とした丸が描かれていた。これからも続いてしまう祖父の人生がより良きものであってほしい。

7/22 Sat

ぐっすり眠る。sとpeople in the boxのライブ@ヒューリックホール。アルバムcamera obscura をすべてやり、残りは以前の曲で、新旧半々という具合。ピープルを聴いているのはここ3,4年のことなので、ファンらしい曲の受容(わあ〜この曲やってくれたというような)はあまりできないのだが、どれもいい曲だと思ったし、複雑なものにきこえるのにライブできいても思ってたよりはるかに音源に近い、という驚きかたをしてしまう。ピープルの歌詞は、いっけん無機的で抽象度が高く感じられるところがあるから、「きみ」とか「あなた」とか出てくると急にエモーショナルに感じてしまうということがあると思う。スルツェイの「ここは君の大きな傷口/辿り着いたよ//君が最期に笑う理由をみせて」など。スルツェイというのは、アイルランドの1963年に火山でできた無人島だ。マグマと海水が直接触れることで爆発的な噴火が起こり、これを例に「スルツェイ式噴火」と命名された。今回のアルバム曲では「戦争がはじまる」がよかった。ラン、ベイビー、ランというサビのフレーズがよく響いていて気持ちよかった。

7/23 Sun

部屋を片付けてゲームしてギターを弾いていたらもう日暮れになっていた。私に必要なのは習慣を作ってなにか習得するというより、人生におけるいくつかのプロジェクトを動かしていくという意識かもしれない。これまでわりと目的ありきで人生を進めてきた感触があり、それが大学生になって以降とくに目的もなく手当たり次第にやっているから日々の不満足感が拭えないのかもしれない。ただ、(報酬もないのに)やらねばならぬ、と思うと出来なくなるので、ねばならぬという意識をもたないままに着々と本を読んだり書いたりができるとよい(となるとやはり習慣にしたほうがいいのか…?)。ベルトルッチの「暗殺の森」を流し見。夜明けの青い画面が美しい。塚本邦雄全歌集(文庫)の第一巻をぱらぱらと。これ在庫あるうちに全巻揃えた方がいいんだろうな、と思うけど文庫という前提で値段を見ると躊躇うのだった。

7/24 Mon

ツイッターが滅びると言われてからなんだかんだと一年くらい持ち堪えているが、果たしてどうなるだろう。ここ五年くらいはツイッターでかなり人間関係を構築した気がするので、普通に寂しくなる。あと、検索エンジンとしてツイッターを使う場面が多々あり、人々の何気ない呟きからしか得られない情報をにアクセスできなくなるのは困る。このあいだは、サウナ付きラブホテルの存在を知り、セックスもサウナもこなす人はどれほどいるのだろう…と思って調べた。今月ははてなブログの方を更新できてないのに、過去記事をツイッターに貼ったこともあってか、なぞにPV数が1000を超えますます更新しづらくなってしまっている。この、いいねもつかなければアクセス数も見えない公開日記が気に入っていて、notionといういつ無くなるかわからないような(iPadで書いてるとちょっとカーソルの挙動があやしい…でも熱心に開発しているみたいだしそこそこは続きそう)ところに頼らず、自分でサイトを作ったほうが良さそうだと思うものの、その労力と費用を割こうとは思えず、結局安住しそうである。

7/25 Tue

「はやく一人暮らししたいけどお金使っちゃうんだよね〜」「何に使うの?」「服」「服にそんなに使う?どんな服?」「……ロリィタっぽいの」「え〜うさぎさん♡みたいな?」「………」と、なんとなく気まずい感じの非常に現実的な会話を高校の同級生と繰り広げる夢をみた。偽日記で知ったマルロドールちゃんの動画を見ていた。(わりと視覚偏重の思想・精神分析における)声の形象については、前からぼんやりと関心があり、あらためてここで紹介されている本を読んだ方がいいと思った。デュラスの映画、ドゥルーズカストラート(および、ドミニック・フェルナンデス)に注目していたことや、バトラーがアルチュセール的呼びかけを鏡像段階における主体形成に応用するアイデアを出していたことなど…… 。ここらへんのことは邦訳があったとしても絶版で(アンジューくらい復刊して欲しい本当に)、訳がないものが多いので頑張って読みたい……。買ったはいいものの全く読んでないKaja SilvermanのThe Acoustic Mirrorを、とりあえずちまちまと読もうとするが、忍耐との戦い。最初の三ページで今日は力尽きた。

7/26 Wed

めちゃくちゃ眠たいし頭痛いし全てのやる気がゼロ。ゲームばかりをするから調子が悪くなるのか調子が悪いからゲームばかりしてしまうのか。かろうじて風呂で『真理と方法Ⅰ』の第二章第一節を読み、それがめっぽう面白かったので何もできない日ではなくなった。ガダマーはベンヤミン扱っているものが類似していて、かつ論理立っているので副読本みたいだなあという感触を持っていたが、「ベンヤミンとガダマーがカルピスと水のような関係に思えてならない」という2012年のツイートを見つけ、思わずふぁぼをつけてしまった。たしかに濃縮度でいうとベンヤミンの方がすごいが、水で割ることで美味しくもなるという妙な説得性がある。これまで演劇にあまりピンときていなかったのだが、フィクション全般を考えるうえでとても重要な形式であることが急に理解できた。

演技者と演技を区別し、その区別があるからこそ演じて見せるということがあるとするのは、演技の真の存在のあり方ではないことがわかる。演技自身はむしろ変容なのであって、演じている者の同一性は誰にとっても存続しないものとなる。誰もが、いったいこれはなんのことだ、なにが〈意図〉されているのかと尋ねるのみである。演技者(もしくは詩人)はもはや存在しないのであり、あるのは彼らによって演じられていることだけである。さらにまた、もはや存在しなくなるのは、なによりも世界である。われわれ自身の世界としてそのなかでわれわれが生きている世界が、もはや存在しなくなるのである。姿への変容(Verwandlung ins Gebilde)というのは、単に他の世界の中へと入ることなのではない。たしかにそのなかで演技が演じられている世界は、それ自身のうちで閉じた、別の世界であるには違いない。だが、演技はそれがひとつの姿である以上、その基準をいわば自分自身のうちに見出しているのであり、演技の外部にあるなにものによっても測られることはないのである。(…)変容とは、真なるものへの変容である。それは、魔法にかかることとは違う。つまり、まじないを解いてもとの姿に戻してくれる救いの言葉を待っているといった状態のことではない。そうではなく、この変容そのものが、救いであり、元来の姿への変容、真の存在への変容なのである。(…)〈現実〉なるものは、さまざまな可能性をもった未来の地平のなかにある。さまざまな可能性、つまり、望ましい可能性、望ましくない可能性、いずれにせよいまだ決定されていない可能性の地平のなかにある。現実のあり方というのはしたがって、相互に相反する期待が呼び起こされ、しかもそれらのすべてが成就するわけではないという形をとっている。期待があまりにも大きいためにどうしても現実がそうした期待に遠く及ばないものとなるのは、未来が決定されていないためである。ところで、ある特別なケースにおいて現実の意味連関が完結し、かつ充実を見て、そこでは意味の流れが空虚なものに終わってしまうなどということがまったくないことがあるとするならば、そのようなものとしての現実はまさに演劇のごときものとなる。同じように現実の全体を、そのなかですべてが充実した実現を見る完結した意味連関として見ることのできる者は、人生そのものの悲劇と喜劇という言い方をするであろう。現実そのものが演劇として理解されるような、こうしたケースに即して考えてみると、われわれが芸術の演技として特記する演技の現実とはどのようなものであるかが浮かび上がって来る。演技とはなにであるかという意味では、いっさいの演技の存在はつねに約束の履行であり、純粋なる成就であり、自己自身のうちにテロスをもつエネルゲイアである。演技がこのようにして統一的な経過のなかで自己自身を完全に語り尽くすような芸術作品の世界こそは、実際にまったき変容を遂げた世界である。この世界を前にすると誰もが、〈このように世界は存在しているのだ〉と認識するのである。(159-163)

7/27 Thu

『真理と方法』もまた、プルーストの話をしているとしか思えず、ちょうどsから私の書いた「塔と象」についてのコメントをもらって、「真理」とはいったい何であるかをぼんやり考えている。第二章第二節で、目的を備えるまたそれを超え出るという点で、特権的な芸術形式として、建築術があげられているが、プルースト(か語り手)は、自分の文学作品を建築に喩えていたのだった。

7/28 Fri

違う星に飛ばされる夢。いちばん暑い時間に外に出る。ビルの片隅にある四畳くらいの空間にぎゅっと本が詰め込まれた古本屋で、『ハドリアヌス帝の回想』『未来のイヴ』『競売ナンバー49の叫び』『チリの地震』『幻獣の書』を計2000円で買う。sといるとよく古本屋に行くのでよく本を買っている。たこ焼きを食べ、『ハッピーアワー』上映会をする。初めて見たのは、2020年8月の文芸坐オールナイトで、ほぼ満員のスクリーンでひとりだった。見た時にすぐ感動するような類のものではないが(飽きずにずっと画面を見続けれれる凄さはわかる)、人生においておりおり参照したくなるような映画で、また見たいと思っていたもののなかなか映画館に足を運ぶのが難しく(なんせ5時間以上ある)、ついにブルーレイを買ったのだった。これをsに見てもらったことで、「あのテーブルを囲む気まずすぎる場面」や「重心ワークショップ」の話がすぐ通じるのが嬉しいし、何より目の前の人と話をすることについて共通の参照点が生まれたと思う。もともと私たちは言葉を使って関係することを重要視してきたし、これからもそうであろう。かのじょたちとその夫たちがどうしてもう手遅れの状態になってしまったのかという過程は、桜子以外あまり描かれないので、愛情深そうな純がどうして公平みたいな人にひかれ、冷え切るに至ったかはとても気になる。こういうのが「シスターフッド」という言葉で括られていたらあまりにもつまらないとsは言っていて、私も全くそう思うのだが、相変わらず私にはあまり友人がいないし、30歳を超えてからあのような出会いが本当にあるのかしら…とも思う。

7/29 Sat

古本屋で坂部恵『モデルニテ・バロック』を入手。来るべき引っ越しに向けてどちらかというと本を減らさないといけないのに増える一方である。炭酸を好んでは飲まないのだが、メロンソーダの人工的なメロン味が好きで、ドリンクバーで三杯飲んで舌を緑にしていたりした。クーリッシュのメロン味も気に入っていて、今年四つくらい食べた。

7/30 Sun

またU-NEXTのポイントを1200まるまる失ってしまった。質問箱を設けていると、一ヶ月に一度くらい「あなたの見た目はかわいくない」というような内容のものが入るのだが、これが同一人物によるものなのか、そしてインターネットに顔をそんなに晒しているわけでもないので何を見て言っているのかよくわからず、ただその執着とは一体…と不思議に不気味に思う。昨日は「かわいくなくてがっかりです」と入っていたので、勝手にかわいいと期待して勝手にそれを裏切られて要らぬ落胆を引き起こされて可哀想に…と返したが、それに「こいつ最低ですね」とリプライをくださった人がいて、ありがたいなと思うと同時に、ここで私自身が怒ることは、たぶんこのメッセージを入れた人間を喜ばせることになるだろうと思った。フェミニズム運動のスローガン?として「私たちは怒ってもよい」というのがあったが、私はこれに対して実感としてはあまりのれない部分もある。すくなくともツイッターのような場において発露される怒りは、結局どこにも届かずにただ消耗するだけのことも多い。それは自分にとって意味をなさないメッセージである(怒るまでもない)ということを示すことも時として重要だろう。『彼氏彼女の事情』に、「もし傷つくなら最初の相手は有馬がいいわ」というセリフがある。最初の相手というより、唯一の相手と私は読み替えたいのだが、情動をプラスの方向にもマイナスの方向にも動かしうる相手は限られており、そのほかが何を言おうとどうでもいいというような気高さを持っていたい。それはそれとして、私は客観的に言ってモデルのように容姿端麗とは言わないまでも、見ようによってはかわいいということもできるくらいのもので、実際に顔を知っている人に顔がよくないという前提の態度はとられたことがない。

7/31 Mon

夏バテを感じさせない旺盛な食欲をしていて、太るのが怖い。素麺中毒なので6食に1回は食べられないと禁断症状がでる。今年は桃もよく食べている。初京極夏彦として『魍魎の匣』を読み始めた。そうしたら著者17年ぶりの長編が出るというニュースがある。

 

2023-06-04

ひさしぶりに胴体に発疹が出て、疲れているのだなと思う。よく考えてみれば、入社以来驚くほどの閑さだったのに、5月になって急に忙しくなり残業も30時間程度あり(まあ同業種の他の会社に比べれば少ない方だろうが)その疲れも妥当である。このあいだ買った黒いかわいい服を着てデートへ。毎日通話を繋いでよく話しているけれど実際に顔を見たり触れられたりする距離にいることは重要で、講義も労働もなにもかもリモートでよいと感じるが、遠距離恋愛はできない。行きには、『ロリア侯爵夫人の失踪』というドノソのエロ小説を読んでいた。エロ小説かと思いきや途中から犬小説になった。いつも特になにか大きな目的があるでもなく外をふらふらと歩いたり、内に数時間こもったりしているが、この日はかれのお財布を買うという目的があって、それは達成した。前のお財布も五年くらい使っていたらしいが、次のもそれくらい使うのだと言っていた。私との関係よりもお財布との関係の方が長いのかもしれない。私がどうしても我慢ならないという理由で、ほとんど無理やり買い与えたのだが気に入ったようであるならばよかった。日が落ちた刻に外で座って喋っていると草陰からねずみが飛び出してくる、という同じことが違う場所でもう三度もあった。店で向かい合って座っている時より、隣に並んで歩いている時のほうが話しやすい。また満月を見て、解散して、一人になって駅のホームのベンチに座っていると、とつぜんお風呂上がりのようないい匂いのする女性に話しかけられた。スマホを見せながら話しかけてくるので、乗り換えがわからないのだろうかと予想しノイズキャンセリングイヤホンを外して聞いてみると、「正しい日本語どうしたらいい?」とLINEの画面を見せてにこにこしている。つまり意味が伝わるような日本語で返信するのを手伝ってほしいとのことで、かのじょの笑顔と真剣さをみるに、まだそこまで関係は深くないが好意のある人への返答としてどういった表現が適当なのかを考えたいみたいだった。それは日本語がある程度使える人間であってもむずかしい。そこまで語用の正しさにこだわらなくともだいたい伝われば良いだろうと、かのじょが喋っていたことをそのまま文字にしたのだが、最後にありがとう、おやすみなさいと言ったのでそう打ちかけたら、スマホを私から取り戻して、ありがとうの後に顔文字を加え、さらにふきだしを新しくしておやすみなさいを打っていた。共通した言語を第一言語としている者どうしでも私は言葉が通じないと感じてしまう場面が多く、だから言葉が通じること、やりとりそのものに楽しさを見出せる相手のことが好きになったが、どうも言葉のことを過信しているようでその態度が誤っているのかもしれないと思い始めている。「推しの子」の主題歌のアイドルを、インスタをぼーっと眺めていると日に何度も聞くことになるが、「愛してる」と言い続けることが私にとってもあなたにとっても真に聞こえ続けることは、本当に愛しているということなのではないだろうか。

塔と象

 


 こんな夢を私は思い出した。
 先の見えない薄暗い廊下を歩いている。なにか塔のような高さのある建物だがひとけはなく、コツコツという自分の足音だけが高い天井に反響している。歩き続けているとやがて分厚い布張りの扉の前にたどり着く。どれくらい歩いたのかわからないが、冷たい風がときおり吹き抜けるので身体の末端の感覚がうすれてきて、瞼も重たい。しかし私はこの扉を開けなければならないと思う。この扉をあける呪文を知っている。ひらく。そこは壁一面にたくさんの本が並べられた図書室のようなところであるとわかる。室内はわずかに明かりがついていて、私はそれをたよりに背表紙をながめやり、一つの書物を手に取る。



 私たちがプルーストの『失われた時を求めて*1に対してなにかを言うことを躊躇うとすれば、それはこの小説の長さそのものというよりも、その長さに伴う内容の綿密さに対して私一人の抱え切れる容量がとても足りないように思われるからである。プルースト一人が書いたにもかかわらず、私一人がその小説を受け止め切ることができない。そのように感じさせる力がこの小説にはある。その力はなにも『失われた時を求めて』に限らず、言語で書かれた小説と〈私〉というメディウムのすべての関係において本来あるはずだ。しかしこの小説は、語り手の〈私〉に私たちが長い間付き合わざるをえないために、〈私〉の読書体験としては特異なものをもたらしてくれる。ある芸術作品から人間は何を受け取ることができるのかという、あらためて問うと気の遠くなるような、しかし尽きるところ本当にそれしかないという問いを、まさに一つの芸術作品の中にプルーストは織り込んだ。『失われた時を求めて』には、画家のエルスチール、作家のベルゴット、そして作曲家のヴァントゥイユという架空の芸術家とその芸術作品が登場する。芸術作品を創出する人と、それを受容する人たちの姿を描くことでプルーストはこの問いを小説のなかで深めたのであった。ここでは、ヴァントゥイユの音楽について語り手たちが探究したこと、本質的にはそれが小説を読み、書くという行為であることが圧縮してなぞられる。音楽と同様にこの長い小説は時間芸術である。この短い文章で私たちは瞬間的にいくつものことを通り過ぎてしまうが、〈私〉におとずれた一夜の夢の啓示をともにみていただければよい。

 ヴァントゥイユの創った音楽には、ソナタと七重奏曲という二つの極があり、それぞれがスワンと語り手の姿勢に対応している。シャルル・スワンはある夜会でヴァントゥイユのヴァイオリンとピアノのためのソナタを聴いた。最初にその音の波の印象を受けたとき、スワンはまず未知の恋にも似た官能を受け取った。当時オデットに恋をしていた彼は、ヴァントゥイユのソナタの小楽節 petite phraseをふたりの〈恋の国歌〉とし、オデットにピアノでソナタを弾かせることもあった。「小楽節は、スワンにとっては、彼がオデットに抱いている恋につながりつづけていた。彼はこの恋が、外部の何物とも、彼以外の人によって認められる何物とも、照応しないものだということをよく感じていた」(1-397)。そのようにソナタをただ自分の恋と結びつけてうっとりとしていたスワンだったが、小楽節は彼にそれだけを呼び起こしたのではなかった。小楽節=リトルネロは彼に「一種の若がえりの可能性」を示した。彼はこんなふうにして老いていた。「これまでの長いあいだ、彼は生活をある理想の目的にあてはめることをあきらめてしまい、ただ日々の満足を求めることだけに生活を局限してきたために、もっとも自分の心にはっきり言いきかせてはいなかったが、そうした生活状態は死ぬまで変わらないだろうと思っていた、そればかりではなく、心のなかに高尚な考を抱かなくなった彼は、そうした高尚な考の実在を信じることもすでにやめてしまったのだが、さりとてまったくその実在を否定してしまうこともできなかった」(1-352)。スワンにとっての「失われた時」、彼の人生の若い頃に抱いていており、やがて諦めた「理想の目的」を思い起こさせたのがソナタの小楽節であったのだ。社交界や日々の生活や恋愛によって失われてしまった本来的な理想の目的、「高尚な考」とはおそらく、作品を読み解き、また創り出すことだった。スワンはフェルメールの研究家であったが、オデットとの恋のためにそれはしばしば中断され、フェルメールの絵画のあるデン・ハーグドレスデンに赴こうにもオデットのいるパリを離れられないのであった(1-596)。さらに、スワンはソナタそのものがどのようなものかというよりは、ヴァントゥイユの人生においてソナタがどのような意味をもっていたのかに興味をもつという、プルーストがそれに反論したことで知られる、サント=ブーヴ的な芸術への態度をとっていた。小楽節は、スワンに芸術の可能性をたしかに示した。しかしスワンにとって、小楽節はあくまでみずからの恋と結びついたものにしか捉えられず、作品の批評や創作へと力を向けることがなかったのである。
 一方、語り手もまたアルベルチーヌとの恋に振り回される日常を送っていた。私たちは『囚われの女』までにさんざん語り手の恋と嫉妬をみてきた。ヴァントゥイユの七重奏曲は彼の死後にヴェルデュラン家の夜会で発表され、そこに語り手が居合わせることとなったのだが、このとき語り手はアルベルチーヌの同性愛的関係を疑って悩まされていたのだった。夜会で演奏が始まると、語り手はまずあの小楽節を聴き取った。しかしその小楽節はソナタへと導かれるのではなく、未発表作品の七重奏曲に仄めかしのように入れられていたにすぎないことがわかる(8-436)。ソナタが臆病な試作でしかなかったと形容されるほどに七重奏曲は傑作であり(8-440)、そこには歴然とした差異がある。
 まず、ソナタはヴァイオリンとピアノの二つの音色から構成されているが、七重奏曲はその名の通りに七つの音色から構成される。この数の違いは本質的に重要だ。ソナタの二つの楽器は「対話」としてかけあう。「人間の言語を除去したこの対話は、隅々まで幻想にゆだねられていると思われるのに、かえってそこからは幻想が排除されていた、話される言語は、けっしてこれほど頑強に必然性をおし通すことはなかったし、こんなにまで問の適切さ、答の明白さをもつことはなかった」(1-593)。このように、音楽は人間の言語を必要としない対話だと形容されながら、しかしこのあとすぐにその二つの楽器の音色は「地上にまだ彼ら二人だけしかいなかったかのよう」、つまりヴァイオリンとピアノはアダムとイヴに擬人化されている。世界のはじまりの最小単位の数がソナタでは示される。スワンと関係するのはオデットだけであり、ふたりはふたりで閉じている。対して楽器数の増えた七重奏曲はより雑多に、「異なるさまざなの要素が、つぎつぎに顕示される」(8-440)。語り手はアルベルチーヌとだけではなくジルベルトとゲルマント夫人と花咲く乙女たちと、さらにアルベルチーヌはアンドレとヴァントゥイユ嬢と、それぞれに散らばりながら関係がある。そしてソナタは「一方は長く連続した純粋な一つの線を短い呼びかけによって切断」するのに対し、七重奏曲は、「散らばった断片を分割しえない一つの骨組につなぎあわせる」(8-446)。異なる要素が統合されるという七重奏曲の運動は、この小説自体の運動として捉えてよい。語り手はワーグナーの音楽を念頭に、作品自体のなかにもたらされる多様性が、「真に多様であるための唯一の方法による多様性であって、多様なさまざまの個性を結合するという方法」(8-273)によると述べている。小説作品内の多様性は、『人間喜劇』のように事後的に統一性を与えられる。七重奏曲のさまざまな要素が最後になって結合されるのと同様に(8-440)。ミシェル・ビュトールは七重奏曲と『失われた時を求めて』自体の成立過程を重ね合わせることができるという論を展開しており*2、いわく、プルーストが改稿を繰り返して作品が膨張していくにつれ、四重奏、五重奏、七重奏と置き換わっていったという。その真偽はさだかでないが、もしプルーストがより長生きし、全体を見通して最終稿を出すことができたなら、作品の冒頭に、本を読みながらうとうとと眠りに落ちるとき、その本の内容が頭にめぐったままの状況を「私自身が、本に出てきた教会とか、四重奏曲とか」になってしまったように思われると書き付けている部分を、「七重奏曲」に置き換えても不思議ではない*3
 ソナタと七重奏曲の差異はそのままスワンと語り手の差異になる。七重奏曲を聴いた語り手は、スワンとちがってそこに「アルベルチーヌの恋よりももっと神秘的な何か」を感じ取ったのだった。語り手にも恋や社交界があり、「卑俗な日常生活」(8-456)がある。しかし語り手は小楽節から受け取った啓示を、たとえばマルタンヴィルの鐘塔をまえにして抱いた印象を特徴づけるものとして、つまり事物を描写し小説を書くという営為につながるものとして捉えたのであった。

これであったのか、ソナタの小楽節がスワンにさしだしたあの幸福は?スワンはこの幸福をあやまって恋の快感に同化し、この幸福を芸術的創造のなかに見出すすべを知らなかったのであった。この幸福はまた、小楽節よりもいっそう超地上的なものとして、あの七重奏曲の赤い神秘的な呼びかけが私に予感させた幸福でもあった。スワンはあの七重奏曲を知ることができないで死んだ、自分たちのために定められている真実が啓示される日を待たずに死んだ多くの人たちとおなじように。といっても、その真実は彼には役立つことができなかっただろう、なぜならあの楽節は、なるほどある呼びかけを象徴することはできたが、新しい力を創造する、そして作家ではなかったスワンを作家にする、ということはできなかったから。(10-334)

 芸術から受け取った幸福を恋の方ではなく新たな創作のほうへと向けること、真実の啓示を受けること。スワンの歩めなかった道を語り手は歩むことになるだろう。もちろん、恋は芸術と真逆の道を示すただの邪魔物なのではない。そうであればこの小説の中でこれほど恋愛に関する記述が多いわけがない。ただ恋愛に関する心の動きが芸術の甘美さに似ているために、恋愛はその先にある真実の手前で人を立ち止まらせてしまうことがある。もし真に芸術へと自らを向けることができたならば、恋愛すらも芸術の糧になるだろう。語り手は拡散する人間関係ととりとめのない嫉妬のなかで、芸術的創造への道を見出したのだから。

 手に取った一冊の本。そこには何か暗号めいた未知の文字が書き付けられている。私には読みとることができない。しかし、これがしかるべき方法で読めばしっかりと意味のわかる文字であり、この書物にはきっとなにか重要な、世界の真実が書かれているのであろうことがわかる。指で文字をなぞると印刷の凸凹した紙の表面が感じられる。この場所に辿り着いた人間、さらにこの本を開いた人間が私の他にいるのだろうか。いないとしたら私はこの文字たちをいつか解読し、その読み方を記しておかなければならない。この夢はいずれ消えるだろう。しかしこの文字は私の夢を覚えていて、いつかの私にここであったことを教えてくれる。

 ヴァントゥイユの遺稿である七重奏曲の解読作業を行ったのはヴァントゥイユ嬢の女友達であった。その解読作業とは、ヴァントゥイユの遺した楽譜が読めないほど粗雑であって、それを根気よく清書したというような類の話ではおそらくない。ヴァントゥイユは当初ソナタしか残さなかったと伝えられており、「その他のものは、存在しないも同然の、判読できない記号のまま」であったとされていた(8-457)。その判読されないために存在しないとみなされていた記号に解釈を与えること、「誰一人知らないその象形文字Hyérogriphe)の確実な読みかたを決定」することが、ヴァントゥイユ嬢の女友達ひとりの成したことであった。語り手と読者の私たちはここで、ヴァントゥイユ嬢とその女友達が同性愛的な関係にあり、もう亡くなったヴァントゥイユの写真に向かって唾を吐きかけ、彼を冒涜してしまうという場面(1-274)を思い出す。ヴァントゥイユ嬢の女友達としか言われない彼女は、そのような冒涜的なおこないの償いとしてヴァントゥイユの遺稿を世に出すという仕事をおこなったのかもしれない。彼女の匿名性*4と償いとしての創造という点においては、語り手との重なりも指摘できるところだろう。なにより恋愛(=メゼグリーズの方)から芸術(=ゲルマントの方)への道を示したこと、それが名のない彼女が音楽を通して語り手に成したことである。
 そんな彼女が解読した未知の記号が、「象形文字」とやや唐突にも思えるものに喩えられていることに注目しよう(岩波文庫吉川一義訳ではただ「判じ物」とされているが、ここではヒエログリフの訳を象形文字とする)。音しか表さないアルファベットの組み合わせで意味を表出している文化圏の人間にとって、ヒエログリフとは文字そのものがある事物の形をしており(たとえばエジプトのヒエログリフだと、ハゲワシや葦の穂が文字の形となっている)、意味を伝達することができるという点で特異なものである。アルファベットと異なって象形文字は、文字自体が時間と記憶をもつ。ヴァルター・ベンヤミンは、『ドイツ悲劇の根源』において十七世紀のバロック劇について書くなかで、アレゴリー象形文字だと言っている。

啓示された言語については、それがいささかも自身の尊厳を失うことのないような生き生きとした自由な使用を、矛盾なく考えうるのに対して、この啓示された言語を表わす文字――アレゴリーはそのような文字として振舞おうとする――の方は、そういうわけにはゆかない。文字の神聖さは、その厳密な体系的集成という考え方と不可分である。なぜなら、神事に関わる神聖な文字はすべて、さまざまな複合体のうちに固定化され、これらの複合体は、究極的には、唯一にして普遍の複合体をなすものとなる。[…]この神聖な複合体は象形文字のなかに刻印される*5

 ここでベンヤミンがいわんとすることは、文字そのもののなかに神の啓示による言語の使用法が秘められており、象形文字(=聖刻文字)はその体系をなしているということである。そのような象形文字で書かれた書物には、おのずと世界の真理が宿るだろう。私がここでベンヤミンを導入したのは、彼のいうアレゴリー象形文字プルーストの喩についてのことだと考えられるからである。プルーストの喩については、ジェラール・ジュネットの「プルーストにおける換喩」や、保苅瑞穂の「プルースト 印象と隠喩」などすでに多くの文章が書かれており、彼の小説の根幹に関わる方法として紹介されている。「隠喩の発見は、言葉による事物の再生*6」である。小説という営みにおいて、事物と私と言葉はいかなる関係を結んでいるか。ここでは有名なマルタンヴィルの鐘塔の場面を取り上げよう。
 語り手の〈私〉は、馬車に乗りながらマルタンヴィルの二つの鐘塔とその背後にあるヴィユーヴィックの鐘塔をみる。動いているのは〈私〉の方だが、私は「鐘塔の線の移動、その表面にあたっている夕映」をみとめ、「何かがこの運動の背後、このあかるさの背後に存在する、それらの鐘塔はその何かをふくみながら同時にそれをかくしているようだ」と感じる。やがてそこを通り過ぎ、日は暮れて鐘塔も視界から外れたが、私は「私の鐘塔を思いだそうとした」。そして、「マルタンヴィルの鐘塔の背後にかくされていたものは、いくつかの語の形(la forme de mots)で私にあらわれ」、それらの語は私に快感を起こさせ、揺れる馬車の中で私は短文を書きつけた。そのとき書かかれた短文は括弧をつけた引用の形でそのまま連なる。「それだけが、平野の面から高く、ひろびろとした野原にぽつんと迷いこんだ形で、マルタンヴィルの二つの鐘塔は、空にのびていた。まもなく私たち(nous)は鐘塔が三つになるのを見た、すなわちおくれて加わったヴィユーヴィックの一つの鐘塔が、大胆な一旋回で、二つの鐘塔のうしろ正面に位置を占めたのであった。時刻は過ぎてゆき、私たちは早く進んでいったけれども、三つの鐘塔は相変わらず私たちのはるか前方にあり、平野におりてじっと動かず、日があたって目立つ三羽の鳥のようであった〔…〕」(1-302)。 
 つまりここでは、まず小説の地の文として語り手の私が鐘塔を見たという事実と、すでに視界から消えた鐘塔の印象は「いくつかの語の形」として私に現れたということが順に語られる。読者はそこまで読んで語り手の私に起こったことをすでに把握しているが、小説的線状時間の流れたのちに、実際に〈私〉がその馬車の中で書き起こした文章が事後的に引用されることによって、書かれた鐘塔と時間と私が層をなしていることがわかる。この二つの層の文章は〈私〉という同じ人物が書いていて、読者の私たちはそこに分裂と統合を見出す。二つの鐘塔を見ているとやがて三つ目の塔が現れたり消えたりする運動のように。三つの塔を「日があたって目立つ三羽の鳥のよう」だという直喩ももちろん喩の一部ではあるが、私たちはこの時間をかけた小説の運動全体を契機づけているなにかを喩と呼ぶべきだろう。喩は「語の形」として私にあらわれ、私はそれをひとつながりの文章にしてやる。語り手にとっての〈探求〉は、この喩をいかに解読し、表現するかにつきるといってもよい。刻々と景色の変わる馬車に乗った〈私〉と、その場で文章を書きつけた〈私〉と、のちにその時のことを語った〈私〉と、さらにもっと後にあれが作家としてのはじまりだったと振り返る〈私〉は、それぞれが視点の異なるモナドとしての〈私〉たちである。一方で〈私〉は形式において一冊の本にまとめられ、ある統一性をもってもいる。そうした〈私〉の分裂と統合をなしているのが喩なのである*7
 語り手は鐘塔を見る場面の前に、「自分が文学にたいする素養をもたないこと、いつか有名な作家になるという望をすてなくてはならないこと」を嘆いていた(1-298)。そんな悲しい散歩ののちに、事物の発する啓示をわずかに感受できた体験として、思わず書きつけたマルタンヴィルの短文が現れるのだから、この短文はかれの小説家としてのはじまりの地点として位置づけられる。そのとき語り手が感じていた馬車の揺れは、煩わしくも書くために必要だった。それは喘息のリズム、あるいは敷石につまづいた際のよろめきにも似たようなものではなかっただろうか。 
 そして、そのリズムが引き出したのはなんであったか。事物とその印象――散歩で摘んできた草花とか、日ざしを浴びていた石とか、屋根とか、鐘の音とか、木の葉の匂いとか(1-300)——は、ふつう私の中に滞留し死んだままとなっている。それらを生き返らせること、いまの私に感じ取れるかたちとして書き起こすこと、それが〈私〉のはじまりの地点であった。ものの側に具体的な形や意味があり、人間はそれに一つの解釈を与えるにすぎない。というより、人間はその素材としての記号が発しているなにかをただ感じ取り、人間としての表現の仕方にあらためているにすぎない。小説は、人間よりも長生きする。無意志的記憶とはまさに、人間の知性によるのではなく、素材によって否応なく引き起こされる記憶の想起の仕方を示す言葉である。しかし一方で〈私〉は、「意志の力が十分でなかったために」(1-300)、書くべき現実を発見できないでいたと語っている。マルタンヴィルの鐘塔によって引き起こされるのは記憶ではない。物や風景といった素材が発する何かによって触発されたのだとしても、そこに私の能動性が加わらなければ鐘塔についての文は書かれることがない。書かれるべきことは事物の側にあるが、私たちはそれらを解読し、人間たちのわかるような形に改める。フロイトは『夢解釈』で、「夢内容のほうは、いわば象形文字(Bilderschrift)で書かれているから、その記号の一つひとつを、われわれは夢思考の言葉へと移し換えられなければならない*8」と書いた。絵であり文字でもある象形文字は、夢の内容とその思考を繋ぎうるシーニュである。そして〈私〉がそれをどう翻訳し、解釈するかという問いは、プルーストが、ベンヤミンが、フロイトが、ドゥルーズがたてていた共通の問いである。ドゥルーズは、『プルーストシーニュ』においてアンチロゴスとしての象形文字について着目した。

存在するのはロゴスではなく、象形文字でしかない。思考すること、ゆえにそれは解釈すること、ゆえに翻訳することである。諸本質は同時に翻訳すべき事物であり、翻訳それ自体であり、シーニュと意味である。諸本質は思考するように私たちを強いるためにシーニュの中に巻き込まれ、必然的に思考されるために意味の中に繰り広げられる。いたるところに象形文字があり、その二重の象徴は出会いの偶然と思考の必然なのだ。すなわち「偶発的にして不可避」*9

 私が主意的に思考するのではなく、私に否応なく思考を強いるシーニュが存在している。そのようなシーニュの総体であるところの小説を読むことで、私はシーニュたちの意味の交通に巻き込まれ、そして私が介入したことで変化した流れにおいて新たなシーニュが生まれる。象形文字の解読者となることは、そのシーニュとの偶然的な出会いにおいて、これしかないというような固有の表現を探り当てられるようになることである。そして解読した痕跡をいつかの〈私〉のために残しておくことこそ、書く生き物としての私たちの仕事なのだ。
 ここまで象形文字アレゴリー-喩-絵文字-シーニュというそれぞれの思想家のタームを用いつつ、その連関と共通性を示してきた。プルーストに戻ろう。さて、七重奏曲を聴いた場面から離れ、ある重要な場面で象形文字は再登場する。『見出された時』において、語り手が一つの芸術作品としての小説を書くと決心した場面である。

たとえば、雲とか、三角形とか、鐘塔とか、花とか、小石とかを私はながめていた、そしてそれらの表徴(signe)の下には、自分が発見につとめなくてはならないまったくべつのものがあるだろう、と感じていた、そのものは何かある思想にちがいなく、雲や鐘塔や小石は、人にはただ具体的な事物しかあらわしていないと思われるあの象形文字のような形で、その思想を翻訳していたのだ、ということを。いうまでもなく、それの判読はむずかしかった、しかしその判読だけが、何かの真実を読みとらせるのだった。というのも、理知が白日の世界で、直接に、透きうつしにとらえる真実は、人生がある印象、肉体的印象のなかで、われわれの意志にかかわりなくつたえてくれた真実よりも、はるかに深みのない、はるかに必然性に乏しいものをもっているからだ、ここで肉体的印象といったのは、それがわれわれの感覚器官を通してはいってきたからだが、しかしわれわれはそこから精神をひきだすことができるのである。(10-335)

 すなわち生活の中にある象形文字たちを判読することが、〈私〉にとっては書くことであり、生きることである。それはいうまでもなく、難しく、時間のかかることだ。けれども、その難しさに立ち向かおうとしなければ、きっと生命はただ朽ちてゆくばかりでやがて誰からも忘れられてしまう。「見出された時」が出版されたのはプルーストの死から五年後のことである。ヴァントゥイユの作品が死後になって解読されたように、私たちもまた『失われた時を求めて』を解読する。「われわれの文字で跡づけられるのではなくて、象形的な文字であらわされた書物、それこそがわれわれの唯一の書物である」(10-338)。

 私は再びあの塔のようなところ、そのなかの一室、そのなかの一冊の本にたどり着くことがあるだろうか。「人間というのは、生きた竹馬にとまってその生涯を送り、その竹馬はたえず大きく成長してゆき、ときには鐘塔よりも高くなり、ついには人間の歩行を困難にするばかりか危険にしてしまって、人間はそこから突然転落する」(10-634)。本の最後に書き付けられたこの文章は、これから私がその塔よりもっと高いヴィジョンをみることも、あるいはそれをみないままに死ぬかもしれないことも示している。突然そこから落ちたとき、それまでに触れ得たものたちや抱いた印象や感情を取りこぼしたとしても、いつかの夢で私はまた思い出すだろう。

 

 

*1:失われた時を求めて』の引用はすべて、井上究一郎訳のちくま文庫からおこない、文中の丸括弧内に巻数–頁数を示す

*2:ミシェル・ビュトールプルーストにおける架空の芸術作品」『レペルトワールⅡ』、石橋正孝監訳、幻戯書房、2021年

*3:Cf.ジャン=ジャック・ナティエ『音楽家プルースト』、斉木眞一訳、音楽之友社、2001年、167頁

*4: 匿名性ゆえか、ベケットは彼女を女優レアと勘違いしている。サミュエル・ベケットジョイス論/プルースト論』、高橋康也ほか訳、白水社、2020年、185頁

*5:ヴァルター・ベンヤミン『ドイツ悲劇の根源』下巻、浅井健二郎訳、ちくま学芸文庫、1999年、46頁

*6:保苅瑞穂『プルースト 印象と隠喩』、筑摩書房、1982年、162頁

*7:吉本隆明は、「言語にとって美とはなにか」において、散文における描写について、場面の選択→言葉による場面の転換→さらに高度に抽出されたものとしての喩という表現の段階があると言っている。喩は書かれた事物と書かれた私と書く私の結び目としてある。Cf.吉本隆明「言語にとって美とはなにか」『吉本隆明全集8』、晶文社、2015年、103-146頁。また、そのような喩を用いた小説の〈制作〉について強力に論じたものとして、山本浩貴+h「新たな距離 大江健三郎における制作と思考」(『いぬのせなか座1号』いぬのせなか座、2015年)がある。

*8:ジークムント・フロイトフロイト全集5』、新宮一成訳、岩波書店、2011年、3頁。また、ベンヤミンプルーストの無意志的記憶について述べるとき、ベルクソンだけでなくフロイトにもふれている。Cf.ベンヤミンボードレールにおけるいくつかのモティーフについて」『ベンヤミン・コレクション1』、浅井健二郎編訳、ちくま学芸文庫、1995年、426頁

*9:ジル・ドゥルーズプルーストシーニュ』、宇野邦一訳、法政大学出版局、2021年、135頁。フロイトドゥルーズの「象形文字」のモチーフの共通について、以下の文章が参考になる。小倉拓也「ヒステリー的身体の二つの形象性:ドゥルーズフロイト」『思想』(No.1167)、岩波書店、2021年、106-122頁

2023-05-06(ポンヌフ/一晩中/読んだ本)

日が落ちているのに明るくて夜明けみたい、とか話しながら満月に近い夜の湖にかかる橋を歩いていて、世界がこれで終わったらいいのにと『ポンヌフの恋人』を思い出しながら思っていた。四月は後半から思いがけず強制出社させられ、しかしそこに全く合理性がないためにストレスすぎて鬱々とし、勝手に在宅にして(こういうそこまで支障のなさそうな感じのちょっとしたズルでなんとかやり過ごしてきた人生だったと、高校のときたまに保健室で眠っていたのを思い出す)、母親や彼氏からよくケアされ、結局さいしょに予定されていた出社日の半分くらいで済みそうだった。出社によるストレスがどれくらい作用したのか、あるいはアケルマンの『一晩中』を隣で見たことがどれくらい作用したのか、恋の終わりを想像してそれならばいっそ積極的に破壊するかあるいは死んだ方が良いなという(何度か通ったことはあるが普段は忘れてしまっている)思考に辿り着き、危なかったこともあった。こういうことを繰り返してやがて疲れ呆れられて見捨てられるのだろうと、はっきりと見捨てられた経験はないのにその不安だけを抱えている。しかし、靴擦れして痛いとトゥートすれば絆創膏を買ってきてくれ、低血糖ぽくなってちょっと具合悪くなってたらその対策として次に会うときにはグミを持ってきてくれ、これが愛でなかったらなんだろう。今年のテーマは自立で、付き合う前から依存しない恋愛関係を目指したいなどと話していたが、たぶん既に無理だろうし、会っている時だけが生でありそれ以外は苦痛でしかないというように感じる。しかし現実的にずっと会っていることはできないため、気を紛らわすために本を読んだり食べたりすることになる。というわけでまた最近読んだ本のことでも書く。

市川沙央「ハンチバック」:力のある小説だった。一人称小説を読むことはその語り手の目を借りることで、その目がぼんやりと自意識が薄くて鈍いと私は苛々して読めないということがままあるのだが(いまぱっと思い浮かべるのは川上未映子の『すべて真夜中の恋人たち』とか千葉雅也の『デッドライン』とか)、これはそうした鈍い人とは真逆の人の目の小説だ。

野溝七生子曼珠沙華の」ツイキャスで音読した(30分以上かかった)。野溝七生子はここにも何度か書いている通り、とても好きな作家で、短編だとやはりこれが最も好きである。小林美代子とか、家父長制のきつい日本社会でまともであった結果狂女とみなされる系の話は、幻想の括りにしておいては勿体無いしもっと読まれていい。

大江健三郎『芽むしり仔撃ち』:キャリア初期の中編だがあまりにも小説としての形式的な完成度が高く、こうしたものを書いてしまってからそれでも書き続けて、小説を解体しつつ作り直し『水死』のようなところにたどり着いたのは、やはりあまりにも重要で特異な作家だったのだなと思う。少年たちの村への閉じ込めから解放(追放)までをきれいに書き切っていて、ちょうど最近出た村上春樹の『街とその不確かな壁』とその原型となった『世界の終りと〜』と、閉鎖空間系小説として比較したらなんか大学の期末レポートみたいなの出来上がるのでは、と思ったけど、『街と〜』は図書館の予約200人分くらいを待ってから読むしその頃には忘れていそう。『世界の終り〜』はaudibleで再読(聴)した。プロット自体は面白いと感じるけど、大筋にはそこまで関係ないところで小説の豊かさを演出するものがすべて女性関係に終始するので、単純にまたそれ?と思ってしまう。大江から逸れたけど、いま『晩年様式集』を読んでいるし、いずれ全作品読むだろうと思う。

『分析フェミニズム基本論文集』:清水晶子が「フェミニズムの主体は女性である」というところからやはり考えた方がいいのでは的なことを言って、青本柚紀がそれに反論していて、「女性」ということで何を指すか、だれが含まれていないかを考えるべきみたいな、もう忘れてしまったがともかくそのようなやりとりhttps://docs.google.com/document/d/1Nt6pbH5J3Bfld0-vm9cih-kqW9Ou3kgZawduAbZfiTI/mobilebasic をぼんやりと見ていた時、私は「フェミニズムの主体は〇〇であるという文の作り方がそもそも誤っている/このあたりの話は分析系だと議論が進みやすいとのかと思うが、私はあんまりここに興味がない/バトラーのみに依拠しているから起こる議論が多すぎる」などとツイートしていた。それでこの本を読んでみても、このツイートをやっぱりそうだと補強するような感想になってしまった。上記の論争?については第一章と二章を読めば、何が問題となっているかがわかると思う。二章のキャスリン・ジェンキンズ「改良して包摂する ジェンダーアイデンティティと女性という概念」では、まさにフェミニズムの担い手として「女性」といったときにいかにトランス女性が周縁化されてしまっているか、が問題として扱われていて、ジェンキンズは「女性」という語を階級の意味では使わず、ジェンダーアイデンティティの意味に限定して使うべきだと主張する。そして女性のジェンダーアイデンティティとは「生物学的生殖において女の役割を果たす証拠とみなされる身体的特徴を備えていることに基づいて従属させられている人が、そういう人に特有の社会的・物質的現実を切り抜けていく指針となるように、内的な「地図」が形成されている、ということ」(68頁)であり、女性としての規範を受け入れているかどうかではなく、その規範が「自分と関連していると捉えるか」どうかに力点がおかれる。この定義によって主観的要素も客観的要素も考慮でき、トランス女性の現実を反映しやすい。
分析フェミニズムの議論はかなり重要だし、この二章以外でもなんだかツイッターで見る議論ともつかない何かに対する処方箋として有効な観点が多いのでみんな読んだ方がいいけど、私としてはやっぱりそんなに興味がなく知りたいのはもっと根本的な身体と言語の関係だなと思った。ちなみにこの本に関する思い出として、sに初めて会った時に、本屋で若い女性が「重要そうな本みつけた!」とこの本を手に取って連れ合いの女性に話しかけており、私たちはふたりでほうと思ってその女性が離れたあと手に取ってみたということがあった。

アネマリー・モル『ケアのロジック——選択は患者のためになるか』:ケア論流行っているらしいし一通り知ってみるかという心持ちのもと、sの書いているものがそのあたりに近いところで関連書籍をいくつか持っていてちょうどよかったので、借りて読んだ。読んでると糖尿病が怖くなってくる(私はどう考えても甘いもの食べすぎだし血糖値のコントロールがうまくいっていないだろうというのは感覚的にあるので本当に怖い)が、糖尿病のような永続的なケアを必要とする病気に対しては、患者の意志に任せられる選択のロジックではなく包括的なケアのロジックが有効ですよね、という話。ケア論は私が冒頭で書いていたような自立/依存の関係に対して、根本的に人は誰かや何かに依存しているものという前提に立って見方を提示するもので、その重要性はわかるのだが、こういう医療の現場での具体的な話はともかく、特に文芸批評あたりで「ケア」と言ったときのぼんやりとしたなんか良さそうなものという域をでない話にはあまり面白みを感じていない。

岡本裕一朗『ヘーゲル現代思想の臨界』:これはツイッターで見かけた評判通り、ヘーゲルが何を言っていたかとその後にどう解釈(曲解)されたかが丁寧に書かれていて勉強になった。ポストモダニズムの「差異の承認」にヘーゲルの承認論が用いられるのはおかしい(なぜならヘーゲルは共同性や統一性を志向する意味でしか承認を用いてないから)、など「ヘーゲルはそんなこと言ってない」的な誤用を教えてくれる。GWだし何か大物をということで『精神現象学』を読んでいるが、序文を読んだら割と満足してしまい上巻の真ん中ほどで飽きている。今のところそこまでわけわからないということもなく、むしろなんかずっと同じようなこと言っているなという飽きである。媒介とか媒質といったときに、基本的にはまず神と人間の媒介であるキリストのことが念頭にあるのだということが、つい抜け落ちてしまうことがある。ではユダヤ系の思想で媒質ってなんでしょう、ということはベンヤミンとかを読んでいて思うこと。またちゃんと読んで書きたいが(ちゃんと読んだ本ほどここに書いていないのだが)スーザン・A・ハンデルマンがそこらへんのことを書いていて、私はこの人の書くことにとても興味がある(ここまで私はさんざん他の本に対して興味を惹かれないと書いてきたけど、興味のある本の存在もありますよ)。(https://kayahiyu.hatenablog.com/entry/2020/08/27/225629)

工藤顕太『ラカンと哲学者たち』:ウェブ連載をまとめたものなので一章ずつが短くさくっと読める。精神分析の問題圏と有効性がわかりやすく示されていて、良い本だと思う。

水沢なお『美しいからだよ』最果タヒサブカル要素を薄めて文学要素(この雑な対立を許して)を濃くしたみたいな感じがする。まあこういうのどちらかと言えば好きなのだけど、何となく甘い自己陶酔の感じの表現に対して、それでいいのだっけとは思う。松浦理英子はかなり昔のインタビューで、どういう官能性を求めていますか?という質問に「月明かりの下のナイフの光沢のような硬質なぬめり。傷だらけの皮膚のぎざぎざ。不協和音。焦げつき。繊維のよじれ、引きつり。垢。」と答え、さらに求めていない官能性とは「生温かい液体。月見酒の酔い。バイクによる暴走。大食美食。新体操的アクロバット。腐る寸前の果実。優雅な曲線。こういう感じで書けば褒められるんでしょうけど」と言っていて、ああなんて良い回答と思うのだけど、「こういう感じ」で書かれて褒められているものは確かにたくさんあるし、私の好むものとしても前者のようなものである。耽美だけどどこか醒めているもの。

 

それにしてもこれ書くのにたぶん三時間くらいかかっている気がするのだけど、この浅さで何か書くならその時間で新たなものを読んだ方がいいのではないかとどうしても思ってしまい、しかしもう少し深く書くならあと五倍くらい時間が必要でその労力を割けないので、本読むことがやっぱり時間潰し以上の何かにはならない。

2023-04-07(チャパーエフ/模倣された幻影)

四月に入って仕事があるかと思いきや、おおむね暇な一週間だったので、さいきん読んだ本のことでも。
チャパーエフと空虚/ぺレーヴィン:年末あたりに『巨匠とマルガリータ』を読んだとSNSにあげたところ、ぺレーヴィンもいいよ!とすすめてもらった。おなじみ、やくしまるえつこ選書リストにはいっていたので気になってはいた。たしかに現実と虚構の織り混ぜ具合が似ていて、魔術師的な人物が出てくるところと、ユーモアで政治批判をするところも似ている。ロシアの村上春樹!と見返しなどにもでかでかと書いてあるのだが、これが村上春樹くらい売れるロシアってすごくない?と思う。わけわからん日本文化の屋敷みたいなところに行って、さんざん酒を飲んでいい気分になるが、よくわからないまま相手が切腹するから介添人をしてくれ!という流れになって必死に逃げ出そうとするも門番に阻まれる、みたいな本当に悪い夢としかいいようのない場面がいっぱいあって楽しい。あと、ロシア語でベーグルが娼婦の隠語的に使われることを知った。今週はよく夢をみた。
〈責任〉の生成/國分功一郎、熊谷晋一郎:このあいだ『ケアの倫理とエンパワメント』を読んだ時に、中動態の話がちらっと出てきて、そういえばこんな本話題だった(2020年刊行)なあ、と思い図書館で借りてきた。國分の中動態本は私は2019年に読んだらしいが全く何も覚えていない。ケアとか中動態とか、なんとなく良さげなマジックワードっぽいものに対する警戒心があるのだが、「中動態は救いではない」(148頁)と釘をさしているところがあり、著者もさすがにそこまで考えてないわけではないのだと思い直した。ASDの人は、そうでない人が適度に物事をカテゴリー化して処理するのに対して、〈この〉性が強く感じられてしまうためにうまく対処できなくなるというのは、そうなんでしょうねと納得できるところである。アレントの『精神の生活』を読みたい。そこでは意志の概念の起源を、パウロの「ローマ人への手紙」の律法のくだり(つまりキリスト教哲学)としているらしい。この本にはスコトゥスについての記述があるとツイッターで前教えてもらってそれを確認できないでいる。
臈たしアナベル・リイ、総毛立ちつ身まかりつ/大江健三郎:あまり順序気にせず手に入ったものから読んだ結果、水死→万延元年→取り替え子→アナベル・リイの順に読んでいるが、こうすると自然に水死を読み返したくなってくる。大江がいかに同じことを書き直すことで生きてきたのか、ということ自体が小説に書かれている。サクラさんの幼少期の性的外傷がテーマでもあり、フェミニズム的ということができるが、大江の小説で女性がなにか抵抗を示す時、演劇としてであって(声を発しても書くことはない、そしてそれは息子の光・アカリも同様)、それが書く〈私〉とは別のレイヤーとして存在しているということもまた確か。ある一人のが書いた小説としては、そうならざるを得ないということを示している点では、正しいのだが、私たちが小説を読むときの扱いとしては難しい。そろそろ工藤庸子や尾崎真理子の書いたものを読むか。
フィギュールⅢ/ジュネットジュネットの好きな文学上の概念の区分、命名には全く興味が湧かないのだが(それが便利だからといって使っている人は、たとえばプルースト読んだ上で使ってますか?と思う)、「プルーストにおける換喩」を読んでおきたかったので読んだ。1960年代ごろのフランスの文芸批評の熱の入りようは、今からするとみんな文学に対して一生懸命でいいね・・と知らないノスタルジーを覚えてしまう。
ルネ・シャール詩集/野村喜和夫訳書:とにかくかっこいい。後ろについている評伝も勉強になる。そこでよく参照されていた西永良成『激情と神秘』を入手したのでそちらも読む。

「美しい建物と予感」

ぼくは聴く ぼくの歩みにつれて
死んだ海がすすみゆくのを その波は頭上を越え

こどもとは 荒々しい遊歩防波堤
おとなとは 模倣された幻影

純粋な眼が 森のなかで
泣きながら 住まうべき顔を探している