2023年7月の日記

※notionで書いていたものの転載

antique-bicycle-5ae.notion.site

7/14 Fri

仕事が比較的少なく、計4時間くらいで与えられたものを終えた。これは河野咲子さんの「走り書き日記」を読んで私もやりたい!と始められた。Notionに書く形式は丸パクリしている。いつも何かに触発されて中断していた日記を再開するが、またたぶん中断がある。図書館で『存在の耐えられない軽さ』を借りてきて、第三部まで読む。文はテンポのよい進みでわりと乾いた感じがするが、出てくる女が情念系のところがいい。クンデラが一昨日亡くなって、はじめて読んでみている。今下のゴミ箱ボタンにうっかり手が触れ、ここまでの文がぱっと消えて驚いた。おもにりゅうちぇるが自殺してしまったことと、ジブリの新作の話題で持ちきりのツイッターにまた疲れている。「お前が殺した」という言い方をする人を何人か見たが、(誹謗中傷はもちろんしてはいけないが)ではあなたはまったく死に寄与しなかったのか、なぜそう言い切れるのか、などと思ってしまう。ぺこちゃんたちが離婚するという発表をしたとき、すこし反感をもったのは、トランスであるかどうかなど関係なしに、あんなに仲の良さそうで完璧に見えるカップルにも、終わりが訪れることが私は悲しかったのではないか、と後付けで考えている。ジブリの方は一応近所の映画館の座席の埋まり具合を眺めるものの、見なかった。来週平日のどこかで見てみようか。自分はもう死んでいるのだと言表するという症状がでる、コタール症候群のことを知る。

走り書き日記、第2期(更新中)|河野咲子

7/15 Sat

テレザが技師との情事を始める前、丘で処刑志願者たちのもとに行き(トマーシュに丘に行けと言われ)、彼女も望みさえすれば処刑されるという場面がある。結局それは「あたしの意志じゃない」として見逃される。意志など関係なしに起こる恋と革命の小説のなかで、この場面は特別な印象を与えた。

sが家まで車で迎えにきてくれて、おうちに遊びに行った。猫はもともと部屋にいて最初ちょっと触らせてくれたけど、すぐどこかへ消えてしまった。とくに何をしたわけでもないのに時間が本当にあっという間に過ぎて帰りたくなかった。バーミヤンでお腹いっぱい食べた。初めて会った日に私たちは映画を見てすぐ解散したので、お腹の空いたsは一人でこのバーミヤンに来たらしい。そんなふうに最初の頃はお菓子しか食べてなさそうと言われたものだったが、好みの偏りはある(今日食べた酸辣湯麺は酸っぱいし麺類なのでかなり好き)もののわりとなんでも食べるという認識になったみたいだった。寂しい帰りたくないと言って、結局家までまた車で送ってくれた。家族の車が苦手で、もう4,5年くらいタクシーとバス以外の車に乗っていなかったけど、とくに酔わずおしゃべりしながら楽しく帰る。車に乗らないとみえない風景があって、外を眺めながら、昔見た、あるいは映画で見た車からの風景の記憶の話をした。

7/16 Sun

なんだか一日眠い。この日記の存在をツイッターでお知らせしたが、なぜかURLがantique bicycleだった。フランス語と英語のつづりが混ざっていて見た目にもよいし、古風な自転車と訳したときにも響きがよくて気に入った。

スタロバンスキー『透明と障害』の「誤解」の章を読む。ジャン=ジャック・ルソーはなんだかとても生きづらそうな人間である。かれは他者に理解されたいけど自分の望むような姿で理解されないことに苦しみ、書いて自らの望むように表現しながら身を隠す。その一方で、書いた言語によっても誤解が生じるため、相手の前にわっと縋るというような言語以前の身振りによって自己を表現しようとする。しかしそうした身振りのシーニュは、透明(誤解のない状態)が不可能であることを示すに過ぎない。また、「偶発的徴候」というプルーストを喚起させずにはいられないシーニュの類型があるが、植物などの自然物が示すシーニュは結局かれがその意味を判断するしかない。

常套的な人間の交流以上のものを求めたがために、かれは交流の不在に苦しむことをよぎなくされたのではないだろうか。かれに世界を告知するかわりに、そして他人の魂を明らかにするかわりに、かれ自身の不安を送り返し、かれ自身の過去に連れ戻すような徴候の網目にかれはとらわれてしまったのではないだろうか。こうしたことが、事実ルソーにとっては徴候の力だったのである。すなわち、徴候とは、かれを世界に近づけるかわりに、(ナルシスにとって鏡面がそうであったように)自我が魔術のように自己自身の反映の奴隷と化してしまう道具だったのである。(269)

スタロバンスキーの書き方は、ルソーの書いたものを忠実に解しながら読みとして創造的であり、とても面白いしこういうものを目指すべきなのだと、大学で言っていた教員がいた。Histoire du traitement de la mélancolie という著作も読みたい。

夜sとスペースを開いてしゃべった。スペースは誰が聞いてるかわかってしまうから、入りづらくてたぶんキャスより人が来なかったし、いつもの電話の感じで喋っただけだった。自分の声が好きではないのに、喋っているのを聞きたいというへんな欲望があるため、今度は録音する。

7/17 Mon

サマーエンジェルというすももがおいしい。母方の祖母が亡くなった。ずっと入院していて私は会っておらず、あまり実感はない。祖母とは食べ物の好みが近いので、このすもももたぶん好きなのではないかと思う。

sと『君たちはどう生きるか』を見た。説教くさいタイトルだなという印象で、中身も思ってたより説教くさかった。私はポニョの方が好きである。説教くささというのは作品の完結性が高かったということではないかと思っている。伝えたいことと書きたいことを全て詰め込みました!感が読み取れて、石を持って帰るというささやかな変容しかない。あとは、出てくる人間がすべて主人公の家族(婆たちも家にいるという意味では家族)でそれ以外のものが鳥だったので、男/女/動物という区別(序列)が、青鷺の存在はあれど、強かったような気がする。トトロやポニョは子どもが見てわくわくできる(移入できる)ように作られていて、対して風立ちぬは大人向けに作られていて、そしてこの作品は米津玄師やあいみょんを起用するというところからしても、いまの「若者」向けなのではないか(だから説教ぽいと感じて冷めてしまう)と思う。それはそれとして、目が疲れるほどに次から次へといろんなものが動く。最初の空襲(※サイレンなどの描写から反射的に空襲による炎かと思ってしまったが、正しくは火事でした)のシーンはもとより、夏子が車から降りるシーンや婆たちの移動、タブーの空間の白い紙のような何か、わらわら、そして鳥たち(なぜ青鷺とペリカンとインコに置き換えるのだ…というのはありつつ)の動きがすごいというだけで凄いアニメと言っていいのだろう。ところどころハリポタみたいだな(炎を媒介に暖炉を移動、回って崩落する階段、キングスクロス駅のようなはじまりの空間)と感じたが、アリスなどのこちら/あちらを行き来するファンタジー作品の象徴的なモチーフを使い倒すような気概だったのか。真夏の日に満員の映画館で人々がポップコーンを食べるしゃくしゃくという音を聞きながら(作品の音に言及するひとはこのポップコーン音に邪魔されなかったのだろうか…)、大作家のおそらく最後の作品をみる、という経験、はそうないのでよかったと思う。

7/18 Tue

わりとのんびり(時間的にというよりやったことのある作業なので負荷が少ないという意味でのんびり)仕事。でもなにかが確実に消耗してしまう。たぶん外気と冷房で体温調節がうまくいっていないのだけど、36.7〜37度くらいのちょっと高い体温が続いている。惚気でしかない話だが、sはとくに店で向かい合っている時などに、なんでこんなにかわいいの?と首を傾げていてそれがいかにも恋でおかしくなっている人のようで面白い。あと、素麺中毒者の私に感化されて結構な頻度で素麺を食べているのがおかしくてかわいい。彼が元カノから貰ったらしい愛用の万年筆を、それを愛用しているという事実が耐えがたくて私は売らせたのだが、手に馴染んだ筆記具を手放させるというのはなかなか酷なようで(耐え難いことに変わりはないが)すこし悪かったかもしれない、と万年筆に関するブログを読んで思った。しかし恋愛関係における私の権力の強さと加害性には自分でもうんざりするところがある。

神秘化、という言葉は、意味が一般に流通していないような独特の語法や語用をすることで、その意味を理解できる人が限られており、そしてわからない人から見たときにその語を発明したらしい人が権威のようにみえる状態さすのだと思っている。「精神分析はエディプスコンプレクスや自我/超自我エスなどの独特の語で神秘化されている」というような具合に。なぜこのことを考えたのか、発端となるテキストがあるのだが、まだちゃんと読めてないので読んでから書く。相変わらず散逸的で断片的な感覚しかなくて、この日記はそれらを統合する助けになるだろうか、とわずかな期待のもとに書いている。

7/19 Wed

芥川賞が「ハンチバック」に決まっていて、他候補を読んでいないがまあそうだろうなという感じだ。乗代雄介をはやく芥川賞の軛から解放してあげてほしい… そしてもうちょっと長めのものを書いてほしい。交換日記で過去の散々だったバイトの話を書いたら力尽きた。

7/20 Thu

ベッドの上には8冊くらいの本が散らばっていて、寝っ転がりながらそれらを次々にとっては次々に放り出している。お風呂での読書の集中度合いが100だとすると、部屋で読むのは30〜60くらいだ。空いている電車の座席が70〜80くらい。『火』『小説作法』『真理と方法Ⅰ』『青い麦』『迷宮遊覧飛行』『カフカ全集 日記』などを眺めている。ポケモンユナイトをまた始めてしまい、ニンフィア、ワタシラガ、サーナイトで連勝する。冷房はもういつからつけっぱなしなのかわからない。軽井沢でやっている荒川修作の展示を見た方が良い気がしているのだが、なかなか腰を上げられないでいる。

青葉市子の音楽は遠くへ連れて行ってくれるという点で、幻想文学と呼ばれる小説の一群と似たような効果を私にもたらす。「アダンの風」が出たとき、井辻朱美の「〈かくてわれらは死せるなり〉水のごとき風に目覚めて他生の記憶は」という短歌を連想したのだった。海辺の葬列、アンディーヴと眠って、妖精の手招きなどを神奈川県立音楽堂で聴いた。中高生の夏休みに毎年複数回行ったホールは、最近改修が行われ、席がよかったこともあり大変響きがよかった。かのじょは自然なようでいて音のコントロールが隅々まで行き届いているので、身体が馴染むと同時に緊張する。しかし昨日Plastic Treeが「痣花」をリリースしたので気持ちがそちらに引っ張られ、行き帰りはプラばかり聴いてた。

2020-12-13(風/他生の記憶) - よくわからない比喩

7/21 Fri

祖母の葬儀で早起きして車に乗る。とても眠い。『富士日記』の中巻をぱらぱら読む。カニ入り炊き込みご飯などが美味しそう。決められた段取りに従って時刻通りに次々と儀式が行われ、あっというまに骨になってしまった。祖父の家に行くと、壁にかかった年間のカレンダーの7/16にサインペンで黒黒とした丸が描かれていた。これからも続いてしまう祖父の人生がより良きものであってほしい。

7/22 Sat

ぐっすり眠る。sとpeople in the boxのライブ@ヒューリックホール。アルバムcamera obscura をすべてやり、残りは以前の曲で、新旧半々という具合。ピープルを聴いているのはここ3,4年のことなので、ファンらしい曲の受容(わあ〜この曲やってくれたというような)はあまりできないのだが、どれもいい曲だと思ったし、複雑なものにきこえるのにライブできいても思ってたよりはるかに音源に近い、という驚きかたをしてしまう。ピープルの歌詞は、いっけん無機的で抽象度が高く感じられるところがあるから、「きみ」とか「あなた」とか出てくると急にエモーショナルに感じてしまうということがあると思う。スルツェイの「ここは君の大きな傷口/辿り着いたよ//君が最期に笑う理由をみせて」など。スルツェイというのは、アイルランドの1963年に火山でできた無人島だ。マグマと海水が直接触れることで爆発的な噴火が起こり、これを例に「スルツェイ式噴火」と命名された。今回のアルバム曲では「戦争がはじまる」がよかった。ラン、ベイビー、ランというサビのフレーズがよく響いていて気持ちよかった。

7/23 Sun

部屋を片付けてゲームしてギターを弾いていたらもう日暮れになっていた。私に必要なのは習慣を作ってなにか習得するというより、人生におけるいくつかのプロジェクトを動かしていくという意識かもしれない。これまでわりと目的ありきで人生を進めてきた感触があり、それが大学生になって以降とくに目的もなく手当たり次第にやっているから日々の不満足感が拭えないのかもしれない。ただ、(報酬もないのに)やらねばならぬ、と思うと出来なくなるので、ねばならぬという意識をもたないままに着々と本を読んだり書いたりができるとよい(となるとやはり習慣にしたほうがいいのか…?)。ベルトルッチの「暗殺の森」を流し見。夜明けの青い画面が美しい。塚本邦雄全歌集(文庫)の第一巻をぱらぱらと。これ在庫あるうちに全巻揃えた方がいいんだろうな、と思うけど文庫という前提で値段を見ると躊躇うのだった。

7/24 Mon

ツイッターが滅びると言われてからなんだかんだと一年くらい持ち堪えているが、果たしてどうなるだろう。ここ五年くらいはツイッターでかなり人間関係を構築した気がするので、普通に寂しくなる。あと、検索エンジンとしてツイッターを使う場面が多々あり、人々の何気ない呟きからしか得られない情報をにアクセスできなくなるのは困る。このあいだは、サウナ付きラブホテルの存在を知り、セックスもサウナもこなす人はどれほどいるのだろう…と思って調べた。今月ははてなブログの方を更新できてないのに、過去記事をツイッターに貼ったこともあってか、なぞにPV数が1000を超えますます更新しづらくなってしまっている。この、いいねもつかなければアクセス数も見えない公開日記が気に入っていて、notionといういつ無くなるかわからないような(iPadで書いてるとちょっとカーソルの挙動があやしい…でも熱心に開発しているみたいだしそこそこは続きそう)ところに頼らず、自分でサイトを作ったほうが良さそうだと思うものの、その労力と費用を割こうとは思えず、結局安住しそうである。

7/25 Tue

「はやく一人暮らししたいけどお金使っちゃうんだよね〜」「何に使うの?」「服」「服にそんなに使う?どんな服?」「……ロリィタっぽいの」「え〜うさぎさん♡みたいな?」「………」と、なんとなく気まずい感じの非常に現実的な会話を高校の同級生と繰り広げる夢をみた。偽日記で知ったマルロドールちゃんの動画を見ていた。(わりと視覚偏重の思想・精神分析における)声の形象については、前からぼんやりと関心があり、あらためてここで紹介されている本を読んだ方がいいと思った。デュラスの映画、ドゥルーズカストラート(および、ドミニック・フェルナンデス)に注目していたことや、バトラーがアルチュセール的呼びかけを鏡像段階における主体形成に応用するアイデアを出していたことなど…… 。ここらへんのことは邦訳があったとしても絶版で(アンジューくらい復刊して欲しい本当に)、訳がないものが多いので頑張って読みたい……。買ったはいいものの全く読んでないKaja SilvermanのThe Acoustic Mirrorを、とりあえずちまちまと読もうとするが、忍耐との戦い。最初の三ページで今日は力尽きた。

7/26 Wed

めちゃくちゃ眠たいし頭痛いし全てのやる気がゼロ。ゲームばかりをするから調子が悪くなるのか調子が悪いからゲームばかりしてしまうのか。かろうじて風呂で『真理と方法Ⅰ』の第二章第一節を読み、それがめっぽう面白かったので何もできない日ではなくなった。ガダマーはベンヤミン扱っているものが類似していて、かつ論理立っているので副読本みたいだなあという感触を持っていたが、「ベンヤミンとガダマーがカルピスと水のような関係に思えてならない」という2012年のツイートを見つけ、思わずふぁぼをつけてしまった。たしかに濃縮度でいうとベンヤミンの方がすごいが、水で割ることで美味しくもなるという妙な説得性がある。これまで演劇にあまりピンときていなかったのだが、フィクション全般を考えるうえでとても重要な形式であることが急に理解できた。

演技者と演技を区別し、その区別があるからこそ演じて見せるということがあるとするのは、演技の真の存在のあり方ではないことがわかる。演技自身はむしろ変容なのであって、演じている者の同一性は誰にとっても存続しないものとなる。誰もが、いったいこれはなんのことだ、なにが〈意図〉されているのかと尋ねるのみである。演技者(もしくは詩人)はもはや存在しないのであり、あるのは彼らによって演じられていることだけである。さらにまた、もはや存在しなくなるのは、なによりも世界である。われわれ自身の世界としてそのなかでわれわれが生きている世界が、もはや存在しなくなるのである。姿への変容(Verwandlung ins Gebilde)というのは、単に他の世界の中へと入ることなのではない。たしかにそのなかで演技が演じられている世界は、それ自身のうちで閉じた、別の世界であるには違いない。だが、演技はそれがひとつの姿である以上、その基準をいわば自分自身のうちに見出しているのであり、演技の外部にあるなにものによっても測られることはないのである。(…)変容とは、真なるものへの変容である。それは、魔法にかかることとは違う。つまり、まじないを解いてもとの姿に戻してくれる救いの言葉を待っているといった状態のことではない。そうではなく、この変容そのものが、救いであり、元来の姿への変容、真の存在への変容なのである。(…)〈現実〉なるものは、さまざまな可能性をもった未来の地平のなかにある。さまざまな可能性、つまり、望ましい可能性、望ましくない可能性、いずれにせよいまだ決定されていない可能性の地平のなかにある。現実のあり方というのはしたがって、相互に相反する期待が呼び起こされ、しかもそれらのすべてが成就するわけではないという形をとっている。期待があまりにも大きいためにどうしても現実がそうした期待に遠く及ばないものとなるのは、未来が決定されていないためである。ところで、ある特別なケースにおいて現実の意味連関が完結し、かつ充実を見て、そこでは意味の流れが空虚なものに終わってしまうなどということがまったくないことがあるとするならば、そのようなものとしての現実はまさに演劇のごときものとなる。同じように現実の全体を、そのなかですべてが充実した実現を見る完結した意味連関として見ることのできる者は、人生そのものの悲劇と喜劇という言い方をするであろう。現実そのものが演劇として理解されるような、こうしたケースに即して考えてみると、われわれが芸術の演技として特記する演技の現実とはどのようなものであるかが浮かび上がって来る。演技とはなにであるかという意味では、いっさいの演技の存在はつねに約束の履行であり、純粋なる成就であり、自己自身のうちにテロスをもつエネルゲイアである。演技がこのようにして統一的な経過のなかで自己自身を完全に語り尽くすような芸術作品の世界こそは、実際にまったき変容を遂げた世界である。この世界を前にすると誰もが、〈このように世界は存在しているのだ〉と認識するのである。(159-163)

7/27 Thu

『真理と方法』もまた、プルーストの話をしているとしか思えず、ちょうどsから私の書いた「塔と象」についてのコメントをもらって、「真理」とはいったい何であるかをぼんやり考えている。第二章第二節で、目的を備えるまたそれを超え出るという点で、特権的な芸術形式として、建築術があげられているが、プルースト(か語り手)は、自分の文学作品を建築に喩えていたのだった。

7/28 Fri

違う星に飛ばされる夢。いちばん暑い時間に外に出る。ビルの片隅にある四畳くらいの空間にぎゅっと本が詰め込まれた古本屋で、『ハドリアヌス帝の回想』『未来のイヴ』『競売ナンバー49の叫び』『チリの地震』『幻獣の書』を計2000円で買う。sといるとよく古本屋に行くのでよく本を買っている。たこ焼きを食べ、『ハッピーアワー』上映会をする。初めて見たのは、2020年8月の文芸坐オールナイトで、ほぼ満員のスクリーンでひとりだった。見た時にすぐ感動するような類のものではないが(飽きずにずっと画面を見続けれれる凄さはわかる)、人生においておりおり参照したくなるような映画で、また見たいと思っていたもののなかなか映画館に足を運ぶのが難しく(なんせ5時間以上ある)、ついにブルーレイを買ったのだった。これをsに見てもらったことで、「あのテーブルを囲む気まずすぎる場面」や「重心ワークショップ」の話がすぐ通じるのが嬉しいし、何より目の前の人と話をすることについて共通の参照点が生まれたと思う。もともと私たちは言葉を使って関係することを重要視してきたし、これからもそうであろう。かのじょたちとその夫たちがどうしてもう手遅れの状態になってしまったのかという過程は、桜子以外あまり描かれないので、愛情深そうな純がどうして公平みたいな人にひかれ、冷え切るに至ったかはとても気になる。こういうのが「シスターフッド」という言葉で括られていたらあまりにもつまらないとsは言っていて、私も全くそう思うのだが、相変わらず私にはあまり友人がいないし、30歳を超えてからあのような出会いが本当にあるのかしら…とも思う。

7/29 Sat

古本屋で坂部恵『モデルニテ・バロック』を入手。来るべき引っ越しに向けてどちらかというと本を減らさないといけないのに増える一方である。炭酸を好んでは飲まないのだが、メロンソーダの人工的なメロン味が好きで、ドリンクバーで三杯飲んで舌を緑にしていたりした。クーリッシュのメロン味も気に入っていて、今年四つくらい食べた。

7/30 Sun

またU-NEXTのポイントを1200まるまる失ってしまった。質問箱を設けていると、一ヶ月に一度くらい「あなたの見た目はかわいくない」というような内容のものが入るのだが、これが同一人物によるものなのか、そしてインターネットに顔をそんなに晒しているわけでもないので何を見て言っているのかよくわからず、ただその執着とは一体…と不思議に不気味に思う。昨日は「かわいくなくてがっかりです」と入っていたので、勝手にかわいいと期待して勝手にそれを裏切られて要らぬ落胆を引き起こされて可哀想に…と返したが、それに「こいつ最低ですね」とリプライをくださった人がいて、ありがたいなと思うと同時に、ここで私自身が怒ることは、たぶんこのメッセージを入れた人間を喜ばせることになるだろうと思った。フェミニズム運動のスローガン?として「私たちは怒ってもよい」というのがあったが、私はこれに対して実感としてはあまりのれない部分もある。すくなくともツイッターのような場において発露される怒りは、結局どこにも届かずにただ消耗するだけのことも多い。それは自分にとって意味をなさないメッセージである(怒るまでもない)ということを示すことも時として重要だろう。『彼氏彼女の事情』に、「もし傷つくなら最初の相手は有馬がいいわ」というセリフがある。最初の相手というより、唯一の相手と私は読み替えたいのだが、情動をプラスの方向にもマイナスの方向にも動かしうる相手は限られており、そのほかが何を言おうとどうでもいいというような気高さを持っていたい。それはそれとして、私は客観的に言ってモデルのように容姿端麗とは言わないまでも、見ようによってはかわいいということもできるくらいのもので、実際に顔を知っている人に顔がよくないという前提の態度はとられたことがない。

7/31 Mon

夏バテを感じさせない旺盛な食欲をしていて、太るのが怖い。素麺中毒なので6食に1回は食べられないと禁断症状がでる。今年は桃もよく食べている。初京極夏彦として『魍魎の匣』を読み始めた。そうしたら著者17年ぶりの長編が出るというニュースがある。