2021-09-27(他人の言葉/ありえなさ)

なにぶんいちばん厄介なのは、他人の言葉で語るという恐ろしさをはっきりと自覚していないので、その振りがかなり大振りなことです。僕が当時漠として抱えていた「不快」は、このあたりに存していたのかもしれません。つまり、なぜこんな風に書くことしかできないのか。それが認められてしまうのか。僕をいちばん苦しめていたのは、引用と模倣と隠蔽だらけの文章を見抜く術自体が、はっきり言って「ない」ということだったのでしょう。誰も、他我をわかることなどできないのです。全ての影響を隠蔽すればいくらでも可能だということ。影響に気づきもせず、まかり通って、それが「個性」と呼ばれているのが、どうにも居心地が悪かったのです。

 

乗代雄介『ミック・エイヴォリーのアンダーパンツ』、452頁

 


本当のことを書く、というのが私のやりたいことだ。本当のことというのはもちろん、現実/虚構の区別にかかわらず、私の魂に裏切りのない言葉で書くということ。そういう文章はそう多いわけではない。脇坂真弥『人間の生のありえなさ』は、そういう文章である。…と書き始めて、そういえば書評のサイトがあったことを思い出し、そこに以下の文章を書きました。書きたいと思う本があれば、ほかにも書いてみようと思う。

 

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 みずからの魂に裏切りのない言葉で書かれている文章はそう多いわけではない。どこかに虚飾が、都合の良い解釈と欺瞞とが紛れ込んでいることがあり、それは時に書き手の弱さの隠蔽やごまかしとなる。
 脇坂真弥『人間の生の〈ありえなさ〉』は、本当のことを書く強さをもった文章である。田中美津、アルコール依存者の自助グループ〈AA〉、シモーヌ・ヴェイユという一見ばらばらな題材は、筆者の自らのあり方に基づいた強い問題意識によって、必然性をもって俎上にあげられている。
 本書を貫く大きなテーマが、「私という偶然」のあり方、そしてそれぞれが偶然性を被った「私」である「他者」といかに出会うことができるか、ということである。私はどのような性別で、どのような親の元に、どのような身体のかたちをもって、どういう出来事にあって、生きているのか。そのすべてが偶然性に満ちていて、私がコントロールできる範囲を大きく超えてしまう(そのような偶然性に抗い、制御することとしての「生命操作」の倫理については、第二章第二節でとりあげられている。近年の「反出生主義」への応答にもなるだろう)。
 そして、「なぜこの私がこのような不幸を被らなければならないのか」、そのような世の不条理に対する苦しみに徹底的に向かい合い、「とり乱す」とき、〈他者〉への出会いと応答が可能になる。この不幸のなかで答えのない「なぜ」に拘り続けることこそ、本当のことを書く強さにほかならない。

https://www.honzuki.jp/book/301940/review/267315/

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やっぱり田中美津の女の矛盾=「とり乱し」は、現在の実感できる戸惑いとして、よくわかる。

いくら頭で「こんな規範などどうでもいい」と考えていても、身体が無意識にそれを裏切る。この強烈な規範は女に「かのように」深く身体化・自然化されているため、女であるかぎり、その人は事実上この規範の内部でこの規範に拘束されて生きることを強いられる。規範に背いて追放されること自体がこの規範の内部で起こるのであって、追放された当人は決して規範の外に出たわけではない。(75)

 

しかし、かけがえのない私がたまたまの私でもあったというこの底なしの偶然性の自覚は、単なる無力な自覚ではない。「私はほかでもありえたが、なぜか今たまたまこのようにある」という自分を貫くこの新しく深い自覚は、自分を閉じ込めた八方塞がりの世界そのものを丸ごと相対化する力を持っているからである。この自覚は、自分を閉じ込めている「現在」が複数の可能性の中でたまたま実現したひとつの枝にすぎないことを彼女に教える。それ以外の可能性は死に、ただひとつの可能性がたまたま生き残って自分の「今」となった。自業自得の必然的な痛みとして感じられていた罪悪感とそれを生じさせている世界は、より大きな全体から見ればひとつの偶然の産物でしかなかったのだ。(78)

 

2021-09-21(罅/ああこれは)

 

 

そわそわして早く起きる。暗いところで化粧するから変になってるって言われる夢をみた。窓に映った自分の顔が白くひび割れていた。昨日図書館で借りた『ベケット氏の最期の時間』を読む。一老人としてのベケット。そんなに面白くない。いつも暗いところで化粧しているのは事実なので今日はちょっと光に気をつける。白く割れてはないと思う。


大学図書館へ行く。これ以上ないくらいのいい気候。少し暑い。サトミマガエの「Hanazono」を聴く。電車で寝てしまう。

 


着いてから、郷原佳以『文学のミニマル・イメージ』を読み終える。参照項が多く、交通整理が上手な感じの文章。またブランショの本をいくつか読んだら読み返そうと思う。手元にあってもいいのだが、今はオンデマンド版しか出回っていないらしい。

 


詩歌の書架からめぼしいものを取り出す。

石松佳『針葉樹林』と、服部真里子『行け広野へと』をぱらぱらと通読。

 

春だねと言えば名前を呼ばれたと思った犬が近寄ってくる

湖を夢に訪れああこれはあなたのために鎖される扉

遠雷よ あなたが人を赦すときよく使う文体を覚える

 


そういえば今朝は向かいのベランダの犬が一段と吠えていた。飼い主が室内から「うるさい!」と叫ぶが、その声の方がうるさいと近隣の人に思われるとは思わないのだろうか。

本棚を眺める。大学が近くはないのであまり図書館にも来れない。卒業までにあとどれくらい読めるのか。地下に降り、『atプラス』30号の、松本卓也と千葉雅也の対談をぱらぱら読む。本誌内で内海健自閉症スペクトラムの精神病理』を参照している論文が複数ある。Twitterでも最近見かけた本だったので借りたいと思い、検索をかけるが、ない。割と重要そうな本なのに大学図書館でそんなことあるだろうか。すぐさま購入リクエストを送っておく。

九冊返し、九冊借りる。

松本圭二詩篇アマータイム』
・マーサ・ナカムラ『雨をよぶ灯台
・脇坂真弥『人間の生のありえなさ』
・ラプランシュ『幻想の起源』
・エンソォ・トラヴェルソ『左翼のメランコリー』
デリダ『雄羊』
・ジゼル・サピロ『文学社会学とはなにか』
・ド・マン『読むことのアレゴリー
・横田祐美子『脱ぎ去りの思考』

クリスタ・ヴォルフ『一年に一日』や『吉原幸子全詩Ⅰ』も借りたかったが、結構重たいのと上限冊数と優先度で見送る。年明け、卒論から解放されたらもっと好きに色々読みたい。私は飽きっぽく、一冊の本を長く読み続けることができない。停滞している感じも読み切れないのも嫌なのでどれだけ粗くても早いペースでともかく読み切って、また必要があれば読み直せばいいのだと思うことにしている。『雨をよぶ灯台』はもう一回読んだ方がいいなと思って借りた。

 


医療費申請の手続きをするべく事務所へ。しかし領収書が一枚足りない気がするので申請できない。来月11日までにまた来なくてはならない。やや意気消沈し、もう帰りたい気分だが、セブンでチキンとたまごのチリソースのサンドイッチを買ってもそもそと食べる。大学では食べる場所にいつも困り、いつもコンビニで適当に買って空き教室とか人通りのないベンチとかで食べる。居心地は悪い。わりと人がいて、大学生って煩いなあと思う。私の好き嫌いは音で決まる。

もう一つの図書館へ移動し(地味に距離があって嫌だ)、ドミニク・ラカプラ「トラウマ・不在・喪失」(村山勝敏訳『みすず』2000年5,6月)だけコピーして出る。服でも見て帰ろうと思っていたが、重たいし疲れたしまっすぐ帰る。いつも大学へは大量に本を運搬するのでぐったりしている。帰り道はこれを書く。書きながら、総じて大学に居心地の悪さを感じ続けているのだと思う。図書館内でさえ、あんまり落ち着かない。

 

大学から最寄り駅へ降り立つと、いつも深々と息を吸う。たぶん都心には住めないだろう。日が暮れている。

 

2021-09-06(ぬいぐるみ/逃亡派)

ぬいぐるみは、大切にしていたらいなくならないし、こちらになにか要求してくることもなくただそこにいる。

 

茅野のツイッターアカウントは復旧したものの、ツイートをする気分にはならず、でもツイートのような断片的なたとえば上のような文章がうかんできて、行き場がなくなる。

 

断章形式の本は、断片でありながら一冊の本にまとまっているということに意味があり、しかし最初から最後まで必ず通して読まなければならないという圧からは逃れていて、好きな類の本だ。書き手もまた、断章形式のよるべなさが気に入って書くタイプの人なので、なんとなく気が合う。
オルガ・トカルチュクの『逃亡派』は、旅や移動、断片的でやがて朽ちていく身体をテーマにした短い文章が集められいる。望んでも望まなくても、人間はふっと街の隙間にいなくなることがある。つい、永続性をもとめて美しい身体を薬品につけて保存してみたり、大事なものを箱に入れて取っておいたりするのだが、その持ち主はもうそこにはいない。
小川洋子の文章の温度感とも似た、心地の良い本だった。

 

 わたしに痛みをもたらすものを、わたしは地図上で白くぬりつぶす。つまずいたり、ころんだり、攻撃されたり、痛いところをつかれたり、そこでなにかの具合が悪くなったり、そういう経験をした場所は、わたしの地図から姿を消す。
 この方法で、いくつかの街と、ひとつの村をぬりつぶした。もしかしたらいつの日か、国をまるごと消すかもしれない。地図はこれを寛大な心でわかってくれる。なぜなら地図は余白が恋しいから。それは彼らの幸福な子ども時代。
 ときどき、存在しないこれらの場所に出かけなければならないとき(わたしは執念ぶかい人間にはならないようにしている)、幻の街を幽霊となって歩きまわる、わたし自身が目に変わる。もしその気になりさえすれば、もっとも固いコンクリートにこの手をすんなり差しいれることも、ごったがえす通りや、渋滞する自動車のあいだをすいすい歩くこともできただろう。なににも触れず、なにも損なわず、どんな音もたてずに。
 でもわたしはそんなことはしない。その街に住む人びとの、ゲームの規則にしたがうから。彼らの前で、街の幻想をあばきたてたりもしない。哀れな人びとの住む、ぬりつぶされた街の。わたしは彼らにほほえみかけて、彼らの話に相槌を打つ。彼らにショックを与えたくない。じつは街が存在しないだなんて。

 

オルガ・トカルチュク「地図を消す」『逃亡派』、小椋彩訳、97-8頁

 

2021-09-02(土星/としての/私)


日記はキティと呼びかけるより、あんた誰?から始めたい派だ。
だいたい一週間以上書かないでいると、書き方を忘れてしまう。

何日も何週間もむなしく頭を悩ませ、習慣で書いているのか、自己顕示欲から書いているのか、それともほかに取り柄がないから書くのか、それとも生というものへの不思議の感からか、真実への愛からか、絶望からか憤激からか、問われても答えようがない。書くことによって賢くなるのか、それとも正気を失っていくのかもさだかではない。もしかしたらわれわれはみんな、自分の作品を築いたら築いた分だけ、現実を俯瞰できなくなってしまうのではないか。だからきっと、精神が拵えたものが込み入れば込み入るほどに、それが認識の深まりだと勘違いしてしまうのだろう。その一方でわれわれは、測りがたさという、じつは生のゆくえを本当にみさだめているものをけっして摑めないことを、ぼんやりと承知してはいるのだ。

 

W・G・ゼーバルト土星の環』、鈴木仁子訳、171-172頁

 

また暑い日が続いている。でも梨とぶどうがおいしくて、すこしずつ秋が近づくのを感じる。と書いてから日が経って、九月に入って気温は下がった。いまは水の音がする。アルバイト先でも、ぽつぽつとかかる人が出てきていて、私は幸運にもワクチンを二回打てたけれど母親はまだなので、怖いのと、べつに働かなくてもいいかと思ってしまって、バイトもせず、ずっと部屋で本読んだり寝たりしてのんべんだらりと過ごしている。

このあいだ初めてカウンセリングを受けた。60分7700円。高いけれど、母親以外の、頼ってもいい人を作った方がいいと思った。カウンセラーは母親と同じくらいの年齢の人だった。そもそもはっきりとした鬱とかではない(それなら病院にかかった方が良い)ので、解決するとかはないけれど、次はこれを話そうとか、いざとなったら頼っても良いところがあると思えるだけでいい。しばらく通ってみようと思う。

泣くとき、頭が熱を持つ。その熱をうさぎに分け与える。

「楽だったんだ。泣かないからぜんぜん手がかからなかった。何かみつけて来て、ひとりで黙って遊んでるんだもの」
涙がぽろぽろこぼれて止まらない時、いったい涙ってどこからこんなに出て来るのだろうと思うことがある。そんな時、きっと小さい頃から泣き虫だったんだろうなと思っていた。でも、そうではないことがわかったのだ。
本来持っているわたしの質、原形は、もしかしたらこんな乾いた感じなのかもしれないと思い、聞いたその日から、あたらしいわたしがはじめからやり直される感じがした。
だんだん原型にもどっていくような気がしたのだ。
大人がたくさんいる家だった。まん中にやっと生まれて来てくれた子供がいて、まわりには太陽を囲むように大人の惑星がいて、その子を見ながらそれぞれの仕事をしていた。
それぞれひとりひとりが、くっつき過ぎないという引力を持って、まわっていてくれる幾つかの人の惑星を持つ、独立した太陽であること。
こんがらかってしまったら落ち着いて思い出そう。静かな、天体としてのわたしを。

 

片山令子『惑星』、11頁

 

 

アマゾンのほしいものリストから、またたくさんの本や漫画をいただいてすごく嬉しい。どうやら一人の人がたくさん贈ってくださっているみたいで、なんのお返しもできなくて申し訳ない。でもやっぱりうれしい。ありがとうございます。プレゼントを贈ったり贈られたりすることが、基本的には好きだ。同い年の女性へのプレゼントは、ついでに自分のものも買ってしまったりするから楽しい。その人のことを考えて品物を選ぶときや喜んでくれる様子や、包装されたプレゼントを開ける時のわくわくする感じは独特のもの。そんなこともめっきりなくなった。
そう書いてから自分のために嗜好品の買い物が俄然したくなり、ジルスチュアートの香水とハンドクリーム(幼いブランドと言われそうだけど好きな甘い香りが多く、価格も比較的お手頃でいい)、ジェラピケのルームフレグランス、あと下着などを買い求めた。部屋がいい匂い。本以外にもお金を使いたい。

 

大江健三郎の『水死』を数日前読んだのと、ツイッターでなにやら騒がしい創造的読解?誤読?論争?を目にしたので、私小説の問題、私のことを虚構として書くことについて考えていたが、どうでもよくなってしまった。すぐになにもかもどうでもよくなってしまう。

 私たちは、行為がその結果を産むように人生が自叙伝を〈産む〉を考えているが、同様の正当性をもって、自叙伝という企図のほうが人生を産み、決定することもあるし、書き手の〈行う〉ことはすべて、実は自己描写するための技術上の要請に支配され、したがって全面的に描写の媒体の資質によって決定づけられているのだと言えないだろうか。

 

ポール・ド・マン「摩損としての自叙伝」『ロマン主義のレトリック』

 

 

 

ドゥルーズと音楽

※学部二年の冬に提出したレポートの転載です。

 

ハミングは音の響きとして繰り返される。リトルネロ、夢というものが意識が回収しきれずにいる綻んだ苦しみをすっぽりと覆い尽くすものであるのと変わらずに、ことばで縫合しきることのない境界をさすり続ける。語られうることばとはすべて暴力的な音楽であって、針の先が肌理を突き破らなければ傷口を縫い合わせることができないように、そのように絶え間ない不快感を不快感で歌いなおすかのように、書き、語る。

                      ——八柳李花*1

 

リトルネロと音楽

 ドゥルーズには絵画や文学などと違って音楽についての単著がない。にもかかわらず、ドゥルーズ哲学の中核にある概念のうちのいくつかが、音楽的モチーフを用いることによって説明されており、唯一まとまった音楽論といえる『千のプラトー』におけるリトルネロ論は、哲学と芸術の接続点となる概念としてドゥルーズじしんが重要としている(PP 276)。本稿ではドゥルーズ(&ガタリ)が音楽について語るいくつかの箇所に注目していくが、まずはリトルネロについて簡単にみておこう*2
 リトルネロ(ritournelle)は、イタリア語の”ritorno”や”ritornare”に由来する。子供が暗闇で心を落ち着かせるために打ち鳴らす手の音、「タララ、ラララ」といったささやかな鼻歌、あるいはプルーストの描くヴァントゥイユの小楽節、モーツァルトのキラキラ星変奏曲の冒頭、これらはすべてリトルネロであるとされる。小鳥が歌を歌うとき、小鳥はみずからのテリトリーを示し、そこへ他の個体が侵入することを防ぐ。あるいは家でラジオやテレビをつけると、そこには音の壁があらわれ、音が大きすぎると近所から苦情がくる。リトルネロとは、まず「テリトリーを示すものであり、領土性のアレンジメント」(MP中320)である。
 リトルネロと音楽は区別されなければならない。「音楽とは、リトルネロを脱領土化することによって成り立つ」(MP 293)ものである。つまり、リトルネロは本質的に安心感をもたらすような〈生まれ故郷〉に関係する領土性をもつが、それを脱領土化して「宇宙的リトルネロ」にするのが音楽である。ただ、リトルネロは音楽にのみあるわけではなく、色彩のリトルネロ、視覚のリトルネロといったものもありうる。しかしリトルネロはとりわけ音にかかわるようだ(MP 395)。それは音が見えないものであり、「人間だけの特権ではない」(MP 312)というドゥルーズ独特の非人間主義にかなうからである。


ネオ・バロックと不調和的調和

 ドゥルーズは『襞』においてライプニッツの〈調和〉と同時代のバロック音楽との間のアナロジーに注目する。そこでバロック音楽の作曲家としてドゥルーズの念頭にあるのは、バッハではなくラモーである。それは、バッハが水平的メロディーにおける対位法(=点のシステム*3)をフーガという形で結実させたのに対し、ラモーが垂直的和声をメロディーよりも上位において定式化したからである(ちなみに平均律クラヴィーア曲集の第一巻と『和声論』が出たのは同年である)。ただし、バッハとラモーを旋律/和声というかたちで対立させるのは、あまりにも図式的であり適当ではない。バッハは(純正律でなく)平均律によって対位法を結実させたのだから、和声的観点もむろんもっているのである*4
さて、モナドは同じ世界をことなった仕方で表現するが、ここで重要なのはそれぞれのモナドどうしがどのように関係するかである。

あらゆるモナドは、もれなく同じ世界を表現するのである。この世界はそれを表現するもろもろのモナドの外には実在しないのだから、モナド同士はじかに接続されてはおらず、たがいの間に水平的な関係をもたず、世界内的な関係をもたない。そうではなく同じ〈表現されるもの〉をもつかぎり、モナドは間接的な調和的関係をもつのである(P 142)

 ライプニッツが用いるコンサートの比喩では、オーケストラのメンバーやコーラスの歌い手たちは、それぞれの音源=モナドを互いに見ることも聞くこともできないにもかかわらず、「それぞれじぶんの音符をたよりにするだけでじゅうぶん完全に全体が一致している*5」ことが示される。ドゥルーズに言わせれば「完全に協和する」(P 141,229)ということである*6。それは、それぞれのモナドが水平的−直接的に連結するのではなく、垂直的−間接的に調和するということである。「旋律はすべて和声に由来する」(ラモー*7)というわけだ。
 窓をもたないモナドは、内的で十分な表現の自発性と、共通の〈表現されるもの〉をあらかじめもつ。その点において調和は予定調和なのである(P 232)。マルブランシュの機会原因論が水平的メロディーの多声音楽や対位法に喩えられるのに対し、ライプニッツは垂直的調和を取り出すが、その調和はつねに予定されているという点でバロック的であるとされる(P 222)。
 そしてドゥルーズライプニッツを批判し、乗り越えようとしているのはまさにその点である。つまり、調和が予定されていること、「同一の世界に出現したもろもろの不調和は暴力的なものでありえても、調和において解決される」(P 143)という点である。不協和音が協和音へと解決されることはバロック音楽の一つの特徴*8であり、そのような解決=収束が音楽の進行を促しているとも言えるが、ドゥルーズが肯定するのは不調和を暴力的なままに保つこと、いわば「ネオ・バロック」(P 144)なのである。『差異と反復』の特に第三章においては、表象=再現前化の経験的次元で、共通感覚と良識のもとに、諸能力が認識対象に向かって協働することが批判される。そうではなくて、それぞれの能力が「不調和的調和」(DR上388)をおこしながらはたらくことが真の「思考」である。この不調和的調和という表現こそが「ネオ・バロック」に他ならないだろう。「不調和的〈理念〉のシンフォニー」(DR上390)がそこでは奏でられるのだ。
 鈴木泉の指摘するように*9リトルネロは『差異と反復』における発生の媒介者としての「暗き先触れ」のラインに位置する概念である。暗き先触れは見えないということが同時に示され(DR上320)、諸セリーに齟齬や不調和をきたすものである。一方リトルネロは語源が永遠回帰と関係し、アレンジメントからアレンジメントへの「中継の成分」(MP 347)であることからもこれは妥当であろう。ただし暗き先触れは、言語モデルが念頭におかれ、構造主義的ともいえる「システム」を駆動させるものであるとされるのに対して、リトルネロは音楽モデルであり、そこに「システム」はない(MP 402)という違いは大きい*10


音楽の憎しみ

 女性が女性になる、あるいは子供が子供になるといった誤解を招きやすいドゥルーズガタリ独特の表現は、声という音楽機械について語るとき、より明確になるだろう。それは「音楽表現が女性への生成変化、子供への生成変化、動物への生成変化と不可分の関係にあり、これが音楽表現の内容をなしている」(MP 290)からである。
 声は通常、生得的なものであると考えられている。まず性別があり、それに即して女の声/男の声というものが存在するということである。しかし、声を習得するということもまたありうる。子供が子供の声で歌うには、音楽学校での課程を修めなければならないし*11、あるいは去勢手術によって子供の声になることもある。ただしここでいう子供(あるいは女性)に〈なる〉ということは、決して模倣ではないということに注意しなければならない。まず初めになるべき子供・女性の声が存在し、それを模倣するのではなく、なるべき声じたいも変化し、脱領土化されなければならないということである。「子供への生成変化の中で声が脱領土化するだけでなく、声が子供になると同時に、子供のほうもまた脱領土化され、どこから生まれたかもわからないまま生成変化をとげる」(MP 301)という二重の運動があるのだ。カストラート、あるいはカウンター・テナーの声は、男女二元的制度の配分を超えた(両性具有に回帰するのでは決してない*12)ものなのである。 ロマン主義の時代の作曲家、とくにヴェルディワーグナーのオペラを指して、ドミニック・フェルナンデスは、男/女の声の二分化(ドゥルーズに言わせれば再領土化)が資本主義の要請によっておこなわれたとして否定的評価をくだす*13ドゥルーズロマン主義音楽と男女の声の再領土化の繋がりについては賛同しているが、楽器の発展が声の二分化を促したとするフェルナンデスを批判し、楽器の発展は「声をもはや他の楽器に等しい一つの楽器」=機械にしたという。ドゥルーズロマン主義音楽を全否定するわけでもないし、失われた自然的な声へ回帰しようとするわけでもない。声をもはや自然的でない「機械」としてみなすことで、さらに「男女両性のあいだをすりぬけ、潜在的な差異に入っていく」ような、「分子状の子供」や「分子状の女性」への生成変化を捉えることができるのである(MP 310)。
 また、声と楽器の関係は、土地と人民の問題へも接続される。主体化されて「感情」をもつ個人の声と、主体化されざる「情動群」としての楽器は相互に関係するが、それが、土地=〈一なる全体〉の力なのか、人民=〈一なる群衆〉の力なのかによって、役割は変化するのである。ロマン主義の音楽は一般に、聴衆が一部の貴族から中産階級へとひろがった時代のものであり、民族主義的であると考えられることが多いのにもかかわらず、ドゥルーズガタリは「ロマン主義にいちばん欠けているものは民衆である」(MP 380)という*14ワーグナーの音楽はナチズムに利用されたことや、「国歌」の役割を考えてみれば明らかなように、音楽は集団の画一化を促すようなものである*15。あるいは、テレビや街中で流れるコマーシャルの音楽は聞く人に消費を促し、流行を作り出す*16。音楽は潜在的ファシズムである(MP 291,298,396)。そのような危険な暴力性をもったリトルネロを、リトルネロじしんがもつ力によって、原初へと回帰するような形ではなく、「宇宙的に」解放すること。音楽史哲学史を重ね合わせるような形で思考するドゥルーズ&ガタリは、「複数の思考を総合するシンセサイザーとして」(MP 387)哲学を実践しようとするのである。 

 

本稿中では、ドゥルーズ(&ガタリ)の著作を、以下の略号で表記する。
DR:『差異と反復』上下巻、財津理訳、河出文庫、二〇〇七年
MP:『千のプラトー』上中下巻、宇野邦一他訳、河出文庫、二〇一〇年。なお本稿中での引用はすべて中巻からであるため、ページ数のみを示している。
P:『襞——ライプニッツバロック宇野邦一訳、河出書房新社、一九九八年
PP:『記号と事件』宮林寛訳、河出文庫、二〇〇七年

*1:八柳李花「Hadean soirée comme le paradis perdu 音楽と憎しみ**」『Cliché』、七月堂、二〇一六年、二七頁。

*2:リトルネロの概略については、鈴木泉「リトルネロ/リフの哲学」(『現代思想青土社、二〇〇八年十二月)を参照。

*3:「対位法はただ様々な線の上で、点の間の一対一対応を確固としたものにすぎなかった」(P 233)

*4:Cf.フェリックス・ガタリ『機械状無意識』高岡幸一訳、法政大学出版局、一九九〇年、七〇頁。

*5:G・Wライプニッツ形而上学序説/ライプニッツ−アルノー書簡』橋本由美子訳、平凡社ライブラリー、二〇一三年、九五頁。

*6:ただしここで、ライプニッツは「オーケストラ」や「コーラス」のコンサートを想定しているにもかかわらず、ドゥルーズは暗にプルーストを引用(『失われた時を求めて スワン家の方へⅡ』鈴木道彦訳、集英社文庫、二〇〇六年、三五五頁あたり)してコンサートの例を考えている。プルーストは「ソナタ」を描写したのであり、厳密にいえばヴァイオリンとピアノの編成のソナタは、バロック期よりもやや後の古典派時代のものである。「バロックと古典主義のあいだに明白な境界線を引くことができなかった」(MP 375)からかもしれない。

*7:D・J・グラウト『西洋音楽史』服部幸三、戸口幸策訳、音楽之友社、一九六六年、四九一頁。

*8:バロック期の楽曲では、ピカルディ終止と呼ばれる、全体の調性がマイナー(短調)の曲をメジャーの和音で終わらせるという技法がよく用いられる。

*9:鈴木泉「スティルとリトルネロ——メルロ=ポンティとドゥルーズ」『思想』岩波書店、二〇〇八年十一月(No.1015)、二六九頁。

*10:このことはガタリのインタビュー(「意味の生成をもたらすのは構造ではないから。それは今も述べたような様々な構成要素が侵入すること、それ自体なんだ。音楽の領域ではまったく明らかなことだ」)からも明らかである。Cf.フェリックス・ガタリリトルネロ宇野邦一松本潤一郎訳、みすず書房、二〇一四年、一三四頁。

*11:この例は『千のプラトー』にはないが、一九七七年のヴァンセンヌでの講義「音楽について」(『批評空間』Ⅱ期、太田出版、一九九八年七月、八八頁)において登場する。

*12:ドゥルーズは、カストラートやカウンター・テナーといった男女二元論の枠組みに当てはまらない脱領土化的存在について、ドミニック・フェルナンデスの著作から着想を得ているが、フェルナンデスがアンドロギュノスの神話に重ねている点を批判している(MP 301)。

*13:ドミニク・フェルナンデス「料理 万歳!」浅田彰+水嶋一憲訳(『チューダーの薔薇』より抄訳、『GS』冬樹社、一九八四年十一月(vol.2)、四五六頁)。

*14:「欠けている人民」論である。Cf.堀千晶「『シネマ』の政治——「感覚−運動的な共産主義」の終焉をめぐって」『ドゥルーズ21世紀』、河出書房新社、二〇一九年、二四六−二六九頁。

*15:Cf.パスカルキニャール『音楽の憎しみ』博多かおる訳、水声社、二〇一九年、八六、一七五頁。

*16:ガタリのいう「資本主義的リトルネロ」である。Cf.フェリックス・ガタリ『機械状無意識』前掲書、一一四−一二三頁。

2021-08-21(ノート/つるはし)

去年同様、現在のノートの使用状況を備忘録的に書いておく。

 

・三年日記:無印文庫ノート
 去年同様

 

・日記:モレスキン 一番小さいサイズのピンク
 去年同様。そんなに使ってない。

 

・日記:MDノート 文庫横罫
 今年あたまから使用。『最高の任務』を再読し、ちゃんとした文章の、あとから読み返せる日記を書きたい!と思って書いているが、そんなに思い通りのものは書けていない。

 

・雑記:A5ルーズリーフ、またはマルマンのミニルーズリーフ
 以前まで無印のスリムノートをつかっていたが、見返したいのに検索性が悪いというのがネックで、最近はルーズリーフを使用するようになった。マルマンのミニルーズリーフはカード感覚で使えて良いです。読んだ本の内容、映画、考えたこと、あとは卒論に関係しそうなこと。ルーズリーフだとのちのちスキャンもしやすいだろうし(するかわからないけれど)、入れ替え可能だし、書き損じても全然いいし、気楽につかえていい。

 

・ログ:自作A5ルーズリーフ
 これも最近はじめたもので、その日の時間割、読んだ本、聴いた音楽、体調などを書いておくもの。以前は100均の文庫ノートに書いていたけれど、なんとなくルーズリーフで揃えてみようと思って、独自のフォーマットを作成した。さいきんはとても暇なので続いているけれど、どれくらい続くのかは謎。

 

・引用ノート:MDノート 文庫横罫
 去年同様。引用はtumblrに載せるのも好き(さいきんリアクションも少しつくようになった)なので、最近はそんなに使えていないかも。日記と同じノートなので日記に書いてしまうことも多いし。今のノートが終わったら統合されるかもしれない。

 

・ブログ、レポートなど下書き:bear(アプリ)
 年間1300円くらい払ってつかっている。たぶんもともとのメモアプリと大差はないのかもしれないけれど、フォントが綺麗、フォーマットがシンプルで見やすいのと、あとでタグをつけて分類できるというのがたいそう気に入っていて、なかなか離れられない。pdf化するときに中華フォントになるのが解消されれば満点なんだけどなー。

 

アウトライナー、webクリップ:notion
 たいていブックマーク的な感じでWebページを保存しておくのに使う。最近卒論のアウトライナーとしても使い始めた。家計簿や読書の管理にも使おうと思っていたが、面倒で使わなくなった。

 

・本の管理:読書メーター、trello
 再読登録や積読登録、あと本棚を作るのが楽しい読書メーター。trelloは、読了/読書中/図書館本/積読/再読したい/買いたいでリストをわけて、本一冊をカードにして、あっちへやったりこっちへやったりする。あれもこれも読まなきゃ…わー…ってなることが多いから、こういうので見られるようにしておくのは良い。ダブり買い(まだしたことない)防止にも。

 

・映画の管理:filmarks
 さいきんぜんぜんみれてない

 

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あとは、万年筆を使うようになった。プラチナのプレジールと、パイロットのカクノ(極細)。カクノの方が細いので好き。
インクはエルバンの、vert de gris(グリーンブラック)、gris nuage(むらさきがかったグレー)、poussière de lune(暗い紫)を使っている。vert de grisを使うことが多く、大瓶で買ったけれど、どれもお気に入り。エルバンは小瓶で買えて試しやすく、色の名前がおしゃれなところが好き(朝吹真理子もそう書いてた)。

 

書くとき、あなたは言葉を一列に敷く。並び置かれた言葉は坑夫のつるはしである。彫刻家の丸のみ、外科医の探り針である。あなたはそれを駆使して道を敷き、その道をたどる。しばらく行くと、自分が新しい領域にいることに気がつく。そこは行き止まりだ。いや、それとも手堅い主題をつかんだのか。それは明日わかるだろう。いや、今回は来年にならなければわからないかもしれない。
あなたは勇敢に道を敷き、おっかなびっくりその道を行く。道が導くままに進む。その道の果てでボックス状峡谷に突き当たる。報告書を作り、ブルティンを発行する。
あなたの手の内で、そしてきらめきの中で、書きものはあなたの考えを表現するものから認識論的なものに変わっていく。新しい領域にあなたは興奮する。そこは不透明だ。あなたは耳を澄ませ、注意を集中させる。あなたは謙虚に、あらゆる方向に気を配りながら言葉を一つ一つ注意深く置いていく。それまでに書いたものが脆弱で、いい加減なものに見えてくる。過程に意味はない。跡を消すがいい。道そのものは作品ではない。あなたがたどってきた道には早や草が生え、鳥たちがくずを食べてしまっていればいいのだが。全部捨てればいい、振り返ってはいけない。

 

アニー・ディラード『本を書く』、柳沢由実子訳、29-30頁 

 

 茅野のアカウントの中にはいるのはもう諦めているけれど、ツイログもみられなくなってしまったのはかなり残念。痕跡をなにものこさなかった。

2021-08-20(まどか/ほむら)

 きのう、『魔法少女まどか☆マギカ』をはじめて、一気にみた。すごい話だった。(昔のだから、ネタバレとかないかもだけど、一応ネタバレ嫌な人は以下読まないほうがよし。見てない人はまっさらな状態で見てほしい)。簡単に無意味に泣くので、泣いたっていっても意味がないのだが、第十話あたりからずっと泣いてた。わたしはフィクションを多宇宙(多世界)のモデルで考えることが多い(タイトルにも何回か使っていると思う)。いまの私がいる世界、昔の私がいた世界、あなたのいる世界、小説の誰々がいる世界、映画のなかの世界、それぞれが真実でときどき干渉したりしなかったりする。でも作品には作者の作為が存在するから、ある程度好きに操作することができて、その結果生じる歪みや因果がある。まどマギで導入されている、自分の望む結末になるまで世界をやり直すということと、いまいる世界の理を根本的に変え救済をもたらすということは、すごくラディカルに感じられた。あと最初まどかの視点で物語をみていて、ほむらはその世界の登場人物にすぎないのに、途中からこの世界をつくっているのは、じつはほむらですと知らされる仕掛け。それからほむらの孤独な戦いの様子が次々に映し出され、見る人はどうしたって動揺してしまう。
 でもそれぞれの少女のあれほどの自己犠牲ってなんなのだろう。少女という否応なく押し付けられたうえで崇高にされたカテゴリーが、ミソジニーの対象となる女性と地続きであるということは、示されているけれど、その変化をもたらすのが社会の圧力とかではなく、結局自分のなかの感情や「運命」だと言われているのは納得がいかなかった。でも、その「運命」をまどかが変えてしまう(自己犠牲を伴って)という話だからいいのだろうか。話全体として、自由意志による選択と責任(というか対価?)の話でもあったから、セカイ系というよりはネオリベ的といえるのかもしれない。プリキュアとかセーラームーンとかには特に興味を示さなかったタイプなので(私の中で魔法少女といえばハーマイオニー)、魔法少女ものや少女アニメのなかでの位置付けはよくわからないけれど。あとは、劇団イヌカレーが元々好きなので(PlasticTreeのジャケットなどで知っていた)ので、異空間設計でわくわくした。「コネクト」もVtuberたち(最初に聴いたのは月ノ美兎だったと思う)が歌っているのをよく聴いていたから、というよりたしかコネクトやその他の曲がよくってアニメを見ようとおもったから、はやくカラオケで歌いたい。