2021-09-06(ぬいぐるみ/逃亡派)

ぬいぐるみは、大切にしていたらいなくならないし、こちらになにか要求してくることもなくただそこにいる。

 

茅野のツイッターアカウントは復旧したものの、ツイートをする気分にはならず、でもツイートのような断片的なたとえば上のような文章がうかんできて、行き場がなくなる。

 

断章形式の本は、断片でありながら一冊の本にまとまっているということに意味があり、しかし最初から最後まで必ず通して読まなければならないという圧からは逃れていて、好きな類の本だ。書き手もまた、断章形式のよるべなさが気に入って書くタイプの人なので、なんとなく気が合う。
オルガ・トカルチュクの『逃亡派』は、旅や移動、断片的でやがて朽ちていく身体をテーマにした短い文章が集められいる。望んでも望まなくても、人間はふっと街の隙間にいなくなることがある。つい、永続性をもとめて美しい身体を薬品につけて保存してみたり、大事なものを箱に入れて取っておいたりするのだが、その持ち主はもうそこにはいない。
小川洋子の文章の温度感とも似た、心地の良い本だった。

 

 わたしに痛みをもたらすものを、わたしは地図上で白くぬりつぶす。つまずいたり、ころんだり、攻撃されたり、痛いところをつかれたり、そこでなにかの具合が悪くなったり、そういう経験をした場所は、わたしの地図から姿を消す。
 この方法で、いくつかの街と、ひとつの村をぬりつぶした。もしかしたらいつの日か、国をまるごと消すかもしれない。地図はこれを寛大な心でわかってくれる。なぜなら地図は余白が恋しいから。それは彼らの幸福な子ども時代。
 ときどき、存在しないこれらの場所に出かけなければならないとき(わたしは執念ぶかい人間にはならないようにしている)、幻の街を幽霊となって歩きまわる、わたし自身が目に変わる。もしその気になりさえすれば、もっとも固いコンクリートにこの手をすんなり差しいれることも、ごったがえす通りや、渋滞する自動車のあいだをすいすい歩くこともできただろう。なににも触れず、なにも損なわず、どんな音もたてずに。
 でもわたしはそんなことはしない。その街に住む人びとの、ゲームの規則にしたがうから。彼らの前で、街の幻想をあばきたてたりもしない。哀れな人びとの住む、ぬりつぶされた街の。わたしは彼らにほほえみかけて、彼らの話に相槌を打つ。彼らにショックを与えたくない。じつは街が存在しないだなんて。

 

オルガ・トカルチュク「地図を消す」『逃亡派』、小椋彩訳、97-8頁