2021-08-20(まどか/ほむら)

 きのう、『魔法少女まどか☆マギカ』をはじめて、一気にみた。すごい話だった。(昔のだから、ネタバレとかないかもだけど、一応ネタバレ嫌な人は以下読まないほうがよし。見てない人はまっさらな状態で見てほしい)。簡単に無意味に泣くので、泣いたっていっても意味がないのだが、第十話あたりからずっと泣いてた。わたしはフィクションを多宇宙(多世界)のモデルで考えることが多い(タイトルにも何回か使っていると思う)。いまの私がいる世界、昔の私がいた世界、あなたのいる世界、小説の誰々がいる世界、映画のなかの世界、それぞれが真実でときどき干渉したりしなかったりする。でも作品には作者の作為が存在するから、ある程度好きに操作することができて、その結果生じる歪みや因果がある。まどマギで導入されている、自分の望む結末になるまで世界をやり直すということと、いまいる世界の理を根本的に変え救済をもたらすということは、すごくラディカルに感じられた。あと最初まどかの視点で物語をみていて、ほむらはその世界の登場人物にすぎないのに、途中からこの世界をつくっているのは、じつはほむらですと知らされる仕掛け。それからほむらの孤独な戦いの様子が次々に映し出され、見る人はどうしたって動揺してしまう。
 でもそれぞれの少女のあれほどの自己犠牲ってなんなのだろう。少女という否応なく押し付けられたうえで崇高にされたカテゴリーが、ミソジニーの対象となる女性と地続きであるということは、示されているけれど、その変化をもたらすのが社会の圧力とかではなく、結局自分のなかの感情や「運命」だと言われているのは納得がいかなかった。でも、その「運命」をまどかが変えてしまう(自己犠牲を伴って)という話だからいいのだろうか。話全体として、自由意志による選択と責任(というか対価?)の話でもあったから、セカイ系というよりはネオリベ的といえるのかもしれない。プリキュアとかセーラームーンとかには特に興味を示さなかったタイプなので(私の中で魔法少女といえばハーマイオニー)、魔法少女ものや少女アニメのなかでの位置付けはよくわからないけれど。あとは、劇団イヌカレーが元々好きなので(PlasticTreeのジャケットなどで知っていた)ので、異空間設計でわくわくした。「コネクト」もVtuberたち(最初に聴いたのは月ノ美兎だったと思う)が歌っているのをよく聴いていたから、というよりたしかコネクトやその他の曲がよくってアニメを見ようとおもったから、はやくカラオケで歌いたい。