2021-08-15(とり乱し/乞食)

すずしくて体が楽だ。このまま秋になってくれたらどんなにいいか。

個人の努力でいくらでも可愛くなれるということが規範化された狭苦しい世の中だと思う。しかもその可愛さというのは、ぱっちり二重で顔の肉がすくなくて眉が並行で目と眉がちかくて鼻筋が高くて色が白くて…と非常に限定されている。お金さえあれば顔をそれに近づけられるというのは、ぜんぜん自由なことではない。わたしも整形がしたいと思わないこともないのだが、その内面化された規範にのっかっていいものか、と迷う。

顔の美醜で評価されることが嫌なら、整形しなければよかった、というのも一理あるけれど、かわいいと言われたい(というよりはブスと言われたくない、というのが大きかったのではないかと思ってしまうが)という気持ちがあって整形して、それでも美醜だけで評価したがる人々はクソと叫び続ける歌をつくる人がいて、よかったと思う。(でも、曲を作りながら自分より若い人たちで構成されたグループアイドルの一員になるという形が彼女の魅力を伝えるのに適当だったのかどうかは、わからない)。田中美津の文章でたしか、マニキュアを塗ることと革命の論理を両立させる女の矛盾=とり乱しが語られていたけれど、そうやって人は矛盾を抱えて生きていく強さを持っている者だと思う、思いたい。「わかってもらおうと思うのは乞食の心」だから。

強い気持ちになりたくて、また『君は永遠にそいつらより若い』を読んでいる。ホリガイと同じくらいの時期を生きていることもあって、とても励まされる小説なのだ。松浦理英子の解説もあわせて、ほんとうにいい。わたしは弱いです、ひどい目にあっています、生きるのがつらいです、と言うことはとっても簡単なことで、ついそのような低きに流れることもあるし、その主張の声を消してやろうとは思わないけれど、自分のやれるフィールドで闘ってみせてくれる人もいる。

2021-08-12(カメラの眼/能動/おそれ)

 

   濱口竜介の『寝ても覚めても』の二回目をみて、そのあと柴崎友香の『寝ても覚めても』をはじめて読んだ。映画と小説はべつのものとして、それでも小説を読んで朝子という人がわたしのなかでかなり違う印象になった。まず、写真を撮る人であるということ。小説の朝子は人にカメラを向けることができ、しかも、麦が写真を撮られるのを一度嫌がったのに、思わず向けてしまい、そのあと麦は急に帰って来なくなってしまったのを「もしかして、麦が嫌いな写真を撮ろうとしたから帰ってこないんじゃないか」と考えた。映画では、朝子はもっと受動的にみえていた。麦は自分とは関係なくいなくなったし、麦を写真に撮りたいとは思っていないようだった。柴崎友香の小説は、主人公がカメラを使うことが多い。映画にカメラを持ち込むと話がよりややこしくなってしまうのかもしれないし、持ち込まなくても、朝子のみている麦をうつすことができるけれど、わたしが言いたいのは能動性のちがい。『PASSION』という題の映画を撮るくらいだし、濱口は受動性の偶然みたいなことに重きをおいているのかもしれない。「三人の麦がこっちを見ている視線に囲まれて、わたしが撮ろうと思って撮れなかった写真の、わたしの頭の中では何度もシャッターを押して想像していた写真の中の麦が時間を隔てて今ここに現れている、という気がしてきた。だけど、ここに映っているのは少なくとも数か月以内の麦で、写真を撮ったのはわたしじゃない人だった。麦はこの瞬間、どこを見ていたんだろう、と思うあいだに、エスカレーターは終わった」。春代の顔がすごく変わった、ということも麦&亮平との対比として重要だった。「春代は外見が変わったから、他人の顔の見え方も変わったのだろうか」。「最近、誰を見ても誰かに似ている気がする」。と思う朝子は、「ところできみたち、二人なの、一人なの、どっち?」という不意にテレビから聞こえてきた荒俣宏の声に驚愕する。人間の同一性はたいへんにもろいもので、カメラを通しているのでも時間の隔たりがあるのでもなく、今目の前に見えているということが、決定的に重要だった。映画の英題は「ASAKO Ⅰ&Ⅱ」なので、朝子もまた同一性が揺らいでいる。
 あとは、お茶っ葉に白カビをはやすほど部屋の片付けができないということ。これは瑣末なことだが、そこまで自分のことに頓着しない人だとはおもっていなかった。ハイブランドに憧れつつも、絶対に買わず、ユニクロですませているのも。
 でもやっぱり映画でより鮮明になったのは、声で、小説でさあちゃんとなっていたのを、あさちゃんで貫き通したのはすごく良かったと思う。最初映画館で見た時に、ほとんど呪いのような、「あさちゃん」という響きがあの映画の中でいちばん印象に残っていたし、いまもそうだ。恋人にちゃん付けで呼ばれるのはいいなあ、とのんきに思っていた。

 

 わたしはいま、音と家の外のぜんぶが、怖い。いままでにないレベルのパニックを起こしながら昨日までの三日間バイトに行っていた。歳をとっているのにどんどん怖いものがふえている。

2021-07-29(制作へ/多宇宙)

ぼくらは、当たり前のことだけれど、小説をひたすら巧みに練習しているだけでは、自ら死に向かう気持ちを、うまくくつがえすことができない。

『いぬのせなか座1号』の、感動的ですらある座談会1の冒頭近くにおかれた文章。これは、一月二十三日に『旅する練習』を読んで書いた、練習をしてすごすことは生き延びることである、ということと対立してしまう。でも、

矛盾するふたつの文章が並べられたとき、それらの裏側に、両者をつないでいる媒質がある、と。その媒質と、「私が私であること」は、近く対象が蝶番となることによって、重なる。知覚不可能でありながら、想起のなかで知覚につきまとってきていることを決して否定できない距離。

 

小説は、多宇宙のかたちづくる魂に向かって、行為する。なんのために?それは、「新たな距離」を、わずかでも操作できるようになるためです。生まれた瞬間の私と、死ぬ直前の私は、この多宇宙モデルだと、もしかしたら一秒後の私同士よりも、密集した距離のなかにいるかもしれない。銀河数個分しか離れていないかもしれない。けれど、なぜか、あまりに遠い。ぜんぜん飛び越えられそうにない。ましてや死んだあの人といま生きているらしいぼくとのあいだの距離なんて!そこでの距離は、魂のそれとして、メートルとも、また、線的な時間とも、別に測定されるのだろう。そこで用いられるべき単位が、「新たな距離」と呼ばれる概念の、ひとつの意味です。

 

小説を読んでいるとき、私はどこにいるのか。

 

今日読んだ橋本陽介の『ナラトロジー入門』には、
・日本語は物語世界の内部に語りの位置を移動させ、そこにいる人物に成り代わって語ることがよくみられる
・日本語で書く場合、私たちは物語世界の中に身を置いて物語を語っていくことが多い。従って、三人称小説であっても、語りの位置が物語世界の中に入り込みやすい
と書いてあった。本当にそうなのか。だとしたらなぜなのか。主語を明示しなくても文章が成立するから?たぶん語りの位置が中に入り込みやすいということは、読みの位置も中に入りやすいということだ。

 

昨日の夜に一息で読んだ(そういう読み方をするのは珍しい、し、適切だとは思わない)諏訪哲史の『アサッテの人』の、叔父の手記のなかに

この世界のすべてが、もう既に書かれてしまったもので、いまさら自分になにができるだろう。できるのはそれを読むことだけだ。

と書いてある。読み手であり続けるのも、案外気合のいることで、たぶん私たちはいつのまにか巻き込まれてしまう。『アサッテの人』は、語り手の私が叔父のようになってしまって終わるのかと思って読み進めていたが、そうはならなかった。

 

物語の登場人物になりきっていた。
読み手であることを忘れていた。
もう何年も前に、この物語を読むすべを知ろうと決めたのに。

もちろん二階堂奥歯はこの世界の一登場人物に過ぎない。
しかし、そのような二階堂奥歯が、「私」であるということ、その事実によってこの物語は読まれ始めた。
そして、世界という物語は読まれることによって立ち現れるのだ。

読むことが書くことである物語。
頁をめくることが次の頁を生み出すことになる物語。

一登場人物である二階堂奥歯が物語を動かすことはほとんどできない。
でも「私」には、その物語を読むこと、読みとること、読んで解釈することができる。

読むことを忘れていた。
読みとることを。紡ぎ出すことを。
世界を。この物語を。

美しさを読みとることによってはじめてこの物語は美しいものとして立ち現れる。
そのような「読み」は常に可能なわけではない。だから、だけど。
読み手であることを忘れてはいけない。覚えておきなさい。

すぐ忘れる二階堂奥歯へ。

2002年9月26日

 

 

 

2021-07-26(摩耗/夢の棲む/闘い)


気圧や気候や生理に伴うホルモンバランスや人との摩擦など、ぜんぶストレスといえばそれでかたづいてしまうのだが、それにしてもかつてない身体の異常が起こっている(おさまりつつある)ので動揺している。母はもっと動揺している。そのことにいまなお甘えている。

 

すぐに眠ってしまうので途切れ途切れになる文章をおう。山尾悠子のあまりにも完成された最初の作品「夢の棲む街」についての文章は、よくない出来のままに提出した。〈わたし〉ではうまく夢の街の光景が描けなかったから持ち出された〈夢喰い虫〉のバクもまた要所で眠ってしまう。垂直性の秩序によって保たれた街の犠牲となって歪められた畸型たちのイメージが残されるだけ。

 

きのうのBTM合評会でも、バトラーと精神分析の闘いについて議論になっていたが、精神分析に詳しくない人が「精神分析については詳しくないのですが…」と謙遜する前置きで神秘化してしまう身振りのことがずっと気になってしまう。たしかに精神分析において用いられる独特の用語・図式は人を遠ざけるのだが、そのことによって起こってきた学問の神秘化・規範化に切り込むというのがバトラーのえらいところであって、すくなくとも私は、難しいといって遠ざけることをなるべくしたくない。傲慢だろうか。

フロイトの独創性はどこにあるのか。肉体にかかわる内科医が器官を図式的に描くことができるように、精神にかかわるフロイトは、さまざまな臨床経験と思弁のなかから独力で、図式化できる器官にあたるものとしての精神を初めて構築した。つまり、フロイトの「心的装置」とは、身体解剖でいうところの「器官」にあたるものなのであって、抑圧機能[…]など彼のいう「心的機能」は、[…]身体器官の働きのアナロジーで考えられているのだ。こうすることによってフロイトは、人間精神をいわば機械的に〈修理〉しうる可能性へと至りえたのである。

 

三原弟平『ベンヤミン精神分析』48頁

だから同性愛など、〈正常〉から逸脱されるとみなされた〈病〉は修理されるべきだという発想になる。だから、フロイトを使いつつ、フロイトに抵抗していく、という作業が必要なのだ。

もし心的なものと身体的なものを再考するこの試みがうまく機能するなら、そのとき、解剖学的組織を、想像的図式の下に置くことを通じて何らかの仕方で価値化あるいは意味化された、揺るぎない指示対象と見なすことはもはや不可能になる。それどころか、ある意味では、解剖学的組織への接近可能性そのものが、この図式に依拠し、これと同時に生起するものなのである。この同時生起の結果として、レズビアンは同性「に属する」と言うことができるのか、あるいは同性愛一般は同一なものへの愛と解釈されるべきなのかは、私にとって明らかではない。もしセックスが常にこの意味で図式化されているとしても、そのとき、それがすべての女性にとって同じものであり続ける必然的理由は存在しない。心的なものと身体的なものの不可分性が示唆しているのは、科学の言説内部において慣習的と見なされている記述も含めて、身体のいかなる記述もこうした想像的図式の流通と認可を通じて生起する、ということである。

 

BTM、邦訳、88-89頁

 


どうやら茅野のツイッターアカウントが凍結(?)され、メアドも電話番号も登録していないあのアカウントに入れる日はこなさそう。ちょうど、あのアカウントについて扱いきれない部分が多くなっていたから、これはこれでよかったかもしれない。それにしてもネット空間の存在の儚さ。自分の一部分が失われたような寂寥がある。

 

2021-07-20(私の世界/演技/私)

 

  セカイ系と呼ばれうるもの(エヴァファイアパンチ)を見・読んで、女性主人公が愛する相手か世界の滅亡かを選ばなくてはならない設定の物語ってあるのだろうかという疑問がわいた。そのことを人に話したら、女性はそもそもそういった感情、世界がどうなってもいいから愛する人と共にいたいという感情がないから創作者も読者・観客もいないのではないかと言われた。はたして、そうなのだろうか。
  『ファイアパンチ』のトガタは、身体が女性のつくりだけど性自認は男性で、どれだけ強く長く生きても身体が女性だから物語の主人公になれないことを嘆いていた。その願いは果たされないことが分かったので、ひょうきんな強い女性を演じることを引き受け、願いを男性主人公に仮託し、カメラの前に立たせて演技させることで物語の作者になろうとした。でも結局は、主人公に裏切られ、物語の犠牲となって死んだ。どうしてここでトガタに希望を与えることができなかったのだろう。現に世界がそうだから? 現実世界の事実を虚構世界でなかったことにして還元することはできない。一方で、せめて虚構世界ではこうあって欲しいと願うことがいかに身勝手か、ということがこの物語の主題でもある。この物語はむしろ、現実の救いようのなさを提示することに意味があって、希望を与えたりするのはナンセンスである、と言われたらそれまでなのだが。
  では現にある差別や悪に、作品はどのような関わりかたができるのか。
  その人は、もし、望む物語がすでに作られていないのならば、自分でつくればいいのだと言った。同じようなことを二年前にも言われたことがある。小説内の差別を糾弾するのではない、違った形のフェミニズムの批評が可能なのか知りたい、といったら、それは批評よりも創作でしたほうがいいと言われた。私は最初から創作者になることを拒んでいるけれど、それは創作につきまとう実存の揺るがしを体験したくないからなのではないかと思う。作品の評価と私の人格への評価を私は切り分けて受け取ることができないだろう。

   フェミっぽいくせにこっち全否定/女の子じゃなくて自分じゃん
っていう大森靖子が作った歌詞は、巫まろに歌わせたものだ。この歌詞をきいたときに、私は、そうだと思った。フェミの力を借りて現行の制度に抵抗しているように見せかけているが、結局自分の利権が守られることが大事だとおもっているのではないか。フェミニストを名乗ることの躊躇いはないのだが、むしろフェミニズムという大義を盾にして私個人の利益しか望んではないのではないか。

2021-07-16(庭園の夏/やり直し/体力)

 


私には、夏そのものは美しいと感ずる前に怖しい。恐怖の第一要因は湿度、熱気と湿気の相乗性による不快感は、私から思考能力を完全に奪い去る。黴雨時の満員電車を想像するだけで嘔吐を催す。[…]
私の遊行逍遥するのはもつぱら言葉の王國、抽象の城館、庭園の夏であり、そこには「さらば」と囁くに足るかぐはしい晩夏も存在する。[…]私はクーラーを発明した天才に朝夕敬虔な祈りを捧げようと思ふ。冷房の中から見れば、たしかに「むかしの繪のやうにすぐ薔薇の花環の中で」休んでゐる村も遥かに存在する。季節の官能的な匂も、硝子越しに漂つてくる。

塚本邦雄「さこそは夏」『詞華美術館』

 

晝寝の後の不可思議の刻神父を訪ふ/中村草田男

 

恐ろしい夏に負けて見事に心身の均衡を崩し、ずっと泣いたり首のリンパを腫らしたりしている。

あまり考えないようになったから書かなくなった。考える時間をつくらないようにしている。考えるのは苦しい。そう書きつけたあとにペソアの『不穏の書・断章』を読んだらこんな一節があった。

なにも読まず、なにも考えず、眠りもしない。
自分のなかを、川床を流れる川のように人生が駆けてゆくのを感じる。
彼方には、外には、大いなる沈黙がある。まるで眠れる神のように。

私はひたすらやり直すことで人生を過ごしている。——だが、どこからやり直すのか。

 

 

山尾悠子のインタビューめあてで読んだ『幻想文学』の三号には、村上春樹のインタビューも載っている。彼の妻が澁澤の全集を所持するほどの幻想文学好きらしいのだが、彼は幻想文学というよりは、小説内の独自のシステムによって小説世界が駆動しているような作品が好きと言っていた。それに関しては全く同意できる。たとえば『手紙魔まみ』(さいきん古本屋で単行本を手に入れ大変嬉しい)を好きなのは、それが歌集としては異例の、まみという人格を借りた〈私性〉の虚構性によって貫かれているからだ。世界観といってもいい。大きなフィクションが読みたいと定期的に思っているのだが、それはその小説の世界へと帰りたい、あるいはもっと遠くへ行きたいというのと同義で、しかし今わたしにはその世界にいける体力がのこされていない。

2021-05-22(人/門/社会)


雨がつづき、ぐったりと横になっている時間が長い日々を過ごしている。いまは何も考えずに読めて満足感がある話を頭に流し込みたい気分なので、ミステリに分類されるものを読んでいる。恩田陸『ユージニア』、皆川博子『倒立する塔の殺人』、森博嗣すべてがFになる』。あと『三体』に取り掛かり始めた。


高二くらいのときに朝井リョウの『何者』を読んで以来、就活に対する恐怖しか持っていなかった。逃げ道を残しておきながらやったので、今から考えればそこまで追い詰められることもなかったが、人の尊厳や情緒を破壊していくシステムであることは間違いない。

 

・説明会だけ視聴してやめた→10社
・ESかテスト落ち→8社
・一次面接落ち→6社(1つGD含む)
・二次面接落ち→1社
・最終面接辞退→2社
・内定→2社
(計19社エントリー)

 

所感
・やりたいことよりは適性で仕事を選んだ。そしてそれは結構大事な気がする。適性診断テストやMBTIはあなどれない。まだ働いていないのでわからないが。
インターン、OBOG訪問は全く必須ではない。でも知人にはインターンからの早期選考で内定を得ていた人もいるので、早く始めて早く終わりたい人にはいいのかもしれない。
・二ヶ月半とたぶん短いほうだったが、これを半年、一年続けると確実に大学での勉強ができないと思う
・大学卒業したあとの一年で有給インターンをして、そのあと就職するというシステムになればいいのに。それが企業にとっても就職する側にとっても合理的。
・エージェントは申し込んだ方がいい。私は四月ごろからマ○ナビのサービスを使った(無料)。ESや面接の対策をしてくれるので効率が良いし、心の支えになる。結果的にエージェントの紹介ではないところに行くが、最初に紹介してくれたところでとりあえず内定を出せたので安心した。私を担当してくれた人はいい人で仕事できる人だったが、これも運かもしれない。
・大学のキャリアセンターは結局使わなかったけれど、エージェントかキャリアセンターかどちらかは使った方がいい。就活に関してわからないことを詳しい人にすぐに聞けるようにしておく方がいい。
・SPIやテストの対策はしなかったけど特に問題はなかった(たぶん)
・ESで求められるものがぜんぜん書けなかった。最初にESの提出求められるところは全部おちたので、途中からテストだけで面接に進めるところだけを受けた。結局正解のESがわからないまま終わった
・テンプレ質問をするところは、私に合わなかった。物事に対する考え方を聞いてくれるところはよかった
圧迫面接はなかった。不快な感じの人はいた。
ジェンダーセクシュアリティに関することを勉強していました、というと、その企業の考え方もわかって、それに難色を示す企業はこちらから願い下げなので良い指標になった。
・若い面接官の方が、大学での勉強内容に興味がなさそう(それが何の役にたつのでしょう?という態度)で、これからの大学の意義を憂えた
・ひとつだけコンサルの会社を受けたが、ケース面接は結構楽しかった。だがコンサルになる体力は私にはないだろうと思った
・面接は逆質問が大事。それを知らなかった四月半ばまでの私は、ふつうに「ないです!」とか言ってた。事業内容について質問し、それにどう関わりたいのかをアピールしなければならない。
・web説明会・面接がほとんどで楽だった。内定のところは最後までwebだったのでオフィスに行ってない。ライティングとかカメラ位置とか特に気にしなかったけどべつにそれで大丈夫だった。鞄や靴を新たに揃える必要がいし、交通費もかからないので楽だった。