2021-07-16(庭園の夏/やり直し/体力)

 


私には、夏そのものは美しいと感ずる前に怖しい。恐怖の第一要因は湿度、熱気と湿気の相乗性による不快感は、私から思考能力を完全に奪い去る。黴雨時の満員電車を想像するだけで嘔吐を催す。[…]
私の遊行逍遥するのはもつぱら言葉の王國、抽象の城館、庭園の夏であり、そこには「さらば」と囁くに足るかぐはしい晩夏も存在する。[…]私はクーラーを発明した天才に朝夕敬虔な祈りを捧げようと思ふ。冷房の中から見れば、たしかに「むかしの繪のやうにすぐ薔薇の花環の中で」休んでゐる村も遥かに存在する。季節の官能的な匂も、硝子越しに漂つてくる。

塚本邦雄「さこそは夏」『詞華美術館』

 

晝寝の後の不可思議の刻神父を訪ふ/中村草田男

 

恐ろしい夏に負けて見事に心身の均衡を崩し、ずっと泣いたり首のリンパを腫らしたりしている。

あまり考えないようになったから書かなくなった。考える時間をつくらないようにしている。考えるのは苦しい。そう書きつけたあとにペソアの『不穏の書・断章』を読んだらこんな一節があった。

なにも読まず、なにも考えず、眠りもしない。
自分のなかを、川床を流れる川のように人生が駆けてゆくのを感じる。
彼方には、外には、大いなる沈黙がある。まるで眠れる神のように。

私はひたすらやり直すことで人生を過ごしている。——だが、どこからやり直すのか。

 

 

山尾悠子のインタビューめあてで読んだ『幻想文学』の三号には、村上春樹のインタビューも載っている。彼の妻が澁澤の全集を所持するほどの幻想文学好きらしいのだが、彼は幻想文学というよりは、小説内の独自のシステムによって小説世界が駆動しているような作品が好きと言っていた。それに関しては全く同意できる。たとえば『手紙魔まみ』(さいきん古本屋で単行本を手に入れ大変嬉しい)を好きなのは、それが歌集としては異例の、まみという人格を借りた〈私性〉の虚構性によって貫かれているからだ。世界観といってもいい。大きなフィクションが読みたいと定期的に思っているのだが、それはその小説の世界へと帰りたい、あるいはもっと遠くへ行きたいというのと同義で、しかし今わたしにはその世界にいける体力がのこされていない。