2021-07-20(私の世界/演技/私)

 

  セカイ系と呼ばれうるもの(エヴァファイアパンチ)を見・読んで、女性主人公が愛する相手か世界の滅亡かを選ばなくてはならない設定の物語ってあるのだろうかという疑問がわいた。そのことを人に話したら、女性はそもそもそういった感情、世界がどうなってもいいから愛する人と共にいたいという感情がないから創作者も読者・観客もいないのではないかと言われた。はたして、そうなのだろうか。
  『ファイアパンチ』のトガタは、身体が女性のつくりだけど性自認は男性で、どれだけ強く長く生きても身体が女性だから物語の主人公になれないことを嘆いていた。その願いは果たされないことが分かったので、ひょうきんな強い女性を演じることを引き受け、願いを男性主人公に仮託し、カメラの前に立たせて演技させることで物語の作者になろうとした。でも結局は、主人公に裏切られ、物語の犠牲となって死んだ。どうしてここでトガタに希望を与えることができなかったのだろう。現に世界がそうだから? 現実世界の事実を虚構世界でなかったことにして還元することはできない。一方で、せめて虚構世界ではこうあって欲しいと願うことがいかに身勝手か、ということがこの物語の主題でもある。この物語はむしろ、現実の救いようのなさを提示することに意味があって、希望を与えたりするのはナンセンスである、と言われたらそれまでなのだが。
  では現にある差別や悪に、作品はどのような関わりかたができるのか。
  その人は、もし、望む物語がすでに作られていないのならば、自分でつくればいいのだと言った。同じようなことを二年前にも言われたことがある。小説内の差別を糾弾するのではない、違った形のフェミニズムの批評が可能なのか知りたい、といったら、それは批評よりも創作でしたほうがいいと言われた。私は最初から創作者になることを拒んでいるけれど、それは創作につきまとう実存の揺るがしを体験したくないからなのではないかと思う。作品の評価と私の人格への評価を私は切り分けて受け取ることができないだろう。

   フェミっぽいくせにこっち全否定/女の子じゃなくて自分じゃん
っていう大森靖子が作った歌詞は、巫まろに歌わせたものだ。この歌詞をきいたときに、私は、そうだと思った。フェミの力を借りて現行の制度に抵抗しているように見せかけているが、結局自分の利権が守られることが大事だとおもっているのではないか。フェミニストを名乗ることの躊躇いはないのだが、むしろフェミニズムという大義を盾にして私個人の利益しか望んではないのではないか。