気圧や気候や生理に伴うホルモンバランスや人との摩擦など、ぜんぶストレスといえばそれでかたづいてしまうのだが、それにしてもかつてない身体の異常が起こっている(おさまりつつある)ので動揺している。母はもっと動揺している。そのことにいまなお甘えている。
すぐに眠ってしまうので途切れ途切れになる文章をおう。山尾悠子のあまりにも完成された最初の作品「夢の棲む街」についての文章は、よくない出来のままに提出した。〈わたし〉ではうまく夢の街の光景が描けなかったから持ち出された〈夢喰い虫〉のバクもまた要所で眠ってしまう。垂直性の秩序によって保たれた街の犠牲となって歪められた畸型たちのイメージが残されるだけ。
きのうのBTM合評会でも、バトラーと精神分析の闘いについて議論になっていたが、精神分析に詳しくない人が「精神分析については詳しくないのですが…」と謙遜する前置きで神秘化してしまう身振りのことがずっと気になってしまう。たしかに精神分析において用いられる独特の用語・図式は人を遠ざけるのだが、そのことによって起こってきた学問の神秘化・規範化に切り込むというのがバトラーのえらいところであって、すくなくとも私は、難しいといって遠ざけることをなるべくしたくない。傲慢だろうか。
フロイトの独創性はどこにあるのか。肉体にかかわる内科医が器官を図式的に描くことができるように、精神にかかわるフロイトは、さまざまな臨床経験と思弁のなかから独力で、図式化できる器官にあたるものとしての精神を初めて構築した。つまり、フロイトの「心的装置」とは、身体解剖でいうところの「器官」にあたるものなのであって、抑圧機能[…]など彼のいう「心的機能」は、[…]身体器官の働きのアナロジーで考えられているのだ。こうすることによってフロイトは、人間精神をいわば機械的に〈修理〉しうる可能性へと至りえたのである。
だから同性愛など、〈正常〉から逸脱されるとみなされた〈病〉は修理されるべきだという発想になる。だから、フロイトを使いつつ、フロイトに抵抗していく、という作業が必要なのだ。
もし心的なものと身体的なものを再考するこの試みがうまく機能するなら、そのとき、解剖学的組織を、想像的図式の下に置くことを通じて何らかの仕方で価値化あるいは意味化された、揺るぎない指示対象と見なすことはもはや不可能になる。それどころか、ある意味では、解剖学的組織への接近可能性そのものが、この図式に依拠し、これと同時に生起するものなのである。この同時生起の結果として、レズビアンは同性「に属する」と言うことができるのか、あるいは同性愛一般は同一なものへの愛と解釈されるべきなのかは、私にとって明らかではない。もしセックスが常にこの意味で図式化されているとしても、そのとき、それがすべての女性にとって同じものであり続ける必然的理由は存在しない。心的なものと身体的なものの不可分性が示唆しているのは、科学の言説内部において慣習的と見なされている記述も含めて、身体のいかなる記述もこうした想像的図式の流通と認可を通じて生起する、ということである。
BTM、邦訳、88-89頁
どうやら茅野のツイッターアカウントが凍結(?)され、メアドも電話番号も登録していないあのアカウントに入れる日はこなさそう。ちょうど、あのアカウントについて扱いきれない部分が多くなっていたから、これはこれでよかったかもしれない。それにしてもネット空間の存在の儚さ。自分の一部分が失われたような寂寥がある。