イメージの構築と破壊  山尾悠子「夢の棲む街」について

学部四年の春に書いたものです。時間がなくけっこうやっつけ仕事的に書いてしまった気がします

 

誰かが私に言ったのだ/世界は言葉でできていると*1——山尾悠子の小説世界を表す言葉として有名になった一節である。言葉によって架空の世界を構築し、かつ崩壊させること。 山尾悠子の最初の小説作品「夢の棲む街」(1976 年)*2は、いかなる仕掛けをもってそのカタストロフへと雪崩れ込むのか。

 

垂直の街の

 

この小説は十片の断章からなる。まずその始め、〈夢喰い虫〉のバクは街の中心部にある劇場の奈落から這い出し、目眩をおこしながら⻑い階段をのぼる。冒頭数行の描写からわかるように、この小説における一つの重要なモチーフは、垂直性の構造と運動である。「街は、 浅い漏斗型をしている」(9)。著者の当時住む京都と似た地形をもつ街が舞台である。その漏斗の底には劇場があり、その「劇場を中心として海星の脚のように放射状に走る無数の街路が、ゆるい傾斜で四方へ徐々にせり上がってゆき、漏斗の縁に当たる部分で唐突に跡切れ ている」(9)。さらにその劇場は円形の広場を有し、底に舞台があり、それを囲むようにすり鉢状の客席が配置される。つまり「街の構造を模して設計され」(12)ている。さらに舞 台の地下にはどこまでも奈落が続いている。そのように垂直方向に広がり続ける街の中で、 上下運動を繰り返しているのが〈夢喰い虫〉たちである。街に噂を広める使命をもつ虫たち は、夕暮れ時になると、その日収集した噂を街の最上部=円周に這い上り、風にのせて流す。〈夢喰い虫〉たちをはじめとして、この小説には畸型の生物のイメージが多く登場するのだが、それらはまるで、垂直性の秩序を保つ街の犠牲として歪められてしまったようなのだ。

 バクが棲みつく娼館——娼館およびマダムのイメージは金井美恵子の「春の画の館」に触 発されたと著者は明かしている*3——には天使と人魚がいる。両者とも性別の問題が畸型で あることに関わる。両性具有のイメージで語られることの多い天使は、ここでは狭い屋根裏 部屋で生殖を繰り返した果てに、癒着しあってひとつの塊と化している。人魚は地下にいて お客をとるので、どうやら女であるらしい。人魚もまた、現れた途端にくずおれてしまう。 そして〈薔薇色の脚〉。もとは街の乞食や浮浪者、街娼であった女たちを、劇場の演出家は〈薔薇色の脚〉に仕立て上げる。「見事に発達して脂ぎった下半身の、常人の二倍はある骨 盤の上に、栄養不良のため異様に痩せて縮んだ上半身が載っている畸型的な体軀は、見る者にある圧倒的な意志——この人工的畸型を造り出した者の偏執的な意志を、感じさせた」 (13)。コトバを吹き込むことによって歪められた断片的な身体は、見せ物として最適化さ れたうえに、劇場の底の舞台で死を迎える。ここに、小谷真理は「女性に与えられた極度の 暴力が召喚する幻想時間」を読み取っている*4。天使、人魚、〈薔薇色の脚〉はいずれも、外 から街へと連れてこられ、虐げられた。唯一、噂ですら来歴のわからない侏儒が、皆一⻫に下降する最後のカタストロフの中で上昇することができる。

 

誰かが私に言ったのだ

さて、冒頭に掲げた一節。意外なことに山尾は「比重はもちろん一行目のほうにある」*5という。誰かが私に言ったのだ、つまり伝聞による虚構の構築は、この小説では〈夢喰い虫〉 の暗躍がなしている。「街の噂によれば」と繰り返される前置きにより、発話主体の不明な 言葉は浮遊する。吉本隆明は「マス・イメージ論」で、ポオの「メエルシュトレエムに呑まれて」と比較しながら「夢の棲む街」をこう評している。

わたしたちは「夢の棲む街」の空想に、ありきたりの推理小説よりも豊かな〈推理〉の 現在における解体の姿をみている。もう現在の世界ではポオの作品が具現しているよ うな、世界把握の既存性が未知を手さぐりする語り手の冒険、いわば理性と想像力によ る弁証法的な冒険と遭遇するといった〈推理〉を描くことはできない。わたしたちは〈世界〉を把握しようとする。すると未知をもとめるわたしたちの現実理性と想像力はこの 〈世界〉に到達するまえに、その距離のあまりの遠さに挫折するほかなくなっているのだ*6

ここでいう推理とは、〈連鎖〉〈累積〉〈分岐〉をもとにして言語による認識をおこなう主体 が可能なことをいう。主な視点となるバクは、いつも肝心なところで睡魔に襲われ、出来事 の成り行きを最後まで見届けることができない。そのため後に残されるのは、ただ断片的な イメージ。私たちは街とそこに棲む生物の途切れ途切れの情報しか知ることができない。「自分がもう〈夢喰い虫〉でなくなってしまった」(53)と知っているバクは、「自分の好奇 心を満たすためだけに」(57)劇場の地下へと降り、正体のわからない〈あのかた〉の名 最後に呼ぶ。とたんに、劇場の崩壊へと巻き込まれるのである。
 後年、山尾悠子は「漏斗と螺旋」*7という短篇を書く。「初めて物語を、小説を書き始めた とき、〈わたし〉の物語を書こうとした。人称代名詞抜きの一人称の文体で夢の棲む街の光 景や出来事を書き記そうとして、たちまち躓いた。そこで〈ドングリのような体型〉の〈夢 喰い虫〉に片仮名の名を与え、穴に落ちたり立ち眩みをおこさせるうち、初のささやかな短篇が出来た」。〈わたし〉による世界の把握は、幾重にも遠ざけられた夢の街でその創造と崩 壊を目の当たりにすることになるだろう。

*1:山尾悠子「遠近法・補遺」『夢の遠近法』、ちくま文庫、2014 年、386 頁。

*2:山尾悠子「夢の棲む街」『夢の遠近法』、前掲書。以下この小説からの引用は本文中の括弧内に頁数のみ を示す。

*3:石堂藍山尾悠子̶̶絢爛たる空虚」『山尾悠子作品集成』、国書刊行会、2001 年、737 頁

*4:小谷真理「脚と薔薇の日々」、『山尾悠子作品集成』の栞より。ちなみに近年の山尾悠子再評価の流れに おいて、〈幻想〉の一言で片付けられていた作品をフェミニズム的文脈から掬い上げる試みも出てきてい る。例えば川野芽生「呪われたもののための福音——『ラピスラズリ』評」『夜想#山尾悠子』、ステュデ ィオ・パラボリカ、2021 年、108-126 頁。

*5:著者による自作解説、『夢の遠近法』、前掲書、417 頁。

*6:吉本隆明「推理論」『マス・イメージ論』、講談社文芸文庫、2013 年、73 頁

*7:山尾悠子「漏斗と螺旋」『群像』2020 年 1 月号、講談社、72-80 頁