2021-08-12(カメラの眼/能動/おそれ)

 

   濱口竜介の『寝ても覚めても』の二回目をみて、そのあと柴崎友香の『寝ても覚めても』をはじめて読んだ。映画と小説はべつのものとして、それでも小説を読んで朝子という人がわたしのなかでかなり違う印象になった。まず、写真を撮る人であるということ。小説の朝子は人にカメラを向けることができ、しかも、麦が写真を撮られるのを一度嫌がったのに、思わず向けてしまい、そのあと麦は急に帰って来なくなってしまったのを「もしかして、麦が嫌いな写真を撮ろうとしたから帰ってこないんじゃないか」と考えた。映画では、朝子はもっと受動的にみえていた。麦は自分とは関係なくいなくなったし、麦を写真に撮りたいとは思っていないようだった。柴崎友香の小説は、主人公がカメラを使うことが多い。映画にカメラを持ち込むと話がよりややこしくなってしまうのかもしれないし、持ち込まなくても、朝子のみている麦をうつすことができるけれど、わたしが言いたいのは能動性のちがい。『PASSION』という題の映画を撮るくらいだし、濱口は受動性の偶然みたいなことに重きをおいているのかもしれない。「三人の麦がこっちを見ている視線に囲まれて、わたしが撮ろうと思って撮れなかった写真の、わたしの頭の中では何度もシャッターを押して想像していた写真の中の麦が時間を隔てて今ここに現れている、という気がしてきた。だけど、ここに映っているのは少なくとも数か月以内の麦で、写真を撮ったのはわたしじゃない人だった。麦はこの瞬間、どこを見ていたんだろう、と思うあいだに、エスカレーターは終わった」。春代の顔がすごく変わった、ということも麦&亮平との対比として重要だった。「春代は外見が変わったから、他人の顔の見え方も変わったのだろうか」。「最近、誰を見ても誰かに似ている気がする」。と思う朝子は、「ところできみたち、二人なの、一人なの、どっち?」という不意にテレビから聞こえてきた荒俣宏の声に驚愕する。人間の同一性はたいへんにもろいもので、カメラを通しているのでも時間の隔たりがあるのでもなく、今目の前に見えているということが、決定的に重要だった。映画の英題は「ASAKO Ⅰ&Ⅱ」なので、朝子もまた同一性が揺らいでいる。
 あとは、お茶っ葉に白カビをはやすほど部屋の片付けができないということ。これは瑣末なことだが、そこまで自分のことに頓着しない人だとはおもっていなかった。ハイブランドに憧れつつも、絶対に買わず、ユニクロですませているのも。
 でもやっぱり映画でより鮮明になったのは、声で、小説でさあちゃんとなっていたのを、あさちゃんで貫き通したのはすごく良かったと思う。最初映画館で見た時に、ほとんど呪いのような、「あさちゃん」という響きがあの映画の中でいちばん印象に残っていたし、いまもそうだ。恋人にちゃん付けで呼ばれるのはいいなあ、とのんきに思っていた。

 

 わたしはいま、音と家の外のぜんぶが、怖い。いままでにないレベルのパニックを起こしながら昨日までの三日間バイトに行っていた。歳をとっているのにどんどん怖いものがふえている。