2021-11-06(視力/見通し)


何度か書こうとはしたけれど、十月は一度も書けなかった。去年もこの時期の更新が全然なくて、悪い季節なのだと納得する。このままずるずると書けなくなっていくのでどんなにつまらなくても書いてみることにする。

 

目を酷使するので視力が落ちてしまった。右が0.5で左が1.0。もっと悪くなってきているかもしれない。右は斜視があるからより疲れやすいらしい。遺伝もあるし、なんとなくまだ大丈夫だろうと思っていた。視力の低下は不可逆なところが恐ろしい。くっきりと見えていた世界はもう二度と見ることができない。考えてみれば世界は不可逆なことで溢れているのに、目という器官に頼り切って、目を通してしか世界を認識していないかもしれないから、それが見えなくなってしまうのは本当に怖い。

 

この一ヶ月はわりと人に会った。私はその人たちの前で身体の硬さを変えた。

 

卒論はこれまで内容についてまったく指導が受けられない状況だったのだが、精神分析が専門のひとにみてもらうことができ、大学生活であんなに望んでいた添削を受けることができ、嬉しい反面、プレッシャーもかかっている。もう少し早く見て貰えばよかった。あと一ヶ月くらいでどこまで辿り着けるのだろう。長い期間をかけて長い文章を書くというのは初めてのことなので、なかなかやり方が掴めず、十月前半は書かなくちゃいけない、でも何にもできない、と本当にうつうつとしていた。いまは、約一時間区切りで一日に三〜五時間程度でやるペースが、集中力の続かない私にとってよいのだとわかってきた。あと一日まったく何もやらない日はもう作らないほうが良い。
本を読むことと書くことのバランスも難しく、最初はいろんな本を読んでばっかりで、どんどん拡散してしまっていた。そのアイデア出しも重要ではあったけれど、セーブポイントとして文章を書くのも大事。論文の文章が書けないときは、せめて重要な文献のレジュメをつくると、自然と文章も進むようになる。ここ数日でわかったことだ。
大学院にいけばいいのに(もったいない)というようなニュアンスで言われてしまうと、もう決めたのだから困惑するけれど、働いてみて、やっぱり研究がしたいと思ったら、いつでも戻れるような状況(語学とか、そもそも文章になれておくこととか)にはしておきたいと思うようになった。でも承認のために研究するようではだめだろう。承認の場があると承認されにいってしまうから、ひとりでやるのがいいのかもしれない。研究のことを神聖視しすぎだろうか。

 

日本のSFの名作が家に揃ってきた。飛浩隆の『グラン・ヴァカンス』はわりと好みの作風だったので(イメージの構築と破壊をやる作品が好きなので)、『ラギッド・ガール』も買った。本当に、つねに論文を書いているような人はどうやっていつ研究に関係ない本を読んでいるのか?今日は四時間近くやってたけど、字数的には1000字もすすまなかった。