個を引き受けること——松浦理英子の小説における「対話性」

学部二年の夏に書いたものです。はじめてまともに書いたレポートかもしれない。

 

はじめに

松浦理英子は一九七八年に『葬儀の日』で文學界新人賞を受賞してデビューした作家である。松浦の作品においては、エッセイや対談、インタビューなどで語られる松浦自身の考えを、小説内の人物が代弁しているかのように読まれることも多く、「非−性器的恋愛」といった既成のジェンダー観への批判としての作品に注目する評が多い。本稿ではいくつかのキーワードに注目し[1]、『犬身』を中心にしながら松浦作品を論じたい。

 

境界と反転

 八束房恵は「犬になりたい」という願望を持つ女性だが、この「犬になりたい」という願望は、実は複数の要素を持っている。まずは「人間は面倒臭い」ということ。その理由としては、房恵は久喜以外に友達らしい友達を持っていないことと、その久喜との間でも関係は停滞しており、かといって離れて行こうとすると久喜は動揺するであろうことが予想できること、そんな人間の機微を推し量ることへの「面倒臭さ」が描写されている[2]。ところで松浦は、性器中心主義を一貫して批判している。ついでのようだがここに付け加えておくと、久喜の臍のゴマをとるシーンにおいて、臍の描写をすることは房恵の「匂い」に対する考え方を描写するとともに、女性器でも肛門でもない「穴」を描いているのではないだろうか。
 次に、好きであるあまりに対象と同一化したいということ。犬になるというのは一見突飛な発想にも思えるかもしれないが、人間同士ならば相手を好きなあまりに相手と同一化したいという願望は特に珍しくもなく、むしろ性行為というのはそうした感情の結果とも言える。しかし、愛する対象そのものになるということは、愛する主体がなくなるということでもある。実際、房恵が犬になった場面では、自分は自分に触れることができないということを悲しみ、できるだけ触れようと体を丸める[3]。そこで別の愛する主体を導入する必要がある。それが玉石梓なのだ。房恵の願望は「玉石梓の犬になりたい」ということになる[4]。こうした、愛する対象と主体の問題は、房恵と梓の会話において考察される。梓は房恵の犬への接し方を「犬と存在を混じり合わせようとしてる」ように思えると言い、それを受けて房恵は、自分の犬化願望は「つまるところ、犬と混じり合いたいということなのかもしれない、と今思いました」と言う。犬になることと犬と混じり合うということは微妙に異なっている。犬になることは個を保存したままに自己/他者を反転させることであり、混じり合うことは自己/他者の境界をなくすことである。種同一性障害というからには、房恵は犬と人間の魂が混在していることに違和を感じているのであるし、結局犬になることを選ぶ。そして梓はそのどちらの願望も持つことはなく「犬は自分とは別のものでなければ困る[5]」と言っている(物語終盤で、人間は面倒臭いという理由から「犬になりたい」と冗談めかせて言うシーンはある)。
 『葬儀の日』においても、泣き屋と笑い屋は混じり合うということはない。彼女たちは常に皮膚や川といった境界によって隔てられている。基本的に私=泣き屋の語りですすむ小説だが、「彼女」(=笑い屋)が「私」として夢について語り出す場面がある。笑い屋は、写真に私(=笑い屋)が写っているのを見たときに目に入った自分の体が、自分のものではないことに気がつき、鏡を見るとそこには自分ではないものが映る。写真には「私の物であるはずの私の顔」が写っているが、それが出てくると「あなた」の声で笑う[6]。写真と鏡に隔てられた彼女から私、そしてあなたへの反転が起こっているのである。

 

対話性

 すでにみたように、房恵は自分の気持ちについて、他者との会話において考えを深めていく。小学生の頃から「私は犬です」(ここでは「犬になりたい」ではない。自我の確立されていない子供の時点では同一化してしまっていたのだろうか)という作文に書いていたが、体は人間だけれど魂は半分くらい犬なのではないか、ということには久喜に言われて「腑に落ち[7]」る。『奇貨』でも、本田はどうやら男社会には馴染めないらしいと思案するが、それは〈受け〉なのだと七島に指摘されることで「胸のつかえがさっぱりと下り[8]」る。他者に指摘される=対話を行うことで、自らの内面に気がつくということである。また、対話というときに気をつけなければならないのは「内省」と区別されるべきだということである。つまり、対話は自分以外の個体としての他者がいてはじめて成り立つものである。一方で、松浦は「自分の中で一人二役していることと、あるいは現実の誰かにその役をふりあてて会話するのと、もしかしたらその本質は同じかもしれない。[…]「私と他者」という図式そのものがおかしいのではないか[9]」とも言っていて、対話は自己のみでも行われうるかもしれないが、その場合一人二役であるということ、つまり決して、一人きりでの内省ではないということだ。
 松浦作品においては会話部分が作中人物をよく表し、魅力的にしている。房恵は、梓との「お喋りはじゃれ合うことに似てる」として「自分で話していても話の内容以上に、梓に話しかけ耳を傾けてもらっていることが楽しい[10]」と感じている。朱尾との「深い意味のないことば遊びめいたやりとり[11]」には親近感を覚えているし、犬になってからは朱尾以外にことばをやりとりできる相手がいないため、朱尾に会うと「ことばをやりとりできて嬉しい[12]」と感じている。彬は「人間同士の会話でこれほど話が噛み合わない[13]」ことってあるんだろうか、とフサが思うくらいには会話ができない(つまらない)人物として描かれているし、梓の父親も「たぶん会話が苦手そう[14]」である。会話能力(内容に関わらないことばのやりとりをする能力)そのものが人間の魅力であると房恵は考えていて、それはおそらく松浦の考えであると言ってもいいだろう[15]
 犬に変身してからは、徐々に玉石家の醜悪な実態が明らかにされていく。フサは基本的には梓とともに行動しているので、梓が家族と交わす会話を「立ち聞き」することになる。物語は基本的には三人称をとるが、フサの視点から描写は成される。よって、フサの視点から見た世界を読者は見ることになるが、フサは「夢うつつの世界」で、再び朱尾に語り直して「論評」する。つまり、作中にすでに朱尾という読者の役割を果たすものが存在しているのである。また、梓のメールや彬の妻のブログなど、他にも(広義の)作中作の要素が組み込まれている。『犬身』以外の作品においても、松浦は作中作の構造を組み込むことが多い。『ナチュラル・ウーマン』の容子と花世は漫画を描くし、『裏バージョン』は前半部分がほとんど昌子による小説であるし、『奇貨』でも、本田が私小説家として明らかに読者に呼びかけているような描写があり、「奇貨」自体を本田の私小説としてみることも可能だろう。作中作をとるということは、作中に作者と読者が存在するため、松浦という作者と私たち読者を遠ざける効果をもつ。それによって、「どうせ自分が書いているんじゃないからいいや[16]」と松浦が小説を書きやすくなるということもあるだろうし、私たちは、これは松浦の考えではなく作中人物の考えなのだということに注意しなければならない(と松浦に釘を刺されている)。
 また、作中作を小説に組み込むことは、別の視点を織り込むということでもある。梓のメールは、フサには知り得ない梓の考えを梓自身のみが語りうるものであり、ブログはブログの書き手のみが語りうるものだ。対話とは内省と区別されるものであり、同時に代弁しないということでもある。しかし、ブログというインターネット空間に匿名で放たれた文章では、視点を乗っ取って代弁するということが可能になる。彬が書いたのかもしれないブログは、「出来事を梓の立場に立って倒錯的に反芻し、好き放題に書[17]」かれたものである。フサ=読者はそれが梓によって書かれたものではないことを知っているが、結局のところ、彬が書いたのか母親が書いたのかははっきりとは明かされない。書き手のわからない文章はグロテスクな危うさをもったものとして描写され、あくまで肉体をともなった発話が対話の条件となっている[18]。作中の会話としての具体的な対話と、作品の構造としての対話性[19]。この二つの対話性が、松浦の主題とされる「関係」を描くうえで重要な要素となっている。

 

 

 

[1] 「通りのいいキーワードを使って何か言ったつもりになる」(『おカルトお毒味定食』河出文庫、一九九七年、四六頁)ことを松浦は批判している。

[2] 『犬身』朝日文庫、二〇一〇年、上巻・三一頁

[3] 『犬身』上巻・一七一−一七二頁

[4] Cf.内藤千珠子「わたしは犬になり、あなたはわたしになる」『小説の恋愛感触』みすず書房、二〇一〇年、三九−四〇頁

[5] 『犬身』上巻・七〇−七一頁

[6] 『葬儀の日』河出文庫、一九九三年、四六−四七頁

[7] 『犬身』上巻・二七頁

[8] 『奇貨』新潮文庫、二〇一五年、三一頁

[9] 「作品をいじるより、作品にいじられるために」後藤繁雄『彼女たちは小説を書く』メタローグ、二〇〇一年、二一九頁

[10] 『犬身』上巻・七一頁

[11] 『犬身』上巻・八五頁

[12] 『犬身』上巻・二〇七頁

[13] 『犬身』上巻・二三九頁

[14] 『犬身』上巻・二七〇頁

[15] 「小説の中の会話は物語を進めたり滞らせる働きがあったり、あるいは、人物を表現する手段になったりもしますけれど、『奇貨』ではそういう働き以上に、会話そのものが描写する価値のあるものだと思って書いていました」(「それぞれの孤独に寄り添って」『新潮』新潮社、二〇一二年十月、二五二頁)

[16] 『彼女たちは小説を書く』二一三−二一五頁。

[17] 『犬身』下巻・一一二頁

[18] ここで、金井美恵子のテクストの「よるべのなさ」と対比することも可能だろう。他にも、金井が「吐き気」であるのに対して、松浦は「嘔吐」(『犬身』では「犬形ゲロ噴射銃」、『葬儀の日』終盤での老婆の嘔吐)であり、一文の長さも対照的であるなど、対比できる項がいくつかあると考えたが、うまくまとめることができなかった。

[19] Cf.『彼女たちは小説を書く』二一一頁