星座から万華鏡へ ベンヤミンのアレゴリー論

学部三年の夏に期末レポートとして書いたものです。いまみるとかなり拙く、もっと書き込むべきと思いますが、拾っているポイント自体はいまも興味のあることなので、いろいろ読んでからいつか書き直せたらいいなあと思っています。

 

1.はじめに

 

本稿では、ヴァルター・ベンヤミンのアレゴリー論について、『ドイツ悲劇の根源』といくつかのボードレール論を中心に読解する。バロックのアレゴリーを記述する際に用いた「星座」という比喩と、近代のアレゴリーを記述する際に用いた「万華鏡」という比喩に注目しながら、アレゴリーのもつ作用について考察していきたい。

 

2.バロックのアレゴリー

 

 『ドイツ悲劇の根源』の認識批判的序章において、ベンヤミンは理念と事物(=諸現象)の関係を星座と星の関係に喩えている。「この比喩が何よりもまず語っているのは、理念とは事物の概念でもなければ事物の法則でもない」*1ということだ。星座という普遍のものが一つ一つの星によって構成されているように、モナド的理念は個々の諸現象によって構成 されており、ベンヤミンの目的は「諸現象の救出と諸理念の叙述とを、同時に果たす」*2ことである。ここでのモナドという表現はもちろん、ライプニッツに由来する。ライプニッツはバロック時代の哲学者だが、ここで重要なのは、諸々の理念=モナドがそれぞれひとつの世界の像をあらかじめ含むという考え方である。すなわち、この予定調和的な総体性がバ ロックのひとつの特徴である。

 バロックのアレゴリーはまず、象徴との対比において考えられる。ゲーテは、アレゴリーは普遍なもののために特殊なものを求めること、象徴は特殊なもののなかに普遍なものを見ることとした。ゲーテは「文学の本性」を象徴の方に見ており、アレゴリーには否定的な見方をした。ベンヤミンはこのようなロマン主義的な考えに反駁する。クロイツァーは、象徴には「瞬間的総体性」が存在する一方、アレゴリーには「一連の諸契機のうちに時間的進行が見られる」とし、「神話を包括するのはアレゴリーなのであって、象徴ではない」*3とする。ベンヤミンはこの時間性の違いに注目して、「象徴においては、没落の変容とともに、 自然の変容して神々しくなった顔貌が、救済の光のなかに一瞬みずからを啓示するのに対して、アレゴリーにおいては、歴史の死相が、硬直した原風景として、見る者の目の前に横たわっているのである」*4という。バロックのアレゴリーは、キリスト教的世界観の影響を受けながらも、その歴史が「屍体」となってあらわになるような、断片的な廃墟のイメージを見せる。「不自由さ、未完成さ、そして断片性を認めることは、古典主義にはその本質か らして当然拒まれていた。だが、まさにそうした点こそを、バロックのアレゴリーは、そのとてつもない華美にくるんで隠しながら、以前には予感さえされなかったほどに強調しつつ呈示するのである」*5。ここで、最初に提示したライプニッツの神学的な予定調和の総体性からはややずれてきていることがわかるだろう。アレゴリーは予定調和の最善世界よりはむしろ、調和が崩壊した後の断片を示す。それは後述するように、万華鏡のごとき様相を呈することになるだろう。

 

3.モデルニテのアレゴリー

 廃墟をみせる十七世紀バロックのアレゴリーからさらに進んで、近代におけるアレゴリーをベンヤミンは後年記述した。ボードレールの『悪の華』の構造についても、ベンヤミン はモナドという表現を用い*6、いくつかの共通点は見られるものの、「ボードレールのアレゴ リーはバロックのそれと異なり、この世界に侵入しその調和的な形成物を粉砕するために必要であった憤懣の痕跡を帯びている」*7。ここで明確にわかるように、世界の調和を粉砕するような作用をもつものが、近代におけるアレゴリーである。そこで登場したのが万 華鏡の喩えだ。「万華鏡を回転させるごとに、秩序だっていたものが全部崩れて新しい秩序が作られる。このイメージにはそれなりの根本的な正当性がある。支配者たちがもっていたいろいろな概念はいつでも、〈秩序〉のイメージを映し出して見せる鏡であった」*8。万華鏡も星座のように、一つ一つのビーズなどによって構成された模様を見せる。だが、万華鏡は星座と違って、回転することで簡単に模様を変えるものであり、大量生産品である。同一なものの回帰(永劫回帰)ではなく、そのような回帰を同時に中断し、変化させるようなイメ ージを万華鏡に見てとっている*9

 ボードレールにおけるアレゴリーで、最も重要な形象のひとつが、女性の身体である。「両性具有者、レスビアン、不妊症の女のモティーフを、アレゴリー的志向の破壊的暴力と関連 させて扱うこと。まず最初は〈自然なもの〉の拒絶をこの詩人の主題としての大都市と関連させて扱うこと」*10、とあるように、ベンヤミンはボードレールがまなざす女性を アレゴリー的形象としてみている。資本主義の興隆にともなって、女性の身体は自然的「母」 のイメージも保ちつつ、一方で商品化された。街路にいる娼婦たちは、「大量生産品」のご とく皆同じような無個性のものとしてあった。ボードレールはしかし、かのじょたちを擁護 するのでも侮蔑するのでもなく、ある種そこに同化するようなまなざしを向ける。娼婦たちの身体は、有機的で自然的な女性を示さず、フェティッシュに断片化されている。それは、 女性の身体の脱神話化であり、自然なものの廃墟である*11。また、「両性具有者」という言葉 にあるように、女性=子を生むものという既存の意味づけを、アレゴリーは暴力的に露呈させるのだ。そのような女性と廃墟のイメージは、パリの都市のなかで浸透しあっている。都市のブルジョワは、商品の使用価値からは離れて、流行や新しさという偽りの輝きを「鏡と鏡が映しあうように」求める。「万華鏡は打ち壊されねばならない」*12という言葉は、ここで 有効な近代資本主義批判となるだろう。「十七世紀においてアレゴリーが弁証法的イメージ の基準になるとすれば、十九世紀においては新しさがその基準となる」*13。バロックのアレゴリーはすでに、近代へと接続しうる断片的なイメージを見せていたが、モデルニテのアレゴリーは資本主義という新しさを求める価値観によってさらに、自己破壊的作用をももつことになるのである。

 

4.おわりに

 アレゴリーは、全体を構成する「個」の位置付けを探りながら、時間意識のなかでその時代への批判作用を持つものになる。そもそも、近代のみならず、バロックの時代からアレゴ リーの形象を探索するというベンヤミンの試みじたいが、時間の経過のなかで「個」と「全体」を連結させる理論なのだ*14。近代における「原史」の廃墟を見せるアレゴリーは、各々 の時代を批判的に捉えながら、その姿をありありと現前させるのである。

*1:ヴァルター・ベンヤミン『ドイツ悲劇の根源』上巻、浅井健二郎訳、ちくま学芸文庫、 1999 年、33 頁

*2:同書、上巻、34 頁

*3:同書、下巻、27 頁

*4:同書、下巻、29 頁

*5:同書、下巻、48 頁

*6:ヴァルター・ベンヤミン「セントラルバーク」『ベンヤミン・コレクションI』、浅井健二郎、久保哲司訳、ちくま学芸文庫、1995 年、360 頁

*7:同書、382 頁

*8:同書、364 頁

*9:Cf.道籏泰三「万華鏡の粉砕のあとに:ベンヤミンにおける永劫回帰弁証法的イメージ」『ドイツ文學研究』、京都大学総合人間学部ドイツ語部会(39)、1994 年、131-187 頁

*10:ベンヤミン「セントラルパーク」、前掲書、366 頁

*11:ベンヤミン−ボードレールの女性的なもののアレゴリーについて、以下の書を参照。 クリスティーヌ・ビュシ=グリュックスマン『バロック的理性と女性原理』杉本紀子訳、 筑摩書房、1987 年

*12:ベンヤミン「セントラルパーク」、前掲書、364 頁

*13:ベンヤミン「パリ̶̶十九世紀の首都」『ベンヤミン・コレクション』前掲書、 349 頁

*14:この点について以下を参照。檜垣立哉「バロックの哲学」『思想』2013 年 6 月(No.1070)、岩波書店、7-24 頁。