岡上淑子のフォト・コラージュ

学部三年の冬に書いたものです。コメントでは、シュルレアリスムの女性作家と比較すべき(ハンナ・ヘーヒとか)って書かれました。

 

 わずか七年の間におよそ一二〇点の作品をのこし、四十年ほど忘れられた作家であった岡上淑子のフォト・コラージュは、近年の再評価が著しく、「日本の女性シュルレアリスト」 として固有の位置をしめている。岡上淑子の作品をシュルレアリスム的であると称してよいのは、もちろんそのコラージュ作品の表現に認められるが、何よりマックス・エルンストの影響が知られているからだ。友人の若山浅香を通じて知り合った瀧口修造の家で、エルン ストの『百頭女』をめくってから、啓示を与えられるように作風が広がっていったと岡上は語っている*1。本稿ではエルンストのコラージュの方法論を参照しつつ彼女の作品を論じるが、その理論の枠を踏み越えるような自由さを封じ込めないことを願う。

 

意味と無頭

 エルンストのコラージュは単に紙を切り貼りする操作のことではなく、意味論的操作である、と論じたのはルイ・アラゴンだ。アラゴンは、「借用されたイメージがその視覚的特性によってではなく、それが表している意味内容によって選択される場合、それは一つの 「言葉」の役割を果たしている」*2という。つまりコラージュとは、完成された図版やイラストから要素を切り出して、別の図版の他の要素と継ぎ目なく貼り合わせ、関係させることで新たな意味をうむ、という操作のことである。アンドレ・ブルトンが『百頭女』の序文において導入している「デペイズマン」という概念もまた、そうした意味論的操作によって、 新たに作られた図に違和感や疎外感を生み出すということである。 
 岡上は、一九五〇年から二年間通った文化学院で出されたちぎり絵の課題から、紙を切り 貼りする作品を制作するようになる。その初期(エルンストを知る以前)の作品は、黑や赤 の羅紗紙を台紙に用いて、写真を切り抜いたパーツを組み合わせて貼り付けたものだ。背景が単色であるだけに、配置されたパーツの構図の巧みさが際立つ。たとえば、《母》(1952 年)と題された作品は、黒い台紙と同じ比率で四角く切り抜かれた森の写真に、四人の子供たちの顔が木の陰から覗くように配置され、またその四角い枠を胴体とするように、その左上に母親の頭部が、左に片手が伸びる。エルンストの《ロプロプがシュルレアリスム・グル ープのメンバーを紹介する》(1931 年)にも共通するような、画面内にフレームを入れた構図がとられている。
 また、ナイフに突き刺された女性の頭部と、その赤色が血のようなイメージを喚起させる トマトの輪切りとを組み合わせた《トマト》(1951 年)や、女性の頭部が黑猫にすげ替わった《マスク》(1952 年)など、人間の頭・顔が主要なパーツとして用いられた作品が多い。 エルンストもまた、頭部を動物などにすげ替えた作品を残している。たとえば、『カルメル 修道会に入ろうとしたある少女の夢』にある、ピウス(かささぎ)11 世のイラスト*3がそうである。顔を取り除いて、動物や機械などに取り替えることは、人間の意味を担う部分として顔が機能しているという前提のもと、その意味を無効化する、あるいは別の意味へとひらくということである。この時期の彼女はエルンストやコラージュという意味論的操作を知らなかったと考えられるが、着目する身体のパーツやその用い方は、極めてエルンストに近い部分があるといえるだろう。

 

天使とモード

 

と同時に、エルンストと大きく異なる点の一つが、女性の身体の用い方である。『百頭女』では、「百頭女、私の妹、惑乱」という呼びかけが繰り返されるが、それは男性主体によって見られ、その主体を惑わせるという意味での女性である。男性=私の作為を裏切る他者、あるいは不気味なもの、が女性に託されすぎているのではないだろうか。たとえば第二章十一枚目のコラージュ*4は、部屋に座った少女の服の上から、片方の乳房が貼り付けられるというフェティッシュな身体表象と、少女がこちらを見つめる人形めいた目つきが印象的である。エルンストのコラージュにおいて女性は、その枠の中に収められ、意志をそがれたオブジェとしての役割を担わされている場合が多い。
 岡上は、モード雑誌『ヴォーグ』や『ハーパース・バザー』、あるいは『ライフ』のようなグラフ雑誌から素材を持ってくることが多かった*5。戦後復興期にあたる一九五〇年代の ファッションは、オートクチュールの華やかなドレスが一流デザイナーによって盛んに作られた時期でもある*6。ほとんどの作品の画面の中で主役となって、繊細な布をまとった煌 びやかな女性たちには、窓を飛び越えたり、水上を駆けたり、不思議な生命力を感じさせる逞しさがある。《叛逆の天使》(1954 年)はその象徴的な作品だ。襞が幾重にもかさなった 白いチュールのドレスの女性は、大きな鋭角の翼を広げ、二つの手でピストルをはなつ。彼女の後ろには、そのピストルによって飛ばされたかのように空中にひっくり返った男性が 配置され、その躍動感と、対比的な女性の静かな叛逆への意志が感じられる。戦争の跡が残 存する風景のなかで異国の高級ファッションに身を包んだ女性は、天使のような崇高さと 残酷さを象徴しながら、自由に羽ばたく。

 

私たちの物語

 岡上の作品に影響を与えたという『百頭女』は本の形であることに意味がある。本の形であるということは、①パーツの寄せ集めである一つ一つのコラージュがさらにページの束 としてまとめられ、②前から後ろへと時間的な流れがうまれ、③それによって「物語」が生 み出され、④複製技術によって個人の手元へと受け渡され、それぞれを作品と呼ぶことを可能にする。エルンストは、十九世紀小説の木版画の挿絵などを切り抜いて作品に用いるが、そのコラージュは継ぎ目がなく、元の要素なのか貼り付けた要素なのかわからないほどで、さらに本にプリントされることでいっそう目立たないようになっている。複製されること を念頭において製作された作品群は、作者の主体性、作者の「手」の所在をあやふやにする*7。完成された図版を、作者の操作によって意図的に作り替えるということではなく、——もちろんコラージュという操作を説明すればそういうことになってしまうのだが、そうではなく——事物どうしが図版の上で偶然に出会ってしまう様子を客観的に私が見ている、という状況でもあるのだ。
 作る私の働きが、同時に見るもの多数性へと開かれてゆくような運動は、「私たちは自由よ」という岡上淑子の象徴的な呼びかけによって、継ぎ目のないようにみえる女性=「私たち」の物語として示される。結婚を機に制作から遠ざかってしまった岡上だが、日本で「日常の生活を平凡に掃き返す私の指」*8から、異国のモードの女性を用いたコラージュを作りだすということにはかなり意識的であった。私と同一的でありながら、どこか違和のある断 裂を示す女性の身体と衣服は、憧れとも逃避ともいえぬ夢の引用となる。ロラン・バルトによれば、「モードの女性は、自分自身でありたいと同時に、他人でありたいという夢を抱いている」*9岡上は戦後の日常と、モード世界の非日常のあいだで、夢のイメージをその手か ら具現化していた。
 たとえばその手が雄弁に語る《刻の干渉》(1954 年)。大きなシャンデリアのある部屋の、 画面左奥の窓にのぞく暗闇には、半月がのぼり、男性的な手が招いているような仕草で女性 へと向けられている。それに背を向ける白いドレスを纏った女性の頭部からは、七つの白い手袋をはめた手*10が、何かを探し求めるかのように伸びている。特にそのうちの一つは、二 の腕のラインから真っ直ぐに伸びるように配置され、刻——たとえば結婚や出産の刻——干渉から逃れるように先へと急ぐ。
 岡上淑子の作品を本の形に綴じたのは、金井美恵子である*11。真っ赤な表紙の『カストロの尻』には、昔読んだ本の引用や、映画の記憶や、岡上のコラージュと同期する水や布の描 写が一冊に収められる。ちょうど中程の頁には、『愉しみはTVの彼方に』という別の本の一頁をひらくマニキュアを塗った手の写真が挟まれ、本を読んでいる私とその中にいる私は出会うことになる。

ボートに乗った若い娘は(ボートやゴンドラや小型ヨットや和船の屋形船も含めて)あなた(私に見つめられている、それとも、私を見つめている?)だけでなく、だけなどでなく、無数にいたし、いるのだ*12

《破船》(1951 年)に乗った女性は、私のほうを振り返って見つめているのか、それとも引用=コラージュの海のなかに投げ込まれて、私たちは夢を見ているのだろうか。

 

 

*1:岡上淑子「夢のしずく」『岡上淑子全作品』、河出書房新社、2018 年、160 頁

*2:石井祐子『コラージュの彼岸:マックス・エルンストの制作と展示』、ブリュッケ、2014 年、67 頁

*3:マックス・エルンスト『カルメル修道会に入ろうとしたある少女の夢』、巌谷國士訳、河出文庫、1996 年、69 頁

*4:マックス・エルンスト『百頭女』、巌谷國士訳、河出文庫、1996 年、69 頁

*5:岡上のコラージュの素材元については池上裕子がいくつかの出典を明らかにしている。池上裕子「自由と解放のヴィジョン——岡上淑子のフォトコラージュ」『岡上淑子全作品』、前掲書、170-179 頁

*6:当時のファッションと岡上淑子の作品世界との共通性については以下を参照。神野京子「沈黙の薔薇 岡上淑子——鎮魂と祝祭のコラージュ」『岡上淑子フォトコラージュ 沈黙の奇蹟』、⻘幻舎、2019 年、 204-207 頁

*7:河本真理『切断の時代:20 世紀におけるコラージュの美学と歴史』、ブリュッケ、2007 年、80 頁

*8:岡上淑子「コラージュ」、『岡上淑子フォトコラージュ 沈黙の奇蹟』、前掲書、187 頁

*9:ロラン・バルト『モードの体系』、佐藤信夫訳、みすず書房、1972 年、353 頁

*10:この手袋の写真が“Hands across the sea”というタイトルの記事から取られていることも興味深い。(素材の出典は、註5参照)

*11:神野によれば、岡上がコラージュを制作していた当時、寺山修司の詩や瀧口修造の言葉を使って詩画集 を作ることが計画されていたが頓挫した。神野京子「沈黙の薔薇  岡上淑子——鎮魂と祝祭のコラージュ」、前掲書、193 頁

*12:金井美恵子カストロの尻』、新潮社、2017 年、115 頁