岡上淑子のフォト・コラージュ

学部三年の冬に書いたものです。コメントでは、シュルレアリスムの女性作家と比較すべき(ハンナ・ヘーヒとか)って書かれました。

 

 わずか七年の間におよそ一二〇点の作品をのこし、四十年ほど忘れられた作家であった岡上淑子のフォト・コラージュは、近年の再評価が著しく、「日本の女性シュルレアリスト」 として固有の位置をしめている。岡上淑子の作品をシュルレアリスム的であると称してよいのは、もちろんそのコラージュ作品の表現に認められるが、何よりマックス・エルンストの影響が知られているからだ。友人の若山浅香を通じて知り合った瀧口修造の家で、エルン ストの『百頭女』をめくってから、啓示を与えられるように作風が広がっていったと岡上は語っている*1。本稿ではエルンストのコラージュの方法論を参照しつつ彼女の作品を論じるが、その理論の枠を踏み越えるような自由さを封じ込めないことを願う。

 

意味と無頭

 エルンストのコラージュは単に紙を切り貼りする操作のことではなく、意味論的操作である、と論じたのはルイ・アラゴンだ。アラゴンは、「借用されたイメージがその視覚的特性によってではなく、それが表している意味内容によって選択される場合、それは一つの 「言葉」の役割を果たしている」*2という。つまりコラージュとは、完成された図版やイラストから要素を切り出して、別の図版の他の要素と継ぎ目なく貼り合わせ、関係させることで新たな意味をうむ、という操作のことである。アンドレ・ブルトンが『百頭女』の序文において導入している「デペイズマン」という概念もまた、そうした意味論的操作によって、 新たに作られた図に違和感や疎外感を生み出すということである。 
 岡上は、一九五〇年から二年間通った文化学院で出されたちぎり絵の課題から、紙を切り 貼りする作品を制作するようになる。その初期(エルンストを知る以前)の作品は、黑や赤 の羅紗紙を台紙に用いて、写真を切り抜いたパーツを組み合わせて貼り付けたものだ。背景が単色であるだけに、配置されたパーツの構図の巧みさが際立つ。たとえば、《母》(1952 年)と題された作品は、黒い台紙と同じ比率で四角く切り抜かれた森の写真に、四人の子供たちの顔が木の陰から覗くように配置され、またその四角い枠を胴体とするように、その左上に母親の頭部が、左に片手が伸びる。エルンストの《ロプロプがシュルレアリスム・グル ープのメンバーを紹介する》(1931 年)にも共通するような、画面内にフレームを入れた構図がとられている。
 また、ナイフに突き刺された女性の頭部と、その赤色が血のようなイメージを喚起させる トマトの輪切りとを組み合わせた《トマト》(1951 年)や、女性の頭部が黑猫にすげ替わった《マスク》(1952 年)など、人間の頭・顔が主要なパーツとして用いられた作品が多い。 エルンストもまた、頭部を動物などにすげ替えた作品を残している。たとえば、『カルメル 修道会に入ろうとしたある少女の夢』にある、ピウス(かささぎ)11 世のイラスト*3がそうである。顔を取り除いて、動物や機械などに取り替えることは、人間の意味を担う部分として顔が機能しているという前提のもと、その意味を無効化する、あるいは別の意味へとひらくということである。この時期の彼女はエルンストやコラージュという意味論的操作を知らなかったと考えられるが、着目する身体のパーツやその用い方は、極めてエルンストに近い部分があるといえるだろう。

 

天使とモード

 

と同時に、エルンストと大きく異なる点の一つが、女性の身体の用い方である。『百頭女』では、「百頭女、私の妹、惑乱」という呼びかけが繰り返されるが、それは男性主体によって見られ、その主体を惑わせるという意味での女性である。男性=私の作為を裏切る他者、あるいは不気味なもの、が女性に託されすぎているのではないだろうか。たとえば第二章十一枚目のコラージュ*4は、部屋に座った少女の服の上から、片方の乳房が貼り付けられるというフェティッシュな身体表象と、少女がこちらを見つめる人形めいた目つきが印象的である。エルンストのコラージュにおいて女性は、その枠の中に収められ、意志をそがれたオブジェとしての役割を担わされている場合が多い。
 岡上は、モード雑誌『ヴォーグ』や『ハーパース・バザー』、あるいは『ライフ』のようなグラフ雑誌から素材を持ってくることが多かった*5。戦後復興期にあたる一九五〇年代の ファッションは、オートクチュールの華やかなドレスが一流デザイナーによって盛んに作られた時期でもある*6。ほとんどの作品の画面の中で主役となって、繊細な布をまとった煌 びやかな女性たちには、窓を飛び越えたり、水上を駆けたり、不思議な生命力を感じさせる逞しさがある。《叛逆の天使》(1954 年)はその象徴的な作品だ。襞が幾重にもかさなった 白いチュールのドレスの女性は、大きな鋭角の翼を広げ、二つの手でピストルをはなつ。彼女の後ろには、そのピストルによって飛ばされたかのように空中にひっくり返った男性が 配置され、その躍動感と、対比的な女性の静かな叛逆への意志が感じられる。戦争の跡が残 存する風景のなかで異国の高級ファッションに身を包んだ女性は、天使のような崇高さと 残酷さを象徴しながら、自由に羽ばたく。

 

私たちの物語

 岡上の作品に影響を与えたという『百頭女』は本の形であることに意味がある。本の形であるということは、①パーツの寄せ集めである一つ一つのコラージュがさらにページの束 としてまとめられ、②前から後ろへと時間的な流れがうまれ、③それによって「物語」が生 み出され、④複製技術によって個人の手元へと受け渡され、それぞれを作品と呼ぶことを可能にする。エルンストは、十九世紀小説の木版画の挿絵などを切り抜いて作品に用いるが、そのコラージュは継ぎ目がなく、元の要素なのか貼り付けた要素なのかわからないほどで、さらに本にプリントされることでいっそう目立たないようになっている。複製されること を念頭において製作された作品群は、作者の主体性、作者の「手」の所在をあやふやにする*7。完成された図版を、作者の操作によって意図的に作り替えるということではなく、——もちろんコラージュという操作を説明すればそういうことになってしまうのだが、そうではなく——事物どうしが図版の上で偶然に出会ってしまう様子を客観的に私が見ている、という状況でもあるのだ。
 作る私の働きが、同時に見るもの多数性へと開かれてゆくような運動は、「私たちは自由よ」という岡上淑子の象徴的な呼びかけによって、継ぎ目のないようにみえる女性=「私たち」の物語として示される。結婚を機に制作から遠ざかってしまった岡上だが、日本で「日常の生活を平凡に掃き返す私の指」*8から、異国のモードの女性を用いたコラージュを作りだすということにはかなり意識的であった。私と同一的でありながら、どこか違和のある断 裂を示す女性の身体と衣服は、憧れとも逃避ともいえぬ夢の引用となる。ロラン・バルトによれば、「モードの女性は、自分自身でありたいと同時に、他人でありたいという夢を抱いている」*9岡上は戦後の日常と、モード世界の非日常のあいだで、夢のイメージをその手か ら具現化していた。
 たとえばその手が雄弁に語る《刻の干渉》(1954 年)。大きなシャンデリアのある部屋の、 画面左奥の窓にのぞく暗闇には、半月がのぼり、男性的な手が招いているような仕草で女性 へと向けられている。それに背を向ける白いドレスを纏った女性の頭部からは、七つの白い手袋をはめた手*10が、何かを探し求めるかのように伸びている。特にそのうちの一つは、二 の腕のラインから真っ直ぐに伸びるように配置され、刻——たとえば結婚や出産の刻——干渉から逃れるように先へと急ぐ。
 岡上淑子の作品を本の形に綴じたのは、金井美恵子である*11。真っ赤な表紙の『カストロの尻』には、昔読んだ本の引用や、映画の記憶や、岡上のコラージュと同期する水や布の描 写が一冊に収められる。ちょうど中程の頁には、『愉しみはTVの彼方に』という別の本の一頁をひらくマニキュアを塗った手の写真が挟まれ、本を読んでいる私とその中にいる私は出会うことになる。

ボートに乗った若い娘は(ボートやゴンドラや小型ヨットや和船の屋形船も含めて)あなた(私に見つめられている、それとも、私を見つめている?)だけでなく、だけなどでなく、無数にいたし、いるのだ*12

《破船》(1951 年)に乗った女性は、私のほうを振り返って見つめているのか、それとも引用=コラージュの海のなかに投げ込まれて、私たちは夢を見ているのだろうか。

 

 

*1:岡上淑子「夢のしずく」『岡上淑子全作品』、河出書房新社、2018 年、160 頁

*2:石井祐子『コラージュの彼岸:マックス・エルンストの制作と展示』、ブリュッケ、2014 年、67 頁

*3:マックス・エルンスト『カルメル修道会に入ろうとしたある少女の夢』、巌谷國士訳、河出文庫、1996 年、69 頁

*4:マックス・エルンスト『百頭女』、巌谷國士訳、河出文庫、1996 年、69 頁

*5:岡上のコラージュの素材元については池上裕子がいくつかの出典を明らかにしている。池上裕子「自由と解放のヴィジョン——岡上淑子のフォトコラージュ」『岡上淑子全作品』、前掲書、170-179 頁

*6:当時のファッションと岡上淑子の作品世界との共通性については以下を参照。神野京子「沈黙の薔薇 岡上淑子——鎮魂と祝祭のコラージュ」『岡上淑子フォトコラージュ 沈黙の奇蹟』、⻘幻舎、2019 年、 204-207 頁

*7:河本真理『切断の時代:20 世紀におけるコラージュの美学と歴史』、ブリュッケ、2007 年、80 頁

*8:岡上淑子「コラージュ」、『岡上淑子フォトコラージュ 沈黙の奇蹟』、前掲書、187 頁

*9:ロラン・バルト『モードの体系』、佐藤信夫訳、みすず書房、1972 年、353 頁

*10:この手袋の写真が“Hands across the sea”というタイトルの記事から取られていることも興味深い。(素材の出典は、註5参照)

*11:神野によれば、岡上がコラージュを制作していた当時、寺山修司の詩や瀧口修造の言葉を使って詩画集 を作ることが計画されていたが頓挫した。神野京子「沈黙の薔薇  岡上淑子——鎮魂と祝祭のコラージュ」、前掲書、193 頁

*12:金井美恵子カストロの尻』、新潮社、2017 年、115 頁

イメージの構築と破壊  山尾悠子「夢の棲む街」について

学部四年の春に書いたものです。時間がなくけっこうやっつけ仕事的に書いてしまった気がします

 

誰かが私に言ったのだ/世界は言葉でできていると*1——山尾悠子の小説世界を表す言葉として有名になった一節である。言葉によって架空の世界を構築し、かつ崩壊させること。 山尾悠子の最初の小説作品「夢の棲む街」(1976 年)*2は、いかなる仕掛けをもってそのカタストロフへと雪崩れ込むのか。

 

垂直の街の

 

この小説は十片の断章からなる。まずその始め、〈夢喰い虫〉のバクは街の中心部にある劇場の奈落から這い出し、目眩をおこしながら⻑い階段をのぼる。冒頭数行の描写からわかるように、この小説における一つの重要なモチーフは、垂直性の構造と運動である。「街は、 浅い漏斗型をしている」(9)。著者の当時住む京都と似た地形をもつ街が舞台である。その漏斗の底には劇場があり、その「劇場を中心として海星の脚のように放射状に走る無数の街路が、ゆるい傾斜で四方へ徐々にせり上がってゆき、漏斗の縁に当たる部分で唐突に跡切れ ている」(9)。さらにその劇場は円形の広場を有し、底に舞台があり、それを囲むようにすり鉢状の客席が配置される。つまり「街の構造を模して設計され」(12)ている。さらに舞 台の地下にはどこまでも奈落が続いている。そのように垂直方向に広がり続ける街の中で、 上下運動を繰り返しているのが〈夢喰い虫〉たちである。街に噂を広める使命をもつ虫たち は、夕暮れ時になると、その日収集した噂を街の最上部=円周に這い上り、風にのせて流す。〈夢喰い虫〉たちをはじめとして、この小説には畸型の生物のイメージが多く登場するのだが、それらはまるで、垂直性の秩序を保つ街の犠牲として歪められてしまったようなのだ。

 バクが棲みつく娼館——娼館およびマダムのイメージは金井美恵子の「春の画の館」に触 発されたと著者は明かしている*3——には天使と人魚がいる。両者とも性別の問題が畸型で あることに関わる。両性具有のイメージで語られることの多い天使は、ここでは狭い屋根裏 部屋で生殖を繰り返した果てに、癒着しあってひとつの塊と化している。人魚は地下にいて お客をとるので、どうやら女であるらしい。人魚もまた、現れた途端にくずおれてしまう。 そして〈薔薇色の脚〉。もとは街の乞食や浮浪者、街娼であった女たちを、劇場の演出家は〈薔薇色の脚〉に仕立て上げる。「見事に発達して脂ぎった下半身の、常人の二倍はある骨 盤の上に、栄養不良のため異様に痩せて縮んだ上半身が載っている畸型的な体軀は、見る者にある圧倒的な意志——この人工的畸型を造り出した者の偏執的な意志を、感じさせた」 (13)。コトバを吹き込むことによって歪められた断片的な身体は、見せ物として最適化さ れたうえに、劇場の底の舞台で死を迎える。ここに、小谷真理は「女性に与えられた極度の 暴力が召喚する幻想時間」を読み取っている*4。天使、人魚、〈薔薇色の脚〉はいずれも、外 から街へと連れてこられ、虐げられた。唯一、噂ですら来歴のわからない侏儒が、皆一⻫に下降する最後のカタストロフの中で上昇することができる。

 

誰かが私に言ったのだ

さて、冒頭に掲げた一節。意外なことに山尾は「比重はもちろん一行目のほうにある」*5という。誰かが私に言ったのだ、つまり伝聞による虚構の構築は、この小説では〈夢喰い虫〉 の暗躍がなしている。「街の噂によれば」と繰り返される前置きにより、発話主体の不明な 言葉は浮遊する。吉本隆明は「マス・イメージ論」で、ポオの「メエルシュトレエムに呑まれて」と比較しながら「夢の棲む街」をこう評している。

わたしたちは「夢の棲む街」の空想に、ありきたりの推理小説よりも豊かな〈推理〉の 現在における解体の姿をみている。もう現在の世界ではポオの作品が具現しているよ うな、世界把握の既存性が未知を手さぐりする語り手の冒険、いわば理性と想像力によ る弁証法的な冒険と遭遇するといった〈推理〉を描くことはできない。わたしたちは〈世界〉を把握しようとする。すると未知をもとめるわたしたちの現実理性と想像力はこの 〈世界〉に到達するまえに、その距離のあまりの遠さに挫折するほかなくなっているのだ*6

ここでいう推理とは、〈連鎖〉〈累積〉〈分岐〉をもとにして言語による認識をおこなう主体 が可能なことをいう。主な視点となるバクは、いつも肝心なところで睡魔に襲われ、出来事 の成り行きを最後まで見届けることができない。そのため後に残されるのは、ただ断片的な イメージ。私たちは街とそこに棲む生物の途切れ途切れの情報しか知ることができない。「自分がもう〈夢喰い虫〉でなくなってしまった」(53)と知っているバクは、「自分の好奇 心を満たすためだけに」(57)劇場の地下へと降り、正体のわからない〈あのかた〉の名 最後に呼ぶ。とたんに、劇場の崩壊へと巻き込まれるのである。
 後年、山尾悠子は「漏斗と螺旋」*7という短篇を書く。「初めて物語を、小説を書き始めた とき、〈わたし〉の物語を書こうとした。人称代名詞抜きの一人称の文体で夢の棲む街の光 景や出来事を書き記そうとして、たちまち躓いた。そこで〈ドングリのような体型〉の〈夢 喰い虫〉に片仮名の名を与え、穴に落ちたり立ち眩みをおこさせるうち、初のささやかな短篇が出来た」。〈わたし〉による世界の把握は、幾重にも遠ざけられた夢の街でその創造と崩 壊を目の当たりにすることになるだろう。

*1:山尾悠子「遠近法・補遺」『夢の遠近法』、ちくま文庫、2014 年、386 頁。

*2:山尾悠子「夢の棲む街」『夢の遠近法』、前掲書。以下この小説からの引用は本文中の括弧内に頁数のみ を示す。

*3:石堂藍山尾悠子̶̶絢爛たる空虚」『山尾悠子作品集成』、国書刊行会、2001 年、737 頁

*4:小谷真理「脚と薔薇の日々」、『山尾悠子作品集成』の栞より。ちなみに近年の山尾悠子再評価の流れに おいて、〈幻想〉の一言で片付けられていた作品をフェミニズム的文脈から掬い上げる試みも出てきてい る。例えば川野芽生「呪われたもののための福音——『ラピスラズリ』評」『夜想#山尾悠子』、ステュデ ィオ・パラボリカ、2021 年、108-126 頁。

*5:著者による自作解説、『夢の遠近法』、前掲書、417 頁。

*6:吉本隆明「推理論」『マス・イメージ論』、講談社文芸文庫、2013 年、73 頁

*7:山尾悠子「漏斗と螺旋」『群像』2020 年 1 月号、講談社、72-80 頁

星座から万華鏡へ ベンヤミンのアレゴリー論

学部三年の夏に期末レポートとして書いたものです。いまみるとかなり拙く、もっと書き込むべきと思いますが、拾っているポイント自体はいまも興味のあることなので、いろいろ読んでからいつか書き直せたらいいなあと思っています。

 

1.はじめに

 

本稿では、ヴァルター・ベンヤミンのアレゴリー論について、『ドイツ悲劇の根源』といくつかのボードレール論を中心に読解する。バロックのアレゴリーを記述する際に用いた「星座」という比喩と、近代のアレゴリーを記述する際に用いた「万華鏡」という比喩に注目しながら、アレゴリーのもつ作用について考察していきたい。

 

2.バロックのアレゴリー

 

 『ドイツ悲劇の根源』の認識批判的序章において、ベンヤミンは理念と事物(=諸現象)の関係を星座と星の関係に喩えている。「この比喩が何よりもまず語っているのは、理念とは事物の概念でもなければ事物の法則でもない」*1ということだ。星座という普遍のものが一つ一つの星によって構成されているように、モナド的理念は個々の諸現象によって構成 されており、ベンヤミンの目的は「諸現象の救出と諸理念の叙述とを、同時に果たす」*2ことである。ここでのモナドという表現はもちろん、ライプニッツに由来する。ライプニッツはバロック時代の哲学者だが、ここで重要なのは、諸々の理念=モナドがそれぞれひとつの世界の像をあらかじめ含むという考え方である。すなわち、この予定調和的な総体性がバ ロックのひとつの特徴である。

 バロックのアレゴリーはまず、象徴との対比において考えられる。ゲーテは、アレゴリーは普遍なもののために特殊なものを求めること、象徴は特殊なもののなかに普遍なものを見ることとした。ゲーテは「文学の本性」を象徴の方に見ており、アレゴリーには否定的な見方をした。ベンヤミンはこのようなロマン主義的な考えに反駁する。クロイツァーは、象徴には「瞬間的総体性」が存在する一方、アレゴリーには「一連の諸契機のうちに時間的進行が見られる」とし、「神話を包括するのはアレゴリーなのであって、象徴ではない」*3とする。ベンヤミンはこの時間性の違いに注目して、「象徴においては、没落の変容とともに、 自然の変容して神々しくなった顔貌が、救済の光のなかに一瞬みずからを啓示するのに対して、アレゴリーにおいては、歴史の死相が、硬直した原風景として、見る者の目の前に横たわっているのである」*4という。バロックのアレゴリーは、キリスト教的世界観の影響を受けながらも、その歴史が「屍体」となってあらわになるような、断片的な廃墟のイメージを見せる。「不自由さ、未完成さ、そして断片性を認めることは、古典主義にはその本質か らして当然拒まれていた。だが、まさにそうした点こそを、バロックのアレゴリーは、そのとてつもない華美にくるんで隠しながら、以前には予感さえされなかったほどに強調しつつ呈示するのである」*5。ここで、最初に提示したライプニッツの神学的な予定調和の総体性からはややずれてきていることがわかるだろう。アレゴリーは予定調和の最善世界よりはむしろ、調和が崩壊した後の断片を示す。それは後述するように、万華鏡のごとき様相を呈することになるだろう。

 

3.モデルニテのアレゴリー

 廃墟をみせる十七世紀バロックのアレゴリーからさらに進んで、近代におけるアレゴリーをベンヤミンは後年記述した。ボードレールの『悪の華』の構造についても、ベンヤミン はモナドという表現を用い*6、いくつかの共通点は見られるものの、「ボードレールのアレゴ リーはバロックのそれと異なり、この世界に侵入しその調和的な形成物を粉砕するために必要であった憤懣の痕跡を帯びている」*7。ここで明確にわかるように、世界の調和を粉砕するような作用をもつものが、近代におけるアレゴリーである。そこで登場したのが万 華鏡の喩えだ。「万華鏡を回転させるごとに、秩序だっていたものが全部崩れて新しい秩序が作られる。このイメージにはそれなりの根本的な正当性がある。支配者たちがもっていたいろいろな概念はいつでも、〈秩序〉のイメージを映し出して見せる鏡であった」*8。万華鏡も星座のように、一つ一つのビーズなどによって構成された模様を見せる。だが、万華鏡は星座と違って、回転することで簡単に模様を変えるものであり、大量生産品である。同一なものの回帰(永劫回帰)ではなく、そのような回帰を同時に中断し、変化させるようなイメ ージを万華鏡に見てとっている*9

 ボードレールにおけるアレゴリーで、最も重要な形象のひとつが、女性の身体である。「両性具有者、レスビアン、不妊症の女のモティーフを、アレゴリー的志向の破壊的暴力と関連 させて扱うこと。まず最初は〈自然なもの〉の拒絶をこの詩人の主題としての大都市と関連させて扱うこと」*10、とあるように、ベンヤミンはボードレールがまなざす女性を アレゴリー的形象としてみている。資本主義の興隆にともなって、女性の身体は自然的「母」 のイメージも保ちつつ、一方で商品化された。街路にいる娼婦たちは、「大量生産品」のご とく皆同じような無個性のものとしてあった。ボードレールはしかし、かのじょたちを擁護 するのでも侮蔑するのでもなく、ある種そこに同化するようなまなざしを向ける。娼婦たちの身体は、有機的で自然的な女性を示さず、フェティッシュに断片化されている。それは、 女性の身体の脱神話化であり、自然なものの廃墟である*11。また、「両性具有者」という言葉 にあるように、女性=子を生むものという既存の意味づけを、アレゴリーは暴力的に露呈させるのだ。そのような女性と廃墟のイメージは、パリの都市のなかで浸透しあっている。都市のブルジョワは、商品の使用価値からは離れて、流行や新しさという偽りの輝きを「鏡と鏡が映しあうように」求める。「万華鏡は打ち壊されねばならない」*12という言葉は、ここで 有効な近代資本主義批判となるだろう。「十七世紀においてアレゴリーが弁証法的イメージ の基準になるとすれば、十九世紀においては新しさがその基準となる」*13。バロックのアレゴリーはすでに、近代へと接続しうる断片的なイメージを見せていたが、モデルニテのアレゴリーは資本主義という新しさを求める価値観によってさらに、自己破壊的作用をももつことになるのである。

 

4.おわりに

 アレゴリーは、全体を構成する「個」の位置付けを探りながら、時間意識のなかでその時代への批判作用を持つものになる。そもそも、近代のみならず、バロックの時代からアレゴ リーの形象を探索するというベンヤミンの試みじたいが、時間の経過のなかで「個」と「全体」を連結させる理論なのだ*14。近代における「原史」の廃墟を見せるアレゴリーは、各々 の時代を批判的に捉えながら、その姿をありありと現前させるのである。

*1:ヴァルター・ベンヤミン『ドイツ悲劇の根源』上巻、浅井健二郎訳、ちくま学芸文庫、 1999 年、33 頁

*2:同書、上巻、34 頁

*3:同書、下巻、27 頁

*4:同書、下巻、29 頁

*5:同書、下巻、48 頁

*6:ヴァルター・ベンヤミン「セントラルバーク」『ベンヤミン・コレクションI』、浅井健二郎、久保哲司訳、ちくま学芸文庫、1995 年、360 頁

*7:同書、382 頁

*8:同書、364 頁

*9:Cf.道籏泰三「万華鏡の粉砕のあとに:ベンヤミンにおける永劫回帰弁証法的イメージ」『ドイツ文學研究』、京都大学総合人間学部ドイツ語部会(39)、1994 年、131-187 頁

*10:ベンヤミン「セントラルパーク」、前掲書、366 頁

*11:ベンヤミン−ボードレールの女性的なもののアレゴリーについて、以下の書を参照。 クリスティーヌ・ビュシ=グリュックスマン『バロック的理性と女性原理』杉本紀子訳、 筑摩書房、1987 年

*12:ベンヤミン「セントラルパーク」、前掲書、364 頁

*13:ベンヤミン「パリ̶̶十九世紀の首都」『ベンヤミン・コレクション』前掲書、 349 頁

*14:この点について以下を参照。檜垣立哉「バロックの哲学」『思想』2013 年 6 月(No.1070)、岩波書店、7-24 頁。

2022-01-15(どうぶつ/空気頭/メレオロジー)

 

 

晦日にSwitchとあつまれどうぶつの森を買いそれをせっせとやりながら、それを買ったことでなくなったお金を稼ぐためにせっせと働いていたら、もう年明けて二週間以上経ってしまった。

このブログはかなり自分の思考のセーブポイントになっているから、もっとまめに書くべきなのだけれど、どうしても億劫で更新がとまるということが多くてそのことがさらにストレスとなるので、メモのようなものでももっと更新できるようにしたい。

 

 


○可能世界論について

野上志学『デイヴィッド・ルイスの哲学』を読んだメモ。へえと思ったのは、ひとつの可能世界はメレオロジー的和で満たされていて、可能世界同士は重ならないということ。では離接的総合というのはどのように考えられるのか疑問に思った。

 

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藤枝静男について

1945年以降に発表された長編をひとつ選んでそれを文学史に位置付けながら論じるという課題のレポートで、最初は中上健次と宇佐見りんとかにしようと思ったけれどそれは授業内で扱われたので、志賀−藤枝−笙野という確実にある私小説の系譜について考えようと思った。いままで文学のレポートは女性作家を扱うことが多かったので男性作家縛りにしようと思ったのもある。

それを考える上で使えそうな本の写真をツイッターにあげたら思いのほかいいねが集まったけれども(そんなに藤枝が好まれているのか?それとも本が積み重なっている写真が好まれるだけか?)、なかでもやっぱり良い批評だと思ったのが、蓮實重彦の『「私小説」を読む』。

これもメモの写真をあげておくが、土地の隆起・陥没、川の分岐というような小説に書かれている地理的な要素と、「私」=「章」とその親族、またその妻の家系的な血の繋がりが、いかに関連して私小説として書かれているかということが美しく書かれてある。

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『機械=身体のポリティーク』に収められている佐藤淳二の「〈差異〉の身体=機械学」はタイトルからして語彙がポモに染まりすぎているのだが、天皇制も絡めて考えたいと思っていたのでその点参考になった。

天皇制といえばということで、渡部直己の『不敬文学論序説』もぱらぱらと読むが、どうも単純に文意が通っていないと思える箇所があり、詳しく検討したいがその時間がない。

それにしても「空気頭」はたいへん不思議で魅力的な小説である。他の作品もよく読みたい。

 


 

あとはプルーストについて書くべきことがあるがそれは次回。

 

 

2021-12-31(年末/まとめ)

もう年をまたいでしまったけれども、去年の良かったものまとめを一応記しておきます。

283冊読みました。

人間の生のありえなさ/脇坂真弥…本当のことしか書かれていません。

房思琪の初恋の楽園/林奕含…三人称多元で書かれた小説としての構成が巧みなぶん、現実にあった暴力の酷さが際立つ作品でした。教師と生徒・学生のあいだでおこる力関係については日本の大学でも度々問題になりますが(わたしの大学生活はそれで少し変わってしまいました)、「文学」としてそれはどのように扱うことができるかということの強力な一つの答えだと思います。

ねむらない樹(特集:葛原妙子)…葛原妙子の短歌になかなかアクセスできてなかったので、この特集や『幻想の重量』(今読んでいるところ)、歌集の刊行は喜ばしいことでした。

問題=物質となる身体/ジュディス・バトラー…この本の訳がでなかったら卒論かけてなかったかもしれないです。

他者の影/ジェシカ・ベンジャミン…おなじく卒論関連で良かった本です。

わたしたちが光の速さで進めないなら/キム・チョヨプ…2021年はわりと意識的にSFを読むようになったのですが、これが良かったのがきっかけということもあります(『三体』は第一巻しか読めてないけれどいつか最後まで読みたいです)。

虚無への供物/中井英夫…有名どころのミステリも読むようにしていました。『すべてがFになる』も良かったですが、やっぱりこれが傑作でした。

海をあげる/上間陽子…いろいろな賞もとった本ですが、読んでいれば否応なくこちらが動かされてしまうような文章の強さがあります。

紙の民/サルバドール・プラセンシア…凝ったギミックが使われながら、単純におもしろい!という感じの小説でした。

本を書く/アニー・ディラード…奥歯の紹介で知った本でした。書くことについて書かれている本はいろいろありますが、そのなかでも特に真摯なものだと思います。

映画

61本しかみれてないです。

シンエヴァロメールの『モード家の一夜』、タルコフスキーの『鏡』がよかったです。

 

買ったもの

Air pods pro…生活必需品になりました。これなしで街を歩けないです。

nintendo switch…12月31日に思い切って購入。よかったかどうかはまだわかりません(飽き性なため)

・マジョマジョの香水…小学生くらいの時からたびたびドラッグストアのテスターをつけてはいい匂い〜とやっていたのですが、買いました。液体タイプの香水は少ないのでいいです。

・サラサナノ…最近好きなペンです。

 

 

その場しのぎで精一杯、という感じの年だった気がします。特に後半は毎日はやく終わってほしいということしか考えられませんでした。2022年3月まではのんびり自由にすごして、4月からはとにかく死なないようにするという感じで頑張りたいです。

2021-12-29(叔母たち/透明)

 

 


乗代雄介の最新の本である『掠れうる星たちの実験』に収められている、阿佐美サーガの書き下ろしの一片「フィリフヨンカのべっぴんさん」には、景子が叔母のゆき江に生前貸した最後の本が『違国日記』の第一巻であることが書かれている。

2020年1月23日の私の日記によると、たまたま書店で買い求めた『最高の任務』と『違国日記』が両方とも叔母と姪の関係を描いた物語であることの偶然に驚いている。

 

槙生ちゃんとゆき江ちゃんって、ちょっと似てない?でも身長がぜんぜん違うね。そんで、ちゃんと友達がいるね。あと、槙生ちゃんは小説家だけど、ゆき江ちゃんは絶対書かないでしょ。でも姪っ子に日記書いたらとか言うのは同じだ。訳わかんないこと言って考えさせるのも一緒。だいたい、叔母って無責任なんだよね。


という言葉を景子はゆき江に直接ぶつけることはなかった。朝とちがって、一人きりで読み、一人きりで書くしかなく、絶対的に取り残されてしまう景子のことがどうにもうかばれないという気がしてしまう。でもまあフラニーが「シーモアと話がしたい」と言うのだって、そのうかばれなさこそが小説の語りの力になるものね。

 

……このような本同士のリンクを読者はひそかにたのしむのだが、本そのものにリンクを貼られてしまうとちょっと拍子抜けしてしまう。乗代雄介はどんどん構造のわかりやすさ、参照項の明快さを心がけるようになってきている気がしていて、「こう読め」と言われているような気がしないでもない。


本同士のリンクでいえば、スタロバンスキーの『透明と障害』をちまちま読んでいる間に伊藤計劃の『ハーモニー』を読んで、これはルソーの目指す「透明」が描かれているではないかと思った。でも「ルソー ハーモニー」でTwitter検索したらツイートがそこそこあったので割とみんな考えることだったっぽい。

2021-12-18(メランコリー/ジェンダー)

卒業論文を提出した。
テーマ自体は一年以上前からずっと変わっていなくて、最初からこういうものが書きたいというヴィジョンがなんとなくあったけれど、それを秩序立てた論文の体裁にするということが難しくてそれなりに苦しかった。でもなんとか書きたいことが書けてよかった。ものすごく丁寧に添削をし、助言をしてくれる先生が現れなかったらたぶん書けなかっただろうと思う。大学で書いてきたレポートは本当に読まれているのか?と思うことも多くて、文章レベルの添削なんてこれまでほとんど全くうけられなかったので、卒論でそういう体験ができたことは本当に良かったし、こういう体験ができるならば大学院に行ってもいいかもしれないなあと思った。
ジュディス・バトラーにおけるジェンダー・メランコリーの系譜学」という題目で、ざっくりいえばバトラーにおけるメランコリーの概念を拾って、バトラーが精神分析フロイトラカンアブラハム&トローク)をどう受け取ってどう批判したのかということを書いた。フェミニズムクィアスタディーズを知りたいならまずバトラーは基本!とよく言われているけれども、精神分析を忌避していたらバトラーの理論は半分もわからない(それなのにあまり論じられない)という実感があり、精神分析が重要だということはわかるけれどどう重要かを理解して書きたいという動機があった。
第一章フロイトのメランコリー論(喪とメランコリー、超自我の問題、エディプスコンプレクス)、第二章バトラーのフロイト批判(ジェンダー・トラブル2-3あたりの議論、パフォーマティヴィティの説明)、第三章バトラーのメランコリー論の展開(ラカンの議論(問題=物質となる身体の第二、三章の議論)、体内化(アブラハム&トローク)とアレゴリー(すこしベンヤミンの話)について、バトラーの倫理論的転回、哀悼可能性、アンティゴネーについて、竹村のバトラー批判など)とざっくりこのようなことを書いた。文字数の割に書きたい内容が多く最初は「アイデアに言葉が追いついていない」と言われていて、完成稿も依然そうだとは思うのだが、でもとくに第三章の議論ができたので概ね満足している。アブラハム&トロークの議論はほとんどだれもしていないと思うし、バトラーがメランコリー(および哀悼可能性)の概念を中心にしながら「倫理論的転回」をおこなったことと、その議論のあやうさ(竹村が『境界を撹乱する』の「暴力、その後」という論文で指摘している重要な論点)などが書けたことは良かった。
わたしはあまり自分のことをクィアと呼ぶに値しないと思っていて、そのような人がバトラーを論じていいのかという迷いはずっとあった。大学一年の時からずっとなんとなく気になっていて、私が書けることがあると思えたのがバトラー、というだけだったし、大学院で同テーマを扱うとなればできないことはない(バトラーが参照している議論は未邦訳のものもたくさんあるのでそれを拾えればよりよくなる気もする)けれど、そんなに私がやる価値があるとは思えない。でもメランコリーは自責の病で、超自我のつよい状態(=社会的な規範性を強く身体化している)を生きている自覚はあるから、それなりの切迫した問題意識はあったと思う。

書き方については試行錯誤の連続で、最後は己の怠惰さを呪い続けた。時間&気分の管理としては、停滞している時は一日の文字数ノルマを決めて無理やり書くこと、論文に関わることに全く触れない日をつくらないこと、机に向かっている時間を計測すること、などがコツだったが、あまり頑張れなかったというのが本当のところだ。書く方法としては、関連の論文や書籍の内容をB6サイズのルーズリーフにメモする、書くべきトピックや文章構成のメモの付箋をつくるなどしたが、とくにこれがよかった!という方法はなかった。たぶん私はアイデア出しとかは得意だけどそれをひとにわかるように論理構成するというのはあまりできなくて、そこをかなり先生に頼ってしまった。アウトライナーは使いこなせなかったので、紙にこまかくトピック分けして書き出してあれこれ入れ替えるしかないのかもしれない。論文を書く機会はなさそうだけれど、このブログで公開できるような自由研究はし続けたいと思っている。ひとにわかるように説明するのは大変だけれど、結局それくらいできるようにしないと理解できたことにならないというのは真理なのだろう。