2019-08-10(小説のミンチ/本質主義)

 

 

夏休みなのになんだか忙しい。毎日何かしら予定があってこんなに暑いのに外に出ている。まあだいたいは労働である。今勤めてるところに勤めだしてからもうすこしで一年くらいで、今のところ何の問題もなく、むしろうまいことやっているけれどちょっと飽きたし、教える時間が長くなって責任が増してきたので逃げたくなる。

 

この本は読んだー?と聞かれるとだいたい読んでなくて、うっ、となって焦る。著作名と著者の名前だけは知っていて読んでない本がもうほんとに山ほどある。本を読むことは娯楽であってほしいのにほとんど義務みたいになっている。負けず嫌いなので頑張って読みますけど。(でもなにに負けるというのだろう?)

本は本の中で完結しているので、小説について書いたり語ったりするということは小説のなかのものを現実に引き摺り下ろしてミンチにするようなもので、小説にとってはあまりいいことではないのかもしれない。それをやるなら小説がもっと魅力的に見えるようなかたちでやりたい。小説の読書会ってよくわからなくて、小説内の記号や比喩を暗号みたいに他のものと照らし合わせて読み解いていくのは、あんまり面白くないと思う。人称や構造などの普遍的な形式について語るのはわりとやりやすいことなのだ。でも小説の魅力はきっとそこじゃない。

難しくない本は一人でも読めるので、比較的難しくて語りがいのある小説が読書会には選ばれることになる。難しく書かれてある本には二種類あると思っていて、作者が難しくして読めなくしてやろうと読者に対してすこしの悪意をもっている場合と、作者自身の切実な思考をそのまま写しとったら結果的に難しくなってしまった場合がある。どちらにしてもあんまり、読み解いてやろうという気になれないのにかわりはないが、どちらかといえば後者の方を読みたい。それをいかに普遍的な定式にあてはめずに語るか、ということなんだと思う。

さいきん、わたしはめちゃくちゃな本質主義者なのではないかという疑惑がある。女性の書いた文章しかわかった気がしない、とか前から言ってたからそれはそうという感じなのだけれど。バトラーがセックスは常にすでにジェンダーであるとか言っていても、うん、でもそこに違う身体をもった人が…と思ってしまうのだ(bodies that matter はやく訳してほしい)。たぶんそこらへんを克服するのに精神分析が鍵になっているっぽいのだということはわかっても、精神分析の理論がわからなすぎるので尻込みしてしまう。いや、ファルスとか言われても…(同様に、作者の死とか言われても…)。