2019-07-20(比喩/共同体)

 

ブログを開設して半年が経ったらしい。文章を書くことがとにかく苦手で(書かされていた読書感想文は本当にトラウマにちかい)、でも書けるようになりたくてはじめたものだったが、意外と続いている。「よくわからない比喩」というのは、本当になんとなく書いてしまったのだが、小説にしろ詩にしろ、とにかく比喩がわかるかわからないかということが文章の質と読者の質を決めているのではないかと漠然と思っていたのだった。そしてわたしは比喩を受け取る力がない。

柄谷・蓮實の対談『闘争のエチカ』を読んでいたらこんな記述があった。

柄谷:比喩は共同体のなかで通じるだけです。(略 吉本隆明ディスりが続く)

蓮實:比喩というのは、結局二つの問題でしょう。その二つの問題の間に納得すべき何かを設定するという作業があるわけですね。ところが納得できない比喩というものがあるわけです。これは比喩が下手とかなんとかいうわけじゃなくてね。僕は、文学というやつは、納得できない比喩が物語化されたものだというふうに普通考えるわけです。つまり、それは誰も今まで言わなかった比喩とか、そういう話ではないわけです。よく比喩の話をすると、誰にもいままで使われてない比喩を使うのは詩的だけれども、それが使われた瞬間から詩的でなくなるとかいうけれども、そういう話では全然ないわけです。さっき記号を殺すとか、記号を無にしちゃうとかいうことを言ったのは、比喩そのものがまず納得できない、共同体的にそれは認知されたものではないということですね。(略)

柄谷:ふつうの比喩は、「物」をめぐっているにすぎないと思うのです。「物が在る」ということをめぐっているのではない。この前も言ったけれども、小説というのは「物が在る」という出来事にかかわると思うんです。それまでは、「物が在る」にもかかわらず、それを物語や構造に解消できた、あるいはできると考えられた。しかし構造に解消できないようなかたちで「物が在る」。小説の小説性というのは、「物が在る」という事実の、どうにもならないこと、そのことだと思うんです。

わたしが比喩を「わからない」と思っているのは、共同体に属せていないからであって、それはどこかで属したくないと思っているのだから当たり前なのかもしれない。

特にこれから公式に?文章を書くということもないだろうけれど、本名は珍しくて嫌だし名前を考えるのが好きなので筆名をちゃんと考えた。茅野未由(かやのみゆ)です。このブログとかツイッターもいつまで続くのかもわからないし、ブログやツイッターを超えたことをするのかもわからない(でもやってみたい)けれど。レポートや試験から解放されて夏休みが来たら、例えば私的フェミニズムブックガイドを作るとか、『ジェンダートラブル』のちゃんとしたレジュメを作るとか、松浦理英子の素晴らしさをちゃんと語ってみるとか(いまレポート苦戦してるけど)したい。言うだけ言ってみる。松浦理英子金井美恵子も今のわたしの年齢の頃にはもうあんなに素晴らしい小説を書いていたわけで、わたしは小説や詩は書かないと思うけれど、せめてなんらかの文章を残しておきたいなという意気込みだけがある。