2019-05-06(歌/宗教/消費)

 

 

誰のために歌うのか。自分のため?観客のため?作曲者のため?故人のため?わたしは常に神へと歌いたい。それは誰のためにでもない、と同義かもしれない。歌うを書くに置換しても同じことが言えるだろうか。音楽の神様とか小説の神様(小川洋子小説の神様にむけて書いている部分があると言ってたっけ)とかいう表現もあるけれどそれはあまりぴんとこない。それこそ全能のひとつの神、という感じがする。

前にも書いたけれど、キリスト教の宗教曲を歌うことへの違和感というか、本当にいいのだろうか冒瀆になりはしないかという迷いがある。キリスト教徒じゃないとミサを歌ってはいけないなんてことはないし、日本で歌っている人のたぶん5パーセントもキリスト教徒ではないだろうけれど、ただの発音として祈りの言葉を処理していいのかという葛藤。ここら辺のことは須賀敦子をもうちょっと読めばすっきりしてくるかもしれない。

 

ゴールデンウィークは家にずっと父親がいたせいでうるさくて母親も機嫌が悪くてとにかく家が最悪だった。大学図書館以外に落ち着いて本が読めて物が書ける場所を本当に欲しているけれど、それは環境のせいにする甘えだろうか。

 

前から楽しみにしていたのに結局文フリには行かなかった。情報を受け取って消費するだけで、発信しないことに対する罪悪感がなんとなくある。書かないのはただの怠慢と言われてもしょうがないとおもう。なにもやってないなんてことはそんなにないはずなのに、やってないことばかりが目についてしまう。とりあえず規則正しい日常を取り戻す。